はたらくリコリス 4
【Ref.No.18-0037】
4
こんな夏まっさかりにスーツを着るとか、久しぶりすぎる。
もう、世間は何十年も「くうるびず」とか、そんな風潮で来てるわけだし。
基本、本を抱えて回る仕事だったから、そこまできちんとした服を着なくても良かった。
総合案内カウンターに出るときだって、別にスーツじゃなくっても、良かったし。
今回の異動は、まれにみる大規模バージョン。
異動対象者も多く、リコリスを含め辞令交付を待つ職員は、控室にすしづめだった。
部屋の中は、とんでもなく蒸し暑い。
夏用のスーツなど、もう随分と新調していなかったから、リコリスはタンスから、ちょっと流行おくれの合着ウールのテーラードジャケットを引っぱりだして、間に合わせに、仕方なしで、着る羽目になっていた。
インナーは、襟なし袖なしのカットソーで誤魔化しているから、まあ何とか、この灼熱地獄にも耐えられるものの。
周囲のネクタイにジャケットフル装備の男性陣のことが、リコリスは、ほとほと気の毒になる。
ちょっとさ、管理課さん。
人死が出る前に、クーラーのスイッチ、入れた方が良いんじゃないