何より大事なことは保険に入るということ、なのかもしれない
一週間ぶりの学校だ。
全身傷だらけだったが、コンシーラーやら厚着やらを駆使した結果、春先とはとても思えない着膨れ女になってしまったが傷を見られることはなさそうだ。
「アヤ!」
下駄箱で結衣が半泣きで立っていた。
「結衣〜!おはよう!」
「おはよう……!心配したよ……!」
「大丈夫だよ。慣れてるんだ。」
さすがに一週間も入院したのは初めてだったが。
「何があったの?」
「うちのお父さん暴れん坊将軍だから、また暴れてさ。
お母さんによると逮捕されたらしいから、もう平気だよ。」
「ヒエ〜、朝からヘビーだね。」
「もう終わったから安心してよ。」
あの父親が逮捕されたくらいで大人しくなるとは思えなかったが、母があれだけ強くもう大丈夫だと繰り返すなら大丈夫なのだろう。
私は結衣とだべりながら教室に入ると、みんなの視線を一斉に受けた。
「恋ヶ窪さん、おはよう〜!
入院したって聞いたけど大丈夫?」
小平さんが眉を下げてこちらに駆け寄って来た。
どうやら私が入院したことはクラス中が知っているようだ。
「大丈夫。大したことじゃないから。
それよりノート見せてもらってもいい?
結衣字汚いから読めないんだよね。」
「ちょっと!
今回は丁寧に取ったよ!」
「どうかなあ?」
「恋ヶ窪さん……。」
私が結衣とじゃれている後ろから声がした。
この声は……。
「ひ、光ヶ丘く、ん、」
「おはよう。
……大丈夫?」
光ヶ丘くんの麗しい顔が苦しそうに歪められ、私の目を覗き込む。
光ヶ丘くん、顔近い……!
「だだだだだ大丈夫全然元気だから。」
「そう……? 」
光ヶ丘くんはいつも以上に儚げだ。
触れたらそのまま消えていってしまいそう。
「あ、あ、あ、の、光ヶ丘くん。」
「ん?」
「お母さんから、光ヶ丘くんが、助け、てくれたって聞いて、その、あ、ありがとうございま、した。」
「そんな、俺はろくに何も出来なかった。」
彼の悲痛な眼差しは私の胸を射抜く。
苦しい。
「光ヶ丘くんのせいじゃないから、そんな顔しないで……。」
「……恋ヶ窪さんが傷だらけで倒れてるのを見たとき、俺すごく怖かった。」
光ヶ丘くんは私だけに聞こえるような小さな震える声で話す。
彼は私の二の腕、ちょうど大きな痣のある位置に触れようと手を伸ばして、そのまま下ろした。
「きちんと消すべきだったかな……」
「え?」
ちょうどそのとき、チャイムが鳴り響いた。
光ヶ丘くんは顔を上げると「次の授業小テストだよ。」と微笑んで席に着いた。
「あっそうだった!
アヤごめん、ここが出題範囲だよ。
ホームルームの時間に少しでも覚えといたほうがいいよ!」
「ありがとう!……って、これ全然読めない……。」
結衣に渡されたノートには呪文の羅列だった。
これが文字?象形文字の方がまだ読める。
自動筆記でもしたんだろうか。
「……ごめん。その授業寝てたわ。」
私たちのやり取りを見ていた小平さんが黙ってノートを見せてくれた。
そのお陰か、小テストは三分の一解くことが出来た。結衣のノートだったら一問も解けなかっただろう。良かった良かった。
✳︎
一週間入院したこともあり、心身ともに健康である。
さすがに父親に殴られていた時は死にたくなる思いだったが、今は逆に殺してやりたいという怒りで満ち溢れている。嘘だ。
そこまででも無い。もう逮捕されたし、溜飲も下がった。
それにしても今までどんなに酷い怪我でも一週間入院したことなんてなかった。しかも個室。
差額ベッド代とか大丈夫かな。
ぼーっと窓の外を見る。
バスケ部に所属する結衣がグラウンドを走っているのが見えた。
手を振ってみるが、こちらに気付かずに走っている。
「何見てるの?」
「わっ!」
今教室に誰もいないと思ったのに!
パッと振り返ると、光ヶ丘くんだった。
思ったよりも彼の顔が近くにあってよりビックリする。
「ごめん、驚かせた。」
「うううううん、へへへ平気。
あの、結衣、あ、朝霞さんがあそこ走ってて、見てたの。」
「朝霞さん?
