第八話 焦がれ続けた世界
「いつから起きてた」
イーラの話を聞いていたのか。タカトラが気絶していたのは見られていただろう。
相手は魔王だ。イーラの言うことももっともで警戒を強める。
何よりこの状況で一切取り乱さず微笑んでいる少女の様子は、やはり異様に感じた。
どう考えても普通の状況ではない。召喚がどんな状況で起こるかは知らない。
でも突然連れてこられるに違いないのに泣きも喚きもしないとは。アニマの強さはどうあれ、こんな弱そうな女が平常心を保てるものだろうか。
「おい、なんとか言え」
銃を突きつけようとして、迷った。まだ脅かす段階じゃない。味方だと思わせたほうがいい。いや、待てよ。もしイーラがやったことに気づいていたらタカトラを油断させておいて攻撃してくるかもしれない。
どちらとも決めつけられず、銃は下ろしたまま距離を保って警戒態勢を続けた。
魔王は何も答えないのかと思えば、立ち上がり手振り身振りで何かを訴え始めた。唇も動いている。
声が届いていないのだ。
結界の作用だろう。
「なんだ。話、出来ないのか」
意思疎通が不能なら互いにどうしようもない。
それにタカトラには何の決定権もない。早くイーラに報告するのがしもべとしての務めだ。
少女がどう処理されるのかは予想だに容易い。見過ごすのも簡単で、でも彼はイーラに目をつけられた『敵』を出来る限り逃してやりたいと思ってしまう。失敗して、結局は自分の手にかけることになるかもしれなくても。
「……あんたが大人しく従ってくれるなら出来る限り殺されはしないようにしてやる」
傀儡になれ、と。
「死ぬよりはマシ、だろ?」
いいや、タカトラなら死んだほうがマシだと叫ぶ。身体も意思も好き勝手に使われるなんてごめんだ。
でも死にたくはない。ましてこの少女は何も知らない。知らないまま死ぬなんて。自分で選べもしないなんて理不尽だ。
「俺にはどうすることも出来ない、悪いな」
結界の中で少女は首を傾げて微笑んだ。仏頂面で口を固く結ぶ青年に何の疑いもなく、そこにいる。そうすることしか出来ないのだとしても少女の様子はタカトラの罪悪感を募らせるには十分だった。
魔王ならもっと魔王らしく怒りに任せて術を使うなり、破壊に身を任せるなりして恐怖にものを言わせてくれたら良かった。力を見せつけ、偉ぶって、脅して殺す。そういう魔王ならタカトラだって殺すのに躊躇しなくていい。
でも魔王がそうと限らないことはタカトラがよく知っている。
父は術を見せびらかして使うような人ではなかった。おおらかで怒るところをほとんど見たことがない。タカトラにだけでなく誰に対してもそうだった。
――だからもういない。
「あんたがイーラより強かったら良かったのにな」
桜色は心を惹く。
父が桜を好きだった。
いつか見てみたいと願っていた。
この世界にはないもの。
術も声も届かない魔王につい警戒心も緩み、彼は結界の目の前まで来て彼女を見ていた。
見上げるまんまるの瞳は想像よりももっと妖艶な光を持つ赤みを帯びた紫だ。中を覗き込めば魂晶で出来ているみたいに透き通っている。
結界に阻まれているせいか、タカトラはこの魔王がまるで自分たちとは異なる珍しいものに思えた。そうとは自分でも気づかないまま、檻の中の動物を観察するように不躾に眺める。
桜色の綺麗な毛並。ふわふわの髪は長く下ろされている。服は別段変わったところのない白い無地のワンピース。肩紐から出た白い肌。思ったよりも引き締まった二の腕。ふっくらとした胸元の奥に感じられるのは瞳の色とよく似た色の強いアニマ。
タカトラは結界に手をついた。触るだけなら何の支障もない。もっと中をよく見たいと、無意識が働いた。
ふいに、彼女も手を伸ばす。
彼の一回り大きな手に合わせるように。
途端に野良猫のような警戒心が逆立つものの、手を引っ込める前に彼女の指先が結界に触れた。
瞬間、視界に何かが飛び込んできた。
明滅する光。流れる景色。飛び交う桜色と魔法。
夜だ。空は闇に包まれている。
唐突な浮遊感に声を上げそうになったが、浮遊感そのものが錯覚であると気づいた。
どこか高い場所から星を見下ろしている。そんな不思議な光景だと思った。
でも違った。『彼』が立っている場所自体がとても高い建物で、眼下に広がるあまりにも輝かしい光の数々はどこかの街並みだった。
それにここと同じくらい高い建物が他にもあった。たくさんあった。建物には窓がついていて明かりが灯っている。中では人が動いていた。
(なんなんだここは)
『彼』は走り出した。建物の端へ向かって。勢いを殺さず、まるでそのまま飛び立ちそうに走るものだからタカトラは身体を強張らせようとした。
身体の自由は効かなかった。
建物から飛び降りる瞬間、桜色の髪が視界に入った。
『彼』はそのまま飛び降り、叫び出しそうなタカトラを無視したまま飛んだ。空を飛んだ。落ちるのではなく浮遊。今、この身体は身一つで飛行している。
先に落ちていった少女を追っていき追いつくと、桜色の少女は嬉しそうに微笑んだ。彼女は『彼』を呼ぶ。
何と呼んだのかは聞き取れない。
でも一つわかったのは、『彼』はタカトラではない。それに正確には『彼女』のようだ。風に煽られる髪は長くて邪魔に感じる。少女に差し出した指も細く女のものだった。
(これはあの魔王の記憶?)
