一日目
0
わたしにとって、この穏やかな毎日はとても幸せなのです。
何も知らずに過ごすより、知って後悔することを選びたい。
だって、後悔することは辛いけれど、何かを学ぶってことだから。
1
最後の洗濯物を干し終わって、わたしはぐいっと額を手の甲で拭った。
うん、上出来。
一人で満足しながら洗濯かごを片づけに、家の中に戻った。
「今日のニュース……あ、もうこんな時間!」
時計に目をやって、慌ててかごを放り投げる。
今日は商店街のお魚屋さんが、安売りをする日。
ま、間に合うかな。ううん、間に合わせなくちゃ。
今日のお夕飯は煮魚、なんだから!
お財布を持ってカバンに入れて、帽子をかぶって、それからお水を一杯飲んでから、わたしは慌ただしく家を出た。
カギはオートロックだから、こういう時はちょっと助かっちゃうな。
走りながらカバンを肩から斜めに掛けて、坂を思い切り下る。
今度奏さんがお休みの日に、また買い出しに行っておこう。昨日見たら冷蔵庫の中、残り少なかった。
「おはよう、光ちゃん。朝から元気だねえ!」
「おはようございます、おばさま!」
坂を下りきって商店街までの道を駆け抜けながら、そうあいさつを交わす。
みんな、良い人ばかり。
三か月前奏さんに拾われただけの、見ず知らずのわたしにもやさしく接してくれる。
温かい人たちばかりだと、思う。
そこで、信号に引っかかったので、いったん止まる。
はう、なんか……急ぎ過ぎたかなぁ。
呼吸を整えながら、信号待ち。
青になったから、今度は走らずに歩いて渡る。
坂を下りて信号を超えて、まっすぐ突っ切れば商店街はすぐ。
でも、週に一度の開店から十分間のお買い得セールは……もう間に合うかどうか微妙なところ。
だけど奏さんに、あまり激しい運動はするなって言われているし。
「間に合わなかったら……はう」
だめかもしれないけど、間に合わなかったら頼み込んでみよう。
帰ったらお掃除して、空気の入れ替えをして、それからにゃんこのねこ――これがお名前――と一緒に公園まで日向ぼっこに出掛けよう。
「おやあ、光ちゃん! 今日も早いねえ、おはよう」
「おはようございます、お魚屋さんのおじさま。まだ間に合いますか?」
「ああ、もちろんだとも。買っていくかね」
「はい! そのために頑張ってきたんですよ」
たどり着いたお魚屋さんには、もうたくさんの主婦の皆さまがいて、少しだけスタートダッシュを間違えたみたいだと反省。
でも、カレイと鯛とほたてはあるからそれをお願いする。
「今日の夕飯かい? 氷室先生にはいつもお世話になってるから、いいの持っていくといい!」
「わわ、ありがとうございますっ!」
お金を払って、お魚さんをもらう。朝水揚げしたばかりの、新鮮なお魚。
港の朝市には絶対に起きられないから、こうやってお魚の日は頑張る。
奏さんに、少しでもおいしいもの食べてもらいたいしね!
「あ、あーあーっ、光ちゃんちょっと待って!」
「ふに? どうしたんですか、お魚屋さんのおばさま」
「親戚からザクロをもらったんだよ。食べたことないだろうと思ってねえ、おすそわけ」
「ざくろ……。わあ、ありがとうございます! 奏さんと一緒に食べます」
「うんうん、そうするといいよ。あああ、引き留めてごめんね。今日も頑張って!」
「はい! わざわざありがとうございました!」
ビニールの袋に入れられた、大きなざくろ二つ。それから、買ったばかりのお魚さん。
なんだか嬉しいな。ざくろって、食べたことないし、見たこともなかったから、わくわく。
奏さんは知ってるのかな、食べたことあるのかな。帰ってくるのが楽しみ。
でも、ざくろって秋のものじゃなかったかな。こんな春先に、実るのかな。
ううん、それでも、わざわざくれたんだもん。おいしく頂きます。
それにしても、お日さまあったかいなぁ……。お掃除の前にお布団干したら、ふっくらしてよさそう。
そんなことを考えながら上を向いていたから、前から走ってきた人に気づかなかった。
「うわっ!?」
「はにゃっ」
たぶん、相手はよけたんだろう。でもわたしがふらっとよけた方向に行っちゃって、それで、正面衝突してしまった。
ざくろとお魚の袋は離さなかったけど、そのせいで受け身がとれなくて世界が反転した。視界いっぱいに青い青い空が広がる。
あ……倒れたんだ。
後頭部に、鈍い鈍痛。たぶん、打った。ごんって奏いた音は、その音だろう。
「悪いっ、大丈夫かっ?」
ぶつかった人の声が、焦ったようなその声が耳を打つ。
あれ。
「いたい……」
「なっ、頭打ったか!?」
ちがう。頭じゃない。打ったところじゃ、ない。
胸の、おく。心臓の位置。体のまんなか、そのあたりが、ツキン。
針を思い切り差し込んだみたいに、小さくいたんだ。
「ごめんなさい、大丈夫です」
とりあえず起きなくちゃ。
いつまでも倒れたままでは危ないので、ぶつかった人に手伝ってもらってぺたんと座るかたちで起き上がる。それから、立ち上がる。
視界がぶれることも、暗転することもなかったので大丈夫。
ぶつかった人は、男の……子?