ああ、バスケ部だっけ。」
光ヶ丘くんは私の横に立って、同じようにグラウンドを眺めた。
「外周大変そう。
バスケやらせろー!って俺なら思っちゃうなあ。」
「ひ、光ヶ丘くんは、テニス部だよね。」
「そう。色々あって忙しいからあんまり行けてないけど。」
ふと清瀬さんの言葉を思い出す。
彼はとんでもない家柄だと言っていた。
その関係で忙しいんだろうな。
「俺がテニス部ってよく知ってたね。」
「えあっ!?あ、うん。ほら、テニス部のエースだもん。みんな知ってる。」
本当は放課後光ヶ丘くんの後をつけるというストーカーじみたことをやっているうちに知ったのだが……。そんなこと知られたら光ヶ丘くんに軽蔑されるだろうから言わないでおこう。
「エースなんかじゃないよ。経験者なだけ。」
と言うが、彼のサーブレシーブボレーにスマッシュ、磨かれた技は美しかった。
テニスも完璧。彼は超人なんじゃないだろうか。
「光ヶ丘くんはすごいね。」
「……え?どこが。」
「図書室で怪我した時も、お父さんが暴れてる時も、助けてくれた。
あの、本当にありがとう。」
「……お礼なんてしないで。」
光ヶ丘くんの沈んだ声に違和感を覚える。
何故、彼はこんなにも辛そうなんだ。
「ど、どうして?」
「……俺は、君を守りたかった。それなのに、こんな傷だらけで……。」
彼は先ほど触れなかった私の二の腕にゆっくり触れた。
痛みはない。
彼の顔は、朝見た時と同じ悲痛な顔になっている。
「痛かったよね……。ごめん、ごめんね。
もっと早くに君の家に行くべきだった。
もっと早くに行動するべきだった。」
「謝らないで。光ヶ丘くんは何も悪くないんだよ……。」
「違う。本当なら君を傷つけることなく全て終わらせられたんだ。
なのに俺の考えが甘かったばっかりに……こんな……。」
今にも泣きそうな、苦しそうな声だった。
光ヶ丘くんはなんて優しいんだろう。
優しいからこそ、私の怪我を見て苦しんでしまうのだ。
こんなの大したことじゃないのに。
「光ヶ丘くん、あの、もう、傷すっかり良くなってるの。ほら、」
私は袖をまくって彼に腕を見せた。
痣はあるが、薄くなっている。
「ね?全然平気。
それに、あの、今回は頭打ったから気絶したけど、私、普段やり返すし。
熱湯振り回せば、その、撃退出来るの。無理な時もあるけど。
内臓潰れたかけたことだってあるから、本当、今回は軽いんだ。」
「内臓……?それは平気なの?今は?痛みは?」
「痛くないよ。昔のことだし。保険きいて良かったよ。」
あの時は息は出来ないわ血尿が出るわ散々な目にあったが、もうすっかり良くなった。
人間の体って丈夫なものである。
そう伝えたかったのだが、それは良くなかったようだ。
光ヶ丘くんは白い肌をより白くして、さっき以上に悲痛な面持ちになってしまった。
「あの、もう治ったから。
そう、内臓だって簡単に治るの。だから、こんな怪我、あっという間だよ。っていうか、もう治りつつあるし。」
「見せて。」
「え?」
「怪我、全部見せて。」
それは、内臓を見せろということ?
さすがに人類の目にCTスキャンが搭載されない限り無理だろうと思ったが、光ヶ丘くんの表情は真剣だ。
どこか思い詰められているようにも見える。
「あ、え、ん?じょ、冗談?」
冗談ではなかった。
彼は素早く私を捉えると、私が見せた方とと反対の腕の袖をまくった。
「こっちの腕は?ああ、まだこんなに痣が残ってる……。
ごめんね、お腹も見せて。」
彼は抵抗させる間も無く私のシャツをめくった。
私の汚い腹が光ヶ丘くんの美しい瞳に曝け出される。
やめてくれ!ムダ毛処理なんてしてないんだ!
「ひ、光ヶ丘くん……!やめて……!」
「酷い……。こんなに……。」
彼は私に付けられた痣をなぞる。
皮下脂肪が。皮下脂肪がばれる。
なんで運動してこなかったんだろう。
「これ、内臓が傷ついた時の手術の跡?」
光ヶ丘くんの指が私の腹にある、ブラックジャックばりの傷口に触れる。
その瞬間、脊髄に電気が走った。
「そ、そう、あの、もう、やめて……。お願いだから……!
