第六話 蟷螂の斧
「随分早いな」
特に焦るでもなくイーラは言った。
封じたのは召喚陣の発動ではなく、召喚されるであろう人物そのものなのだ。召喚陣の操作や破壊は魔王であろうと易々と手を出せないらしい。こればかりは『ルールは自分』であるイーラも慎重だった。
「これが魔王なのか? あんたもこうしてこの世界にきた?」
主は召喚者にさほど興味がなさそうで今後の処分に思考を巡らせている。
しかしタカトラは初めて目の当たりにした魔王召喚の現場に、らしくもなく興奮が抑えられない。
中で力も意識も結界により制限されている『魔王』はまだほんの少女だ。見た目はタカトラと同年代だろう。目を凝らせば、封じられているにもかかわらず小柄な身体に強いアニマを内包しているのがわかる。
目を引くのは桜色だ。淡い桜色の髪。艶やかで繊細な糸が絡まりもせず床に広がっている。
目覚めたらどんな色の瞳なのだろう。
世界を越えてきた魔王は何を話すのだろう。
桜を見たことはあるのだろうか。
可視出来ぬ結界に触れ、中身をよく見ようと身を乗り出す。
「タカトラ」
低く名を呼ばれ、自分が失態を犯したことに気づいた。すぐにいつもの仏頂面は結界から離れる。だがもう遅いのは明白。イーラの冷たい視線が彼の好奇心をそれ以上に捉えた。
「情を移すな。いずれ殺すのだからな」
「……わかってる」
「女が欲しいならそのへんで見繕え。魔王はおぬしの手に余る」
「俺は、別に……」
「妾はおぬしが女に興味を示すのを初めて見た。気に入ったのならやりたいが魔王はやれぬ」
「そういうんじゃない。召喚された魔王に興味があっただけだ。あんたは何も話さないからな」
「ふうむ。ならいいが、して妾のしもべ候補はどこに行った?」
忘れるわけもないか、とタカトラは仏頂面の中に本音を隠しながら肩を竦めてみせた。
「見た通り逃げたな」
「捕まえてこい。面倒なら殺してもいい。あれを傍に置くのは煩そうだからな」
「まだ近くにいるんだとしたら相当の馬鹿だ」
暗にもう無理だと示してみてもイーラは瞬きひとつしない。こういう時は決して命令が覆ることはない。それでも答えを待っていると、ひどく冷たい声が降りかかる。
「タカトラ」
逆らうとひどい目に遭う時の機嫌の悪さだ。
「……チッ、わーったよ。行けばいいんだろ」
イーラはタカトラがわざと逃がしたと疑っている。むしろ確信している。
あいつをイーラの前で見つけたら次はもう殺すしかなくなる。
嫌な仕事だと彼が思うほどそういう仕事を回してくる。反抗すればするだけつらくなるのは自分なのだと、ことあるごとに示される。
「クソが」
悪態をつく以外に己を保つ方法はなく、口はいつも真一文字に結ばれていた。
来た道を戻り、地下の階段への壁を抜けとりあえず城の出入口に向かうことにした。
逃げたものは逃げたのだ。さっきも言った通り、まだこの城に残っているとしたら相当な馬鹿で命知らずだ。
だからまさかいくら馬鹿でもちゃんと逃げたと寸前までは思っていた。
通路を進むタカトラの背後へ迫る気配に思わず溜息が出た。横道に隠れ様子を窺っていたらしい。タカトラが一人だと知るや否やまた襲いかかってきた。
右肩へ降り下ろされた剣を寸前で避け、柄を握る腕を捉えて投げ飛ばした。
「お前馬鹿だろ。せっかく逃げられたのに」
「あれは戦略的撤退だ。私が尻尾を巻いて逃げるなど!」
「これのどこが戦略なんだ」
仰向けに転がる騎士の胸を踏みつける。想像通り屈辱に顔を歪めた。しかし睨む騎士はタカトラの足首をきつく握り締めた。逃がさぬとでも言ってるつもりか。どちらが優勢かもわからないわけではあるまい。