「悪い、急いでたんだ。ホントにだいじょうぶか?」
野球帽で隠された薄い茶髪に、珍しくもないあおい瞳。
どこにでもいそうな、男の子。
「あ、だいじょうぶです…………あのっ」
「ごめん、時間ないんだ。今度もし会えたらそん時に!」
ええええ!?
どこか感じた違和感を、本人に直接聞いてみようと思ったのに。
急いでるんだろうな、大急ぎで商店街そばの交差点を曲がって行った。
そ、そんなことよりっ! 今度なんてないだろうから、聞いたのに!
はう。仕方ないから、彼のいう今度を期待しよう。
ああっ、そんなことよりお魚さんが天然煮物になっちゃうっ!
あのとき感じた胸の痛みも気になるけれど、でも今はお夕飯の方が優先。
わたしも急いで、家路を駆け抜けた。
お日さまはもう、高く高く、上がっている。
2
お魚さんを冷蔵庫に避難させて、ざくろを日陰において、お布団を干してからわたしはねこを抱いて公園に出かけた。
家に帰ったら十一時を過ぎていて、びっくりしてしまった。
お昼御飯はお散歩から帰ってから、なんて思ってたのに。
仕方ないからねこのご飯とわたしのご飯を持参。ご飯といっても、サンドウィッチとサラダだけだからとってもお手軽。
日差しが少しきついから、木陰のベンチでれっつお昼ごはん。
「にあ〜」
「うんうん、待ってね。ちゃんとねこのも持ってきてるんだよ」
ベンチにねこを下ろして、撫でてからご飯をハンカチの上に広げてあげる。
くんくんと少し匂ってから、かりかりといい音をさせて食べ始めた。
「それじゃあわたしも、いただきます」
両手を合わせて浅くお辞儀。
それからサンドウィッチを口にする。うん、おいしい。
「あら、光ちゃん、今日はここでお昼?」
「風子さん」
もくもくと一心に咀嚼をしていたら、風子さんがいつも通りの黒いワンピースとサングラスでわたしたちのベンチにやってきた。
いつも思うけど、お医者様が黒い服だとなんだか怖いなあ。
よく見ると赤の強い栗色の髪は、毛先が完全な赤に変わっていた。染めたんだろうか。奏さんが見たらため息つくんだろうな。
「あたしにもちょうだい?」
「良いですよ。何がいいです? トマトと、タマゴと、コロッケです」
「凝ってるわね。じゃあタマゴ。低カロリーじゃないと、太っちゃうもの」
くすりと擬音がつきそうな笑みを浮かべて、風子さんは唇に弧を描いてサンドウィッチをひとつつかんだ。立ったまま食べるのは、お行儀悪いのに。
風子さんはもう少し、太った方がいいと思う。だってあんまりにもスタイルがいいんだもん。羨ましい。
「太ったら女は泣くものなのよ、光ちゃん」
わわっ、なんで考えたこと分かっちゃったんだろう。
一口で食べてしまったサンドウィッチを名残惜しそうに飲み込んでから、風子さんはちょこんとわたしの隣、ねこをはさんだ横に座った。
「それより、そーくん知らない? お昼一緒に食べようと思って病院前で待ってたのに、急用だとかで午前中に抜けてたのよう」
風子さんは、奏さんのことをなぜかそーくんと呼ぶ。「かなで」と読めなかったから「そう」と呼んだのが始まりなのだと、この前教えてもらったけれど。
「そうなんです? わたし、なんの連絡ももらってませんけど」
変だな。奏さん、いつもなら病院抜けたり途中で帰ってくる時は必ず連絡をくれて、家に一度帰ってきてくれるのに。
それとも、すっごくすっごく急がなきゃいけないことで、事後連絡になるのかな。
メールと着信の履歴を確認してみる。該当なし。今日の着信は皆無です。
うにゅう……。
「電話もメールもないですよ? もう戻ってるんじゃないです?」
「そうかしら。だったら良いんだけど」
あたし今日非番なの。そう言いながら優雅に息をひとつこぼして、いつの間にかサングラスを外していた風子さんは膝に頬杖をつく。
奏さんとは違う、呆れたため息じゃない困ったため息。
深い感情のこめられたそれに、わたしは少しだけ苦笑いを、浮かべる。
「風子さんは、本当に奏さんが好きですね」
「あらあ、やきもちかしら? 残念ながら、光ちゃんには負けるわよ。あたしとそーくんは幼馴染とライバルを兼ねてるんだもの、相手の行動は把握しておきたいじゃない」
それを好きって言うんだと思うけどな。
それにわたしは、奏さんが好きなんじゃなくて、拾ってくれて面倒を見てくれる奏さんにご恩返しがしたいだけで。
そのことは、以前風子さんにも話したと思うんだけど……忘れちゃったのかな。風子さん、ささいなことは忘れやすいし。
「忘れてなんかないわよお。ただね、そーくんに全幅の信頼を置いてるあなたがすごく不思議なの」
「不思議、ですか?」
「そう。三か月前に初めて会った、しかも見ず知らずの得体のしれない男のこと、好きでもなきゃそんなにも信用できないわよ。あんな仏頂面した無愛想男」
最後は本音なんだろう、とても重い感情が見えた。
でも、それはわたしにも言えること。
見ず知らずの得体のしれない、倒れていたわたしを拾って面倒を見てくれた奏さん。初めて会ったのは意識がはっきりした次の日だったけれど、とてもよく覚えている。
「体調はどうだ、何の問題もないか?」
「は?」
「奏さんが、起きたわたしにかけた第一声です。医者としての職業病に目覚めちゃってた人のこと、どうして疑えるんですか」
ほんとう、びっくりしたな。
追手じゃないかと警戒したわたしに、コーヒーを飲みながらただそう言った。
わたしの警戒くらい分かっているはずなのに、そんなことには気にもとめず、まっすぐな眼で、ただただそう言った。
だから、疑う必要なんてなかった。
「そーくんらしいわねぇ……。ま、光ちゃんがそこまで信用してるってんだから何も言わないけど、もし何かされそうになったらいつでもあたしの所に逃げておいでなさいな」
「何かって?」
「アブナイコトよ」
「別に脅されたりとか、してませんけど」
家事とかだって、わたしがお願いしてやらせてもらっているんだし。
「それなら良いわ」
失笑しながら、風子さんは立ち上がる。
あ、お話に夢中でご飯食べれてない。
ねこは食べてすんでて、もうお昼寝の体勢になってるのに。
「お昼、邪魔してごめんなさいね。あたし、そろそろ行くわ」
「風子さん、お話ありがとうございました。奏さんが帰ってきたら、風子さんが探してたこと伝えますね」
ひらひらと手を振って、サングラスをかけなおした風子さんは颯爽と公園を出て行った。
はう……。あんなふうにきれいなお姉さんになれたらいいのになあ。
憧れは、しょせん憧れ。不可能だからこその、憧れ、なのかな。
それにしても、風子さんと話したりしても全然痛くないのに、どうしてさっきの男の子に会ったときだけ、あんな痛みがあったんだろう。
どこか壊れたんだろうか。まさかとは思うけど、故障、とか。
「にう……」
「ううん、なんでもないよ。気にしないで」
胸を押さえたら、ねこが心配そうに顔をあげた。
眠そうな顔なのに、どこか真剣なまなざしに少しだけ奏さんを思い出して、思わず微笑みながら頭を撫でてあげる。
柔らかい毛並みが、てのひらに触れてぬくもりを伝えてくれる。
大丈夫。何があったって、わたしは平気。
だってこんなにも、わたしは許されている。それだけで、わたしは強くなれる。胸の奥の一抹の不安も、今は、気づかないふりが出来る。
「帰ろう、ねこ。お夕飯の準備をしなくちゃ。お外で寝たら、風邪をひいちゃうんだよ?」