二人は夜の街を飛び交い、魔法を放ち、杖を振るい戦った。
タカトラの見たこともない闇夜に輝く街で少女たちは人知れず何かと戦っている。傷つき、倒れ、それでも互いを支え合い二人は夜の間中戦い続けた。
場面は変わり、どうやら今度は昼間。また桜色の魔王が隣にいる。先程とは違う服を纏い、普通に地面を歩いていた。
夜の間は黒い箱にしか見えなかった高い建物は人々がたくさん出入りする店や仕事場のようだった。色とりどりの看板が立ち並び、硝子張りの店の中は一つとして同じものはない。タカトラも知る街の喧騒がそこにもあった。
少女がタカトラの手を引き、どこかの店を指した。二人は揃いの制服を着て店へと入る。
飲食店らしく店番のいるカウンターで注文をした二人は、彼女は注文を待ちタカトラのほうはどうやら席を探すようだ。見回しても混雑している店内に席はなく、『彼女』はその場を諦め端にある狭い階段を上った。そこも混んではいたが、丁度窓際の席が空いたので足早に場所を確保した。
一息ついて落ち着くと少女を待ちがてら窓に視線を投げ、自分の前髪を軽く整える。
タカトラの視点となる女は変わったところのない普通の少女に見えた。黒い髪に黒い瞳。見栄えするような造形ではない分、桜の魔王のほうが目を引くのは『彼女』もわかっているようだ。
品物を受け取り『彼女』を探す少女を周囲の人間の目が追うのに苦笑しながら少女を呼んだ。
「カヤ、こっちよ」
「先輩の好きなアップルパイも買ってきちゃいました」
「カヤが食べたかったんじゃないの?」
「なんですかー、もうあげませんよ!」
『先輩』は笑ってカヤのポテトフライを摘まんで食べた。二人は楽しげに途切れることのない談笑をしながら食事を始める。
タカトラは話の内容にはもうほとんど意識を向けていない。女同士の他愛もないやり取りに興味がなかったし、それよりも彼女たちの食べ物のほうに釘付けだった。
薄いトレーに乗った紙のコップに紙の箱。細切りのポテトフライ。箱にはアップルパイ。オレンジジュース。それに。
がさごそと包み紙を開いてカヤが大きな口で頬張るのは、ふかふかのパンに分厚い肉と新鮮な野菜をたっぷりと挟んだ――
(ハンバーガー!! これが本場のジャンクフードというやつなのか!?)
齧りついたところからトマトソースがはみ出し、カヤは唇につけたまま年の割に少々子供っぽく、けれどとても美味しそうに頬張っている。
(俺も、早く食え!)
彼の思いとは裏腹に『先輩』はカヤの口のソースを注意し、ナプキンで拭ってやっている。
それからしばし談笑し、やっと包みに手を伸ばした。カヤよりも丁寧に包みを開き、ゆっくりと口に運ぶ。小さく一口頬張り、咀嚼して飲み込み、また齧る。
タカトラは自分もその味を堪能出来ると思っていた。
だがしかし、何かを食べているような雰囲気はあれど味がしない。よくよく考えれば食感も怪しい。
(クソおおお! なんでだ!)
目の前にあって、食べているのに食べられない。新手の拷問だ。
それも当然だ。ここにいるのはタカトラではなくカヤと『先輩』なのだし、そもそもが現実ではない。おそらく魔王の過去の記憶を視ているだけで体感は出来ない。
悶絶するような拷問は長くは続かなかった。
またもや場面は飛び、彼の視界は煙に覆われていた。何かの施設を走り回り、目まぐるしく視界が変わる。何が起こっているのかはっきりしない。ただこの人物はとても焦っていた。
立ち止まって、何かを叫ぶ。
声は聞こえない。何かに掻き消されているのかもしれない。
必死に叫んで、しかし唐突に光に包まれ、衝撃に飲まれた――――
「はっ!?」
タカトラは襲い来る何かに対処しようと身体を構え、身体に残る恐怖の記憶に驚き払いのけた。
気がついた時には白い召喚広間の魔王の結界の前に尻餅をついて、ひどい脂汗を掻いたまま呆然としていた。
魔王のほうはタカトラの反応に驚いているようだが、平然としている。
「カヤ……」
少女は微笑む。
だけど『先輩』と笑い合っていた時とは違う顔だ。
「今の、お前がやったのか」
首を傾げる魔王には伝わらない。
あれはカヤの世界。タカトラの知らない異世界だ。
ずっとずっと見てみたかった。行ってみたかった。焦がれていた。
もう一度。手を伸ばしかけて。
拳を握り締めて引っ込めた。
こいつは魔王だ。イーラのように記憶に干渉出来るならタカトラの望む記憶を視せることくらい容易だ。騙して、油断させて、何かを企む。きっとそうに決まっている。
結界は彼女のアニマを封じているはずだと頭の隅では理解していても、彼女は魔王なのだ。
未知数。予測不能。
それに。あんな、あんな世界がタカトラの前に広がるわけがない。期待なんかしない。したって行けるわけじゃない。
様子がおかしい彼をまるで心配するかのように魔王はタカトラのためにしゃがんで何か言った。目が逸らせなくなりそうな紫の瞳がじっと覗き込む。
あんな魂晶みたいな魔王の目を見ていたら取り込まれる。惑わせるに決まっている。
さっと逸らした男は何も言わずに足早に部屋から逃げるように立ち去った。彼女を置いて。
背に呼びかけられる声は聞こえないから振り向かずに済む。
だけど、どうしたらいいか、ますますわからなくなって前髪をぐしゃりと握り潰した。