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はたらくリコリス  作者: 水城
5/33

はたらくリコリス 4

【Ref.No.18-0037】




こんな夏まっさかりにスーツを着るとか、久しぶりすぎる。


もう、世間は何十年も「くうるびず」とか、そんな風潮で来てるわけだし。

基本、本を抱えて回る仕事だったから、そこまできちんとした服を着なくても良かった。

総合案内カウンターに出るときだって、別にスーツじゃなくっても、良かったし。


今回の異動は、まれにみる大規模バージョン。

異動対象者も多く、リコリスを含め辞令交付を待つ職員は、控室にすしづめだった。


部屋の中は、とんでもなく蒸し暑い。

夏用のスーツなど、もう随分と新調していなかったから、リコリスはタンスから、ちょっと流行おくれの合着ウールのテーラードジャケットを引っぱりだして、間に合わせに、仕方なしで、着る羽目になっていた。


インナーは、襟なし袖なしのカットソーで誤魔化しているから、まあ何とか、この灼熱地獄にも耐えられるものの。

周囲のネクタイにジャケットフル装備の男性陣のことが、リコリスは、ほとほと気の毒になる。


ちょっとさ、管理課さん。

人死が出る前に、クーラーのスイッチ、入れた方が良いんじゃないの?

対テロ部隊ばりに鍛えてるあんたがた(管理課員)とは、われわれ、身体のつくりがちがうんだからさあ。


リコリスは、胸の内でこう呟いたが、口からは溜息だけを吐き出した。


「……暑っつう」と。

溜息に交じって、思わずひと言。


だいたい、一枚一枚、紙に印刷した辞令を総務部長が、いちいち手渡しするとか、どれだけ資源と労力の無駄遣いなんだか! しかも、スーツ着用デフォルトってさ?!

いまどき、本だって紙価格の高騰で、出版がめちゃめちゃ厳しいんだよ?

辞令なんて、承認済み電子メールで済む話でしょ。

そういうものこそ、電子で済まそうよ、まったく。


リコリスが、こう心の中でおらんだ瞬間、人事課の若い課員さんが、部屋の面子を呼びに来る。


案内されて、ぞろぞろと入った総務部長室は……。


「す、すずしい……」


うぉぉぅ……と。

ネクタイ姿の男どもの声なき咆哮が、オーラとなって部屋の空気を震わせる。


え、え、ちょっと待て、待ってちゃぶだい。

閲覧者や汗水流してはたらく下々の職員の居場所は、茹で鍋で。

なに? 総務部長室とかは、ちゃっかり涼しいわけ、クーラー入ってるわけ?


だって空調メインスイッチってさ、あのGSG-9……じゃなっくって、屈強な管理課員が鉄壁の守りを固めて、省エネ目標達成までは、スイッチオンが、断固阻まれているんじゃなかったの??


総務の、この館長室、副館長室、総務部長室の集まる一角だけは、空調系統は別になってるってこと?


うーん、知らなかった。こんな秘密、こんな巨悪の存在など、知らなかったさ。知りようもない!


何っていうの? これ。「国家権力の闇」って感じ?

ひどーい、ずるーい。

偉い人だけ、いつもいい思いするの? そういうのってさあ……。


こんなポイズンな社会システム、その爛れきった暗部に、リコリスは激しくも憤る。

と、不意に名を呼ばれ、リコリスは、飛び上がりそうなほど驚かされた。


そして、小学校の卒業証書授与以来のなんとも滑稽な作法に基づき、それまでは名前しか知らなかった総務部長から、どえらい大げさな、黄色い縁取りの小さな紙を手渡されたのだった。

  



   *



「やれやれ……」


リコリスたち人事異動対象者が、ぞろぞろと総務部長室から、廊下へと出てくる。

滑稽で窮屈な辞令交付の儀式から解放され、皆、安堵の声を洩らさずにはおれない。


総務部長室前の廊下には、まるで宝塚の出待ちファンか何かのように、一定の秩序を保って、複数の人々が立ってたむろしていた。


異動先の庶務さんや補佐さんが、自分の部署に異動してくる職員を迎えに来ているのだ。

なぜだか知らないが、図書館にはそういう慣行が、昔々からあるらしかった。


この非効率で滑稽な辞令授与は、役所はどこでもやってるんだろうけど……。

リコリスが、ぼんやりと考えを巡らせる。


……このお迎えってのは、なんとも奇妙な風習だよね。よその役所でもやってるのかなあ。


廊下のそこここで、異動者の名前が小声で呼ばれる。

呼ばれた職員は、自分の迎えの人へと近づいていき、「よろしくお願いします」、「こちらこそ、よろしくお願いします」、だのなんだのと、ひとしきり挨拶を交わしては、迎えの者と連れ立ってその場を離れていくのだ。


だがいつまで経っても、誰からも、リコリスの名は呼ばれなかった。


総務課からも、誰か来てくれてるんだよね……。

リコリスの胸に、そんな風に、なんとなく不安な気持ちがよぎりそうになった、その刹那。


「……伊藤さん、伊藤リコリスさん」


渋い低音だった。

あまりにもツボにはまりすぎるその声に、リコリスの胸は、きゅんきゅんに締めあげられる。


なに、なに、なに? 誰、この渋い声のおじさまは。


一体全体、どんなダンディー紳士が自分を呼んでいるのかと、リコリスは、周囲にあたふたと視線をさまよわせた。


「……ここですよ、伊藤さん」


再びの、渋声。

だが、その姿はどこにも見えない。


なに、幻聴? 暑さのあまりに、幻聴?


トキメキのせいか、暑さのせいか、はたまた緊張のあまりか。

リコリスの動悸は激しさを増し、息苦しいほどになってきた。


「伊藤さん? 伊藤さん」


む、そこか……。

リコリスは、声の方向を聞き定めると、ガッと振り返った。


「すいませんね、迎えが遅くなってしまって、待ちましたか?」


……誰もいない。


壁だ、壁が喋ってる。

リコリスは放心した。


壁際には花台が置かれていて、館長秘書さんが活けたのか、綺麗な桔梗が飾られている。


花……。

桔梗から、花瓶へと、リコリスは、なんとはなしに視線を落とす。


「……えっ」


花瓶の脇、花台の上には。

銀色交じりの白い毛並みをしたジャンガリアンハムスターが立っていた。


「はじめまして、伊藤さん。わたしが総務課長です」


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