手早く片づけを済ませ、わたしはねこを抱きあげた。
ふんわりとしたその毛皮に顔をうずめながら、わたしは家までの道をゆっくりと歩き出した。
3
「ただいま」
夜、いつものように本を読んでいたら。
きい、とリビングの扉が開いて、スーツ姿の奏さんが姿を現した。
「おかえりなさい、奏さん。お風呂とお食事、どちらにしますか?」
本にしおりをはさんで閉じて、聞きながら席を立ちご飯を温めなおしに向かう。
「…………」
「奏さん?」
あれ、黙っちゃった。今日はお風呂の用意とご飯の用意が重なったから聞いただけなんだけど……変なこと言ったかな。言葉の使い方は間違えていないはずだし、質問文の作りもおかしくないはずなんだけど。
そう思って奏さんを見つめていると、小さく苦笑いを浮かべながらカバンをソファに置いた。
「いや。先に風呂に入ってくるが、今の発言は不用意にしない方がいいぞ」
「? はい、分かりました。次は気をつけます」
お風呂場に向かう奏さんを見送りながら、少し首をかしげる。
今の言葉は、どういう意味だろう?
ご飯とお風呂の準備はなるべく重ならないようにするべきだったのかな。
確かにご飯を先にすればお湯が冷めちゃうし、お風呂を先にすればご飯が冷めちゃうかも知れないけど……はう、難しい。
温めなおしながら、わたしはひとつお勉強した。
さて。ご飯の用意もおーけいだし、奏さん、お風呂に入ったら三十分は出てこないし。
ゆっくりしながら今のうちにニュースでも確認して…………あれ?
メールだ。受信を確認。
こんな時間に誰だろう。風子さんかも知れないけどあの人なら電話するだろうし、心当たりといったらあとは奏さんぐらいだけど当の本人はお風呂だし。
ソファに身を沈めながら、メールの確認をする。差出人のアドレスは、全く知らない人のもの。スパムメールか何かかな。わくわく。
あ、でも間違いメールだったらどうしよう。そういうのがきたら無視するよう言われているけど、間違いだったら相手の人困るだろうし。
なんて思いながら開く。ウイルスなどの危ないものはついてなかったから大丈夫だろう。
「あれ?」
なかは、空っぽだった。
なにも書かれていない、空白だらけ。スクロールの必要もなければ、文字反転の必要もなし。本文バイトは、零。
書き忘れとか、そんなものだろうか。それとも間違って送信した、とか。
「なんだろう、これ。間違いにしては変なメール……」
心当たりは全くないので、削除してきれいさっぱり消してしまう。
不思議なこともあるんだなぁ。空っぽのメールなんて。
はう、一息ついてからインターネットに接続、今日のニュースを確認することにした。
あまり変わり映えしないニュースばかり。平和であることこの上なくて、なんだかちょっぴり嬉しかった。
こんな風に穏やかで優しくて、幸せな日が毎日続いていけばいいのに。そんなことはないと分かっていても、いつか途切れてしまうものだと分かっていても、思ってしまう。幸せな日々が、途切れることなく続いていきますように。
時間がたてばたつほど、いろんなものが変わっていく。それは当然のことだし、変わらなきゃいけないことだと思う。
だけどきっと、変わらないものはどこかに必ずあって、一人一人、気づいていないだけで守られているんじゃないかな。
気付かないほど、当たり前で。
気付けないほど、当たり前な。
「大丈夫か?」
「……わわっ! 奏さんっ、いつ出てきたんですか!?」
び、びっくりしたあ!
目の前に、奏さんの顔のどあっぷ。真っ黒の瞳が、まっすぐにわたしを射抜いていた。
お風呂あがったことにも気付かないなんて。それよりもあっという間の三十分に気づかないなんて!
