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千年おばばと万年龍  作者: 宇津木涼介
3/3

My name is チャトラン

 後ろ足に体重を移動するやいなや、お尻をぐぐっと高く上げて、前足をこれでもかというぐらいギューッと伸ばす。流れるように前足に体重を移して後ろ足もグイィンと伸ばす。ふわふわと大きなあくびまで加えると、体ばかりか心もほぐれて気持ちがいい。


 涼音さんも、お風呂の後にこんなことをしている。僕の真似でも始めたのかと思ったらヨガとかいうものらしい。僕ほどではないけど、柔らかい体をしている。


 涼音さんの香りの残るベッドを降りて、フィカス・プミラにおはようのあいさつをする。プミラは寡黙

《かもく》だけれど、いつも笑顔を絶やさない。


 少し開いたサッシから心地のいい風が吹き込み、レースのカーテンがふわりと揺れた。食事はあとにして、もう少しだけ寝よう。陽だまりに寝そべり、前足にあごを乗せて目を閉じる。


 カン、カン、カンと、遠く遮断機しゃだんき警報音けいほうおんが聞こえてくる。やがて走りすぎる電車の音。あの雨の夜も僕はそれを聞いていた。プルプルと震える、からだと心で。


 車の通りすぎる音。ずっと向うからバイクの排気音。それが遠のくと風にそよぐ庭木の葉擦れの音。駅に近いのに、この辺りはとても静かな住宅地だ。


 コツコツと靴音が通り過ぎてゆく。女の人だ。それも、若い。涼音さんが帰って来る時もこんな音がする。でも、これは全然違う人だ。涼音さんの歩幅はもっと小さい。


 それにしても、このところ気になって仕方のないことがある。いや、心配といったほうがいいだろうか。そう、涼音さんのことだ。


 僕が初めてそいつを見たのは、いつだったろう。パタリパタリと尾っぽでフローリングの床を叩きながら思い返す。


 ああそうだ、原っぱに黄色いタンポポが咲き始めたころだ。あの頃はまだ冷たい風が吹いていたけど、今はもう暑いぐらいだ。


 あの日の夜、涼音さんはほろ酔いで帰ってきた。


「チャトラぁん、たらいま。ほら、今夜はお客様よ」

 涼音さんの頬はほんのりと赤く染まっていた。


「お、かわいい猫だね」そいつはしゃがみ込み、図々しくも僕の顔を覗き込んだ。

 こら、許可もなく勝手にさわるんじゃない。僕は姿勢を低くして、耳を後ろに寝かせた。

「ごろごろぉ、ごろごろぉ」

 勝手にオノマトペを付けるな。僕は喉なんて鳴らしてないぞ。こら、顔を寄せるな。それに足が臭いぞお前。


「もちろん、君ほどじゃないけどね」

 男の肩越しにふふっと嬉しそうに涼音さんは笑い、そいつも笑った。


 その瞬間、僕はこいつを危険人物だと判断した。だって、笑いに合わせて口角は上がっていたけど、僕を見る目が全然笑ってなくて、真冬のタイルみたいにひんやりとしていたから。


 頭を触るな! 僕がシャーッと言わないだけでもありがたく思え。僕がシャーッと牙をむいたが最後、お前は即死だ。


 僕の食事を足して飲み水を入れ替えて、涼音さんは出て行った。僕が行ってはいけないと訴えたのに届くことはなく、いい子にしてるのよ、と頭を撫でて出て行った。


 その夜、涼音さんは帰ってこなかった。あんなことは初めてだった。僕は涙目で、涼音さんの部屋着をガブガブと噛んでブンブン振り回した。


 涼音さんは毎日ご機嫌だった。時として僕の食べ物のグレードが上がったりしたけど、それはあの胡散臭うさんくさい奴のせいだとわかっていたから、まったくうれしくはなかった。


 だけど、公園の紫陽花あじさいが咲き始めるころから、涼音さんは元気がなくなっていった。僕を抱いて撫でながら、泣いている夜もあった。


 それもきっと、あいつのせいだ。


 にゃご(どうしたの?)

 涼音さんは答えてくれない。僕たち猫は人間の言葉が理解できるけど、人間に猫の言葉は通じない。


 うつらうつらとしながら、僕に何かできないだろうかと考える。そのときふと浮かんだ姿があった。

 そのたたずまいは静かだけど毅然きぜんとしている。それなのに、どこまでもおだやかな目。そのすがたは形容しがたいほどに神々しい。 


 ふいと顔を上げる。そうだ千年おばば様に相談してみようか。この世に千年も生きていて、知らぬことなど何もないという尊い猫さまに。


 おばば様は、僕のことを覚えているだろうか。涼音さんに拾われる前の、ちっちゃな野良だったころの僕のことを。


 思い立ったが吉日。すっくと立ちあがり、プミラに頬を寄せてお留守番を頼むよと告げる。

 風に吹かれたプミラがふるふると手を振り、それを尻尾で撫でて、僕のために少し開けてあるサッシから体を滑り出させた。

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