第七話 諦観は魂深くに刻まれ
記憶操作術。対象の記憶を盗み見てあたかも前からあったように新しい記憶を捏造する場合と、まるきり頭の中の記憶を書き換えてしまうやり方がある。
難度が高いのは後者だが、最初からまっさらな精神に記憶を埋め込むのは容易いらしい。
つまり魔魂兵士の戦闘命令はそういうことだ。肉塊に戦闘本能を刷り込む。戦うことだけを意義とした兵器の完成だ。
イーラは召喚された新たな魔王の記憶を操作して自分に忠実な魔王を作るつもりだった。
魔王城を攻略し、いくら魔王を倒そうとも次が召喚されてくる。理由はわからないが、魔王とはそういうものなのだ。
彼らは異世界から喚び出されし大いなる存在。彼らは降り立った瞬間から魔王で在らねばならない。
だから世襲は不可能。
そもそも魔王が子を為すことがアガリアレプト以前はなかったようで想定もされていない。
現魔王が死ねば次が召喚されてくる。魔王は死ぬまで魔王であり、ヒトが引き継ぐことなど不可能。
タカトラは魔王にはなり得ない。魔王の息子なんて立場は何の意味もないものだ。
(魔王なんか、なりたくもない)
戻ってきた召喚広間には相も変わらず清浄な空気で満たされていた。光のような輝く魂晶が下から上へと静かに上る。
部屋の中央。大召喚陣の結界内で未だ眠る桜色の少女。何も知らないまま猫の子のように丸くなって眠る。彼女が彼女として目覚めることはないのかもしれない。
操作に失敗したらイーラは躊躇なく殺す。
成功したとて彼女は生きた人形。傀儡の魔王となる。
意思だけはまだ勝手でいられるサーヴァントよりも、自由も尊厳もない永遠の檻に囚われるのと同じだ。
憐れだ。
囚われてしまったら彼女は新しい世界を知ることもなく、誰かと通じることもなく、魔力の器としてイーラに利用される。
だけどタカトラには主を止めるすべがない。
「妾は細かい術は得意ではないからのう……ちと面倒だな」
「失敗したらどうなる」
「わからぬが頭の中がごちゃごちゃになって人ではいられぬかもな」
「……このまま封印しておくだけじゃいけないのか」
「せっかく奪ったというに、この城が無防備になる。妾は楽がしたい。それに失敗したら次を喚べば良い」
死ぬのと意思なき傀儡になるのとどっちがマシだろう。
「なんだおぬし、こやつに同情しておるのか」
「別に」
「こやつが妾と違わないとどうして言える? おぬしは本当にあの人によく似ておる。甘さは己を殺すぞ。見た目に惑わされるなど愚の骨頂」
「親父は関係ない」
「今のおぬしを見たら何と言うかな」
売り言葉に買い言葉。感情が逆撫でされ口をついて「早くやれよ!」と言いかけた。
だけどそれは彼女の命を審判する言葉だと、自分を思いとどめることに成功した。仏頂面で唇を結ぶ男を横目にイーラは薄く微笑んだままアニマを構築させ始める。
タカトラが何を言おうと、思おうと結果は変わらない。単に彼の反応を面白がっただけだ。
黒いアニマが繊細な魔法陣を描いてゆく。円が複雑に重なり連なり大きくなっては消えて、何重にも異なる構成が繰り返されると辺りは濃密な魔に侵蝕されていく。
さらにはタカトラには意味のわからない言語で言の葉が紡がれ、アニマに重なる。
反応する。定義され、証明される。
完成された魂呪術が放たれた。
イーラの承認を以て結界を越え、魔王に降りかかる。
桜色が漆黒に侵蝕される。
魔法の糸が少女の頭に伸びて中へと。
「駄目かもしれぬな」
黒く伸びた魔糸がこんがらがったようにうねり始めると、思った通りの反応ではなかったようだ。イーラは早々に諦めた。
「どうなる」
「狂った魔王など面倒だ。さっさと殺すしかなかろう」
イーラが次に何を求めるか予測しながらも黙った。嫌だと言えば喜んで申し付けるだろうし、黙っていても命じられる。なら無駄な抵抗など屈辱でしかない。
しかし主の顔色が変わった。
術がほどけてゆく。
成功かとも思った。
違う。拒絶だ。
明らかな拒否反応。
ゆるゆるとほどけて揺らめいていた黒の魔が、次の瞬間には弾き飛ばされ掻き消えた。
「こんな状態でも魔王の器ということか」
イーラの忌々しげに呟かれた言葉とは対称的にタカトラは知らず安堵していた。
しかし主の次の命令でそんなものは脆く消え去る。
「さて、妾は妾に従わぬ者はいらぬ。殺せ」
「殺りたいなら自分で殺れよ」
「今の言葉、聞いていなかったのか?」
忠実でないしもべには死を。
まさかここで多少ごねた程度でタカトラを殺すとも思わないが、死なない程度にはいたぶるかもしれない。イーラの『お仕置き』は死ぬほうが楽だと思わせる。染みつく恐怖と屈辱は彼を従わせ、諦めさせるのに十分だった。
タカトラは否応とも言わずに銃に弾を込める。
「結界は」
「『それ』ならそのままやれるのであろう?」
結界抵抗により僅かだが入射角が変わる。正確さを求めるならないほうがいい。
だが相手は魔王で、封印を解くのは危険だ。近距離射撃だから当てるだけなら問題ないだろう。
あらゆる事態を考慮してなるべくこの銃の最適距離を取る。中央から入口近くに移動し、主も下がらせた。