「ごめんなさい、すぐご飯の用意します!」
勢い込んでソファから立ち上がろうとしたら、奏さんが大きな手でそれを止めた。
「いや、良い。疲れてるんだろう。用意くらい私でも出来るから、光もお風呂に入ってきなさい」
「奏さんの方がお疲れのはずです。わたしは大丈夫だから、気にしないでください」
「私は医者だ。体調が良くないだろうことくらいは察することが出来る。いいから、ゆっくりすること」
頭を撫でられて、小さく微笑まれたら、わたしには何も言い返せない。
沈黙を肯定と受け取ったのか、奏さんはソファから離れてご飯の準備をしに行ってしまった。
役に立てない、なあ……。
こうやって気遣ってもらえるのは嬉しいけど、わたしはお世話になってるわけだし、これ以上迷惑かけたくないのに。
「光」
「あ、はい。すみません、失礼します」
ここで考えてちゃいけない。急いでお風呂場へ向かうべく、わたしは部屋を出た。
薄暗い廊下を歩いて、部屋に行って自分の分のバスタオルを取ってくる。
服を脱いで、洗濯機に放り込む。予約をかけて、明日の朝に稼働するよう設定した。明日も快晴。お洗濯日和。
お風呂場のドアを開けると、暖かい蒸気が身を包む。
奏さんはわざわざお湯の入れ替えまでしてくれたらしい。少し熱めのお湯が、浴槽いっぱいに張ってあった。
入浴剤を入れて混ぜながら、思う。
いい人だなあ、と。
わたし、奏さんに拾われて良かったかもしれない。
知りたいことをたくさん知れたし、外の世界がこんな風に穏やかだってことも分かった。
周りのおばさまたちだって優しいし、風子さんも大人の女性って感じで憧れだ。
すごく、すごく穏やかな場所。
こんなにも暖かい思い出ばかりもらって、良いのかなって思うほどに。
わたしが止まってしまう日は近いけど、でもそんなのちっとも構わないくらいに幸せ。
それは、本心だ。
それは、本当だ。
だからこそ、迷う。
だからこそ、惑う。
わたしは、ここにいてもいいのかな。
わたしは、ここに居てもいいのかな。
確かにわたしは奏さんの傍に居るけれど、わたしは要るのだろうか?
必要と、されているのだろうか?
「分からない、な……」
きっとそれは、分からないだろう。
きっとそれは、解り得ないだろう。
だからこその、渇望だ。
だからこその、切望だ。
それくらいは、わたしだって分かる。
でももう少し。
もう少しの間、こうして生きていたいと思う。
思ってしまう。
思ってしまった。
だから。
「そろそろ出よう……のぼせそう」
だから、これはわがままなんだ。
「あ」
「え……」
お風呂場のドアを開けたら、奏さんと鉢合わせした。
「はうああああ!!」
思い切り扉を閉めて浴槽に飛び込む。
色のついたお湯は、大きな飛沫をあげながらもわたしの体を隠してくれた。
扉の向こうで、奏さんの焦った声がする。
聞こえないふり。
聞こえないふり!
「とりあえず弁明は良いですからここから離れて下さいですよー!!」
でないといつまでたってもお風呂からあがれません!