入院食が思ってたよりも美味しくて、たくさん食べちゃったの、だから、今だけ、今だけこんな、お腹タプタプで、だから、とにかく、見ないで……!」
私は光ヶ丘くんの腕を掴んでなぞるのをやめさせる。
彼は苦しげな表情から一変、ハッとした表情になり、私のシャツをさっと下げた。
「ごめん……!」
「いや、その、大丈夫、かな。」
あんまり大丈夫ではない。
今すぐ彼の記憶から私の腹の記憶を抹消してほしい。
「……傷がどれくらいなのか、治りがどれくらいなのか、気になったら頭飛んじゃって……。
無理矢理触ってごめん、本当に。今のは自分でもどうかと思う。気持ち悪いよね。」
「そ、そんなことは、あの、全然無いから!
太ったからお腹見られたのが嫌だったんであって、触られたのは嫌じゃない……」
触られたのは嫌じゃないって。
痴女か?
なんで普段ろくに喋れないのにこういう時スラスラと言わなくていいことまで喋ってしまうのか、自分に腹が立つ。
「あ、嫌じゃないって、へ、変な意味じゃなくて、その、光ヶ丘くんだから、」
ああ、より恥ずかしいことを言ってしまった気がする。
私はもうこれ以上余計なことを言わないでいいように、黙って俯いた。
「恋ヶ窪さん……。
お願い、誘惑しないで……。」
え、と光ヶ丘くんを見る。
彼はやっぱり苦しげな顔をしていた。
どうしたんだろう。
「ゆ、誘惑?」
「恋ヶ窪さんがそうやって許してくれたら、何してもいいんじゃないかって思っちゃう。」
「……でも、何、されても、怒んないかも。」
なにせ光ヶ丘くんだ。
これが別の男ならば私は頸動脈を狙って手刀を食らわせただろうが、彼ならば話は別だ。
そもそも光ヶ丘くんが私に害のある行動をするとは思えない。
「……恋ヶ窪さんはやっぱり無防備だ。」
それはそもそも光ヶ丘くんに対して防備する必要が無いからだろう。
そう伝えようと口を開いたが、声に出すことは出来なかった。
何故なら、彼に抱き締められたからだ。
「へっ……?」
「ごめん。我慢できない。
恋ヶ窪さんのことが好きなんだ。
好きで好きで堪らない。傷一つ付くのも耐えられないくらい。
本当はもっとちゃんと整えてから言うつもりだったんだけど、抑えられない。」
光ヶ丘くんの熱が私に伝わってくる。
それから鼓動も。
私と同じくらい、鼓動が早い。
「ひ、光ヶ丘くんが、わ、たし、のこと、好き、なの?」
「うん、そう。
俺は、恋ヶ窪さん、君のことが好き。」
う、嘘だ。
あの光ヶ丘くんが。
ずっと憧れていた光ヶ丘くんが。
私を好き?
「か、からかってる?」
「本気だよ。」
「で、でも、クラスの女の子達みんな、光ヶ丘くんが好きで、みんな恋人になろうって、必死で、」
そうだ。
彼女達は家柄の良い光ヶ丘くんの恋人になろうと努力している。
そんな彼女達の誰かではなくて、私を好きになると言うのか。
「……俺の周りにいる人達のことだよね。
あの人達は俺のこと好きなわけじゃない。たまたまだよ。」
「えっ、でも、清瀬さんが、」
「清瀬さんの話はちゃんと聞かないでいいから。
あの人適当なことばっかり言うし。」
そうなのか。
清瀬さんもよくわからない子だ。
私は光ヶ丘くんを見た。
光ヶ丘くんも私を見ている。
お互い顔が真っ赤だ。
「俺は本気で恋ヶ窪さんのこと好きだよ。
君が傷つけられたとき、気がおかしくなるかと思った。君を守りたいと思った。」
「光ヶ丘くん……。」
光ヶ丘くんの顔が近く。
そしてもう少しで唇が触れそうなところで止まった。
光ヶ丘くんの熱い息が当たる。
「わ、私も……光ヶ丘くんのことが、す、す、き……。」
私は彼に当てられるように、ずっと溜まっていた想いを吐きだした。
私は光ヶ丘くんのことが好きなのだ。大好きなのだ。
彼は私の言葉に美しく微笑むと「知ってるよ」と言った。
そして光ヶ丘くんの唇が私の唇を塞いだ。