「貴様が忠実なる〈魔王の弾丸〉なのか? トリスティスを穿ったあの光は貴様が……」
「死にたくないならトリスのことは忘れてどっか行け。イーラに構うな」
「彼女を殺しておきながら情けをかけるのか! 私はトリスティスと死ぬことも許されなかった。ならばこの命に代えても仇を討つまで!」
「馬鹿か」
きつく踏み直してやる。ぐえと下から呻き声が聞こえたが構わず体重をかけた。
「トリスはあんたを守りたいんだ。それとも彼女にはこんな馬鹿じゃなくて他に大事な騎士がいるのか? ならそいつに言っとけ。彼女は最後の最後までそいつを案じてたってな」
ただ、どこか諦めを覚悟していた。彼女は負けるとわかっていたのだろう。それでも逃げなかった。二人で逃げてしまえば良かったのに。
でも『魔王』である限り平穏はない。
だから置いていった。
「貴様がっ、貴様がそれを言うのか……!」
喉を詰まらせたのは嗚咽が混じったからだ。言葉はそれ以上続かず、騎士は腕で顔を覆い黙ってしまった。
タカトラは軽く息をつき、足をどかすと男の胸ぐらを掴んで立たせてやった。
「あのな、俺だってあんたにこうしたのがバレたらまずいんだ。わかったらさっさと出ていけ」
男の泣き顔なんか見たくない。どん、と背中を押して外へ促す。
「イーラといる時に来たら今度は殺すからな」
手助けも忠告も出来る限りした。こいつにそんな義理はなかった。
けどトリスティスの最期の願いくらい叶えてやりたかった。彼女が「助けてやってくれ」と言ったのだ。タカトラだから頼んだのだろう。意味は違えど魔王に囚われている憐れな者として。魔王などに関わらねば危険に晒されることはなかった。
彼女はこいつに、もう魔王とは関わりなく暮らして欲しかった。一度魔王に目をつけられたら難しい。
でも今なら戻れるはずだ。
男の背が震えるのを最後まで見送らずに踵を返す。逃がした言い訳を考えなくては。怒ったイーラを宥めるのは果てしなく骨が折れる。
すでに思考を先に飛ばした彼の背に聞きたくない反応が打ち据えられた。
「待て!」
あろうことか騎士はタカトラの首に掴みかかり力の限りに締め上げた。
「なん、だ……俺を、殺すか?」
喉が男の手の中でごくりと鳴る。
「やめとけ」
「許せぬ! 許せぬのだ! トリスティスが貴様に何を言ったとしても私は貴様を許さぬ。あの魔女共々地獄に送ってやらねば気が済まぬ!!」
気持ちは痛いほど理解出来た。目の前に仇がいる。それがどんなに悔しくて憎くて怒りをぶつけずにはいられないか。生き残った無能な自分がやるべきことは、相討ちでも構わない。死を以て死を贖うことだ。それしかない。そうとしか考えられなくなる。
「お前には、殺せ、ない」
タカトラをではなく、イーラを。魔王に対するには無力すぎる。
「なんだと! 私の覚悟を愚弄するか! 貴様などにどれだけ情けをかけられようともこの覚悟は揺らがぬ!」
「ちが……」
空気が入ってこない。息が出来ない。血管が膨れ上がり、脳髄が沸騰する。意識が朦朧として、心臓が激しく脈動し始めた。心臓が異常を報せる。熱い。苦しい。
「早く、逃げろ……イーラが、く、る」
「望むところだ! あの女の目の前で貴様を死なせてくれる!」
「馬鹿、野郎」
締め上げる力だけは強く馬鹿でかい図体はろくに抵抗しないタカトラの身体をいとも簡単に持ち上げた。足が床から離れる。掴む指を剥がそうともがくも爪痕を残すだけだ。
意識がなくなる直前。一瞬の無我の境地においてタカトラの身体は自然と動く。相手の腕を強く掴み、腕の力で反動をつけ両足で思い切り蹴り飛ばした。男は堪えきれず倒れ、タカトラも床に落ちる。大きく咳き込み空気を目一杯吸う。
心拍数がなかなか戻らない。
「くそ……」
辺りを見回す。胸を押さえたままよろよろと立ち上がろうとする騎士がいるだけだ。
タカトラも呼吸が整うまでは待てず、すぐに立ち向かう。
「そんなに、死にたいかよ」
「貴様には死んでも理解出来まい。彼女のいない世界など……」
「俺はご親切にお前を説得してやるつもりはない。自分でよく考えろ」
「貴様などに諭されたくはないわ!」
性懲りもなく殴りかかってくる男にタカトラも腰を落とした。いなすでもなく、流すでもなく、真っ直ぐに構える。
騎士の繰り出された拳は顔の横をすり抜け、代わりにタカトラの拳が相手の頬を殴り飛ばした。壁に打ちつけられた騎士はいかにも悔しそうな目を向けた。しかし頭と肺を強打して当分はまともに動けないだろう。
「考えた結果がそれでも俺にトリスの願いを殺させるな」
タカトラは自分の胸に手を当て深く息を吐く。それから男の首根っこを引きずって、近くの部屋に放り込んだ。
「いいか、黙ってろ」
扉をきっちり閉め、足早に場を離れようとする。
「タカトラ」
凛と響く。氷を打つような背筋から冷える声。
「随分緊迫した状況だと思うたのだが?」
「ふん、それで助けにくるなんて珍しいこともあるもんだ」
「妾はいつでもおぬしを思うておるよ」
イーラの細い指先がタカトラの心臓の上をなぞる。サーヴァントは繋がっている。彼の心臓に異常を来せばすぐに察せられる。
だからいつも平常心を保つよう心がけていた。なんでもかんでも知られてたまるか。
それでも命の危険は一番伝わり易い。
「して、やつはどうした?」
「まだ見つけてもない」
「ではなぜあんなに乱しておった。あやつを隠しだてする道理などない。それとも妾に内緒でトリスティスと何か企んでおるのか」
「俺が逃げたやつの一人もみつけられない無能ってだけだろ。なんならお得意の『お仕置き』でもするか? ありもしないもんを吐くかもな。あんたが何か感じたんだとしたらあれだろ。この辺の魂晶くらいなんとかしてくれ。胸糞悪くて堪らん」
「もう随分薄らいでいるが」
「俺は弱いんだ。知ってるだろ」
「ふうむ?」
疑いの視線にも平常心を保つ。真っ直ぐ前を向いたままでいるタカトラの顎を、無駄に色香を漂わせて持ち上げる。いつものからかいかと思ったのもつかの間、指先が首筋を意味深に撫でたことで扼痕が残っている可能性が浮かんだ。
(くそ、あの馬鹿のせいだ)
「まあ良い。妾は妾の所有物に傷をつけたものには相応の礼をすると決めておる。首をねじ切ろうか。己が腸で吊ってやろうか。次に会うのが楽しみだの」
「趣味が胸糞悪すぎる。俺を巻き込むな」
「何を言うか。おぬしは特等席で見物するに決まっておる。妾はおぬしのなんとも言えない顔が一等愛しいのだからな」
「死ねばいいのに」
「そんなに妾と心中したいとは知らなかったのう」
イーラの一番好きな顔で黙り込んだタカトラはこの場から一刻も早く離れることを優先させた。どこまでバレているかはもはや重要ではない。彼女が今はやる気がなくタカトラの嘘に付き合い、騎士もまた仇を狙って出てくるという愚行を起こさなかった。
とりあえずは回避した。
その場凌ぎでもいい。
今この瞬間を生き延びるだけだ。
「ではあの娘の頭を弄くり回すとしようか」
魔王のしもべには息つく暇もなく新たな困難が提示された。