スコープ内で眠る魔王の少女。何も知らず健やかに眠っている。タカトラはそれ以上顔を見るのをやめ、心臓を狙った。アニマの核が輝いて呼吸し明滅している。大きな光だ。魔王のアニマは強大で、どうしてこんなちっぽけなヒトの器に収まっていられるのだろう。
「やれ」
銃を握る時。スコープで獲物を捉える時。
その瞬間は無心でいられる。
いや、いなければならない。
もし、たとえ、引金を引くほんの一瞬に『死』を浮かべてしまったら、彼はその腕を鈍らせるだろう。タカトラにとって虹は死の色だから。
息を深く吸って、止める。
一拍。トリガーは優しく、しかし確実に引かれた。
弾丸が発射されてから『死』は強烈に彼を苛める。標的は死ぬ。タカトラの手によって死ぬのだ。
抗いがたい衝動がいつも彼を襲う。
ここに己が正義はあったのか。
あるわけがない。
自分可愛さにあんな罪もない少女を――。
結界の一部を破壊して弾丸は迫る。胸に光る魔を貫くべく。
バキィ。金属をへし折ったような音が響いた。理解が追いつかず顔を上げる。
起こったことを認識はした。
でも理解出来ない。
今まで的を捉えた弾丸が標的を破壊しなかったことはない。
目の前にひしゃげた弾丸が転がった。
自動修復された結界の中では彼女を守るように杖が盾となり宙に浮いていた。あの杖がタカトラの弾丸を弾いた。
「タカトラ!」
イーラは苛立ちも露わに再度命じる。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。何かの間違いだと主も思ったのだろう。
きっとそうだ。次はまぐれは起こらない。
僅かに震える指先が再びトリガーを引く。
弾かれた。
「もう一度!」
撃つ。
また撃つ。
そのたびに最悪だった気分が高揚していった。
魔王の杖は彼の弾丸を必ず弾いた。
装弾されている五発全てを撃ち終えた時、全ての弾が床に転がり、少女は結界の中で心地良さそうに寝息を立てていた。
恐る恐るイーラを窺う。眉はつり上がり、余裕しかなかった唇は怒りに震えた。アニマが揺らめく。力を感情のままに高める。結界が主に呼応して歪もうとしている。
「イーラ!」
紅い目が胡乱に振り向く。
「結界を解いてどうするんだ。危険、だろ?」
「妾がこんな小娘に負けると思うておるのか」
「そうじゃない、だがこの場所でやるのは危険だ。他になんとかならないのか。もう少し強力な術とか」
「おぬし、この者を庇っているのではなかろうな」
「馬鹿なこと言うな。俺に何の得がある」
前置きなくイーラはタカトラに向かって翳した手を握り締めた。黒いアニマの茨が拳に巻きつき蠢いた。
「ぐあっ」
心臓を潰されるような痛みにタカトラは抵抗も出来ず膝をつき頭を垂れる。
「妾を殺したい。そうだろう?」
痛みが引いていく。息を荒くしながら彼は顔を上げた。獰猛な目は主に向けるものではない。
「……やれよ。裏切りが怖いならさっさと殺せばいい。もうずっと死んだほうがマシなんだ」
「お前は永遠に妾のものだ」
指が食い込む。まざまざと感じさせられる痛みと恐怖に男は絶叫を上げた。堪え難く、こらえようとすれば噛み締めすぎた歯茎から血が溢れ涙が流れた。そのまま胸を掻き毟りながら彼は意識を手放した。
呆気なく屈することしか出来ないしもべを主は冷めた目で見下ろし、踵を返す。
「早く諦めてしまえ」
ひどく冷えた声音なのに芯に隠された感情には冷たさがなかった。
どうしてイーラは自分を殺さない。
まだ鈍痛が続いているような気がして目覚めたばかりのタカトラは胸を押さえ、白い部屋の星々が輝く天井を眺めながら考えた。
確かにタカトラにはイーラを殺せない。
だが何かの拍子に裏切らないとは言えない。チャンスさえあれば彼女が危惧する通り殺すために動く。
チャンスなど来るはずもないから生き延びるためにイーラの命令を聞いている。
とても忠実とは言えない。彼女が何かしようとすれば真っ先に否定してやる。文句しか言わない。任務だって自分の力が必要な最低限しか働かなくて済むならそうした。
主の企みがどこからかほつれ、失敗してしまえばいいとも思う。
それをわかっているイーラは考えていることをタカトラにはほとんど洩らさない。何をしようとしているか、全容はまるでわからないから彼女が作った盤上で踊る駒にしかなれない。
もっと器用に上辺だけ取り繕って取り入ればいい。きっと孤独な魔王はずっと傍にいた男に僅かでも心を開く。今よりは扱い易くなるだろう。
(そんなの嫌だ)
命の自由を奪われて、思考まで染まってしまったら自分じゃなくなる。何よりイーラに媚を売るなんてそれこそ死んだほうがマシだ。
ちっぽけな矜持でしかなくとも捨てたくない。そのせいで命を落とそうと、誰もが愚かと罵ろうと――。
(ああ、そうか……)
父の最期の笑みが浮かんだ。馬鹿な男だと思っていた。
でも父には父の矜持があったのかもしれない。
(……それでもやっぱり馬鹿だ)
志半ばで無念に死んだ父を息子は許せずにいた。
――ねえ。
ふいに誰かに呼ばれた気がして即座に起き上がる。
イーラか、それともまた敵か。
けれど目に入ったのは桜色だ。
視界いっぱいに広がる桜。
いいや、そんなのは錯覚だ。
実際には結界の中でちょこんと正座してこちらに微笑んでいる魔王の少女がいた。