これが風子さんの言ってた危ないことなら、わたしはもう二度と経験したくない。こんなどっきりいらないです。
お風呂場から去ったのだろう、さっきは気付かなかったけれど、奏さんの気配は消えていた。
はう、次からお風呂あがる時は気をつけよう……。
今度こそお風呂からあがって、脱衣所からバスタオルを取る。
体についた水滴をふき取りながら、さっきのことを考える。
見られてないかな。というか、見てないよね。
奏さんはいい人だもん。きっと、きっと見てない。
大急ぎでパジャマに着替えて、お風呂場の電気を消す。ご飯を食べたら、お風呂掃除しなきゃ。
ぺったかぺったかとスリッパで音を立てながら、リビングに行くまでの気が重い。
そうっと静かに中に入ると、奏さんはソファに腰掛けてテーブルでノートパソコンを操作していた。
「奏さん」
声をかけたら、気まずそうな顔でわたしを見る。
「さっきは悪い。長かったから、のぼせて倒れてるのかと思ったんだ」
困ったような顔をして、奏さんは口元に手を当てる。パソコンの画面の明かりが、横顔を照らした。
うん、そうだ。奏さんは、こんな人だ。
いつだって気遣ってくれる人。
いつだって気にかけてくれる人。
「いえ、いつまでもくつろいじゃったわたしも悪いです。すみません。ありがとうございました」
「いや……。何もなかったなら良いが」
その言葉に、ほほ笑む。わたしは、ちゃんと笑った。
「奏さんは気にしすぎです。わたし、そんなに頼りないです?」
「そういうわけじゃない……はずだ。職業病だと思ってくれ」
やっぱり自覚はしてるんだ。
いいお医者様なのだと、周りの人たちは言っていた。
あいにくわたしは診察してもらったことも入院してしまったこともないので知らないけれど、こんな時は本当にお医者様なのだと思う。
「大丈夫です。壊れないよう調整くらいは、出来ますから」
「……」
あれ。珍しい、言葉が止まった。
いつもは、こんな風に自分を物のように表現することばは嫌がるのに。
わたしとしては本当のことだから、少し、困っていたけれど。
「その言葉は、意味通りだったのか?」
意味通り?
どういうことだろう。
わたしは奏さんに、自分のこと全てを伝えたわけじゃない。黙っていることへの抵抗感はあったけれど、それはわたしのわがままだから、言うつもりはなかった。
だから、奏さんが知ってるはずない。
だから、何を聞かれているのか分からない。
「どういうことです?」
立ちっぱなし、というのも足が疲れてくるので、わたしは奏さんの向かいのソファに座ることにした。
お夕飯、奏さんちゃんと食べたのかな。
それが少し心配。時々、わたしを待って食べてないことがあるから。
「……胸の上の刻印は、あれは」
…………。
ああ、なるほど。
やっぱり、見ていたんだ。見えてしまったんだ。
別に、隠していたわけじゃないけれど、それを言うことは、嫌だ。
何かが変わってしまう気がする。いや、変わらないのかもしれないけれど、わたしの中で何かが変わってしまう。だから。
どうしよう。
言うべきだろうか。言わないべきだろうか。
もう『家出』からずいぶんと時間は経ってる。いまさらいっても問題はないだろうし、大丈夫だとも思う。
だけど、もし。まだ、捜されているとしたら、
「言いたくないことなら、聞かない。それを強制するつもりはないから、気にしないで良い」
わたしの迷いが分かったのか、それとも間を持たせるためにそう言ってくれたのか、奏さんは優しい顔で言ってくれる。
だけど、逃げたらいけないんだろう。
逃げ続けることは、出来ない。
自分の過去を否定することは、出来ない。
自分の現在を拒否することは、出来ない。
べつに、おかしなことじゃないのだから、大丈夫。
「大丈夫。話せます。――――たぶん奏さんは、もう半分わかってると思います。三か月前、ニュースで流れたくらいだから」
それは、本当に偶然だった。
心をもったロボットを。人の孤独を埋められるように、限りなく人に近いロボットを。心を支えるロボットを。――完成した、アンドロイドを。
そんな願いから存在した、小さな研究所。それはどこにでも存在する、機械工学から派生したありふれた研究。
そこで偶然に、自然に、必然で、必至で、奇跡の誕生を果たした一人のアンドロイドがあった。
何をきっかけに生まれたのかは分からない。けれど確かに、ヒトと同じココロを持った。
悲しいことを悲しいと認識して、楽しいことを楽しいと認識できる、子供のように無邪気で害悪のない、キセキのアンドロイド。
小さな研究所で、それは名前もないままヒトに近づくため色んなことを学んだ。研究していた科学者たちは喜んだし、あとはココロを完成させるだけだと励みになったほどの、そんな大きなサプライズ。
「その研究所で生まれたアンドロイドが、わたしです。ここに刻まれてるのは、その証拠であるシリアルナンバー」
左の胸に、赤い文字で刻印された『Android-00-H802-01』というナンバー。
わたしがどうあってもヒトではないのだと、
わたしはどうやっても人にはなれないのだと、
それはいつも戒める鎖になる。
「あのとき、『家出』だと言ったのは?」
「言葉の通り、なんです。わたしの家はあの研究所。それでも、わたしは外に出たかった。たくさん知りたいことがあったし、たくさん見たいものがあった。だから、逃げだしました。みんなが寝ている間に」
わたしは偶然生まれたから、何もかもの調整がうまくいかなかった。
わたしが動ける時間は、少ないことが分かった。
ココロがどこから生まれたのか分からないから、体に欠陥部分が生まれてくる。そこを直しても、やっぱりまたどこかが壊れていく。
でもそれは、奏さんには言わなくていいこと。
伝える必要のないこと。
「ええと、だから……黙っててすみません」
謝ってみるけれど、奏さんは何か考えているように厳しい顔をしたまま何も言ってくれない。
でも、話すことはこのぐらいしかない。
話せることは、この程度しかない。
はう……。奏さんに嫌われるのは、嫌だなぁ……。
「話してくれて、ありがとう。私は今まで通り、接してもかまわないか?」
「え、……あ、はい。それは、わたしがお願いしたいくらいです」
今まで通り、なんて、無理なはずなのに。
だって、知ってしまったら知らなかった頃には戻れない。
なのに、奏さんは戻れる自信が、あるんだろうか。
「分かった。光、話すのに勇気がいっただろう。今日はもう休むといい。どうせ、自分の分の食事はごまかすつもりだったんだろう?」
ばれてる。なんてこと。
じゃあ、ちゃんとお夕飯は食べてくれたんだ。一人分しか用意していない、お夕飯。
ものを食べることは出来る。だけど、水分を中に入れることはできない。
エネルギーへの変換部は、水に弱いから。ちょっとした、トマトとかいちごとか、そんなささいな水分は大丈夫みたいだけど、煮魚みたいにたくさんあるものは駄目。
「わたし、食べなくても二日ぐらいは動けますから」
もちろん、食べなくても生活することは出来る。
でもそれは、わたしの停止時間を早めるだけだから、あまりしたくないこと。
「あとはやるから、今日はもう、おやすみなさい」
パソコンをシャットダウンしぱたりと閉じた奏さんは、ソファから離れて台所に向かった。
片づけ、してくれるんだろう。
その背中は、ここから離れることを、望んでいて。
「はい……おやすみなさい、奏さん」
わたしは立ち上がってお辞儀をしてから、部屋を出た。
少し冷えた空気が、体に刺さる。
温度の変化も、痛みも、香りも、なんだって感じられる。
奏さんや風子さん、ねこや周りのみんなのぬくもりだって分かる。
なのに、それはわたしがそういう風に造られたから、分かって当然のことでしかない。
異質なのだと、理解はしている。
異様なのだと、理解はできてる。
それでも、わたしは――ヒトでありたいと、願ってしまう。ヒトになりたいと、願ってしまう。
壊れることは、止まることは、わたしにとっての死を意味するけれど。
それは、別に怖くない。だって必ず訪れるものだと、教えられているから。
でも、ヒトではないといわれることが、怖い。
部屋につく。入って、すぐにベッドに飛び込んだ。
ふっかふっかしてる。お日さまにあたったから、いいにおいもする。
なのに、なんでだろう。
泣きたいと感じているのに、泣けない。泣くことはできない。
涙なんて、流すことが出来ない。
「あう……」
わたしは。
わたしは、異質の存在なのだと。
眠って夢を見ることもできないし、泣きたいときに泣くこともできない。
ご飯だって食べたいもの全部、食べられないし。飲み物だって。紅茶とか飲んでみたいのに、飲めないし。
そんな制約が、わたしを追い詰めるような気がして。
「奏さんも……わたしを見てくれなかった」
視線、合わせてくれなかった。
それが、辛いよ。
それが、悲しいよ。
わたしは、ねえ、何のためにいるのかな。
もうすぐ止まってしまうのに、いる必要はあるのかな。
どうか、止まらないで。
「お願い神様。わたしを創った神様。誰もわたしを愛さなくていい。誰にも気付かれなくたっていい。一人ぼっちになっていい。ヒトになれなくていいから。わたしに、もう少しの間だけでいいから、生きる時間をください。せめて、わたしにかかわった人すべてに、ありがとうを伝えきるまで、動ける時間をください。そうしたら、わたしは止まってしまっていいから。壊れてしまっていいから。忘れられても――良いから。だから、どうか。神様。お願い」
わたしに、時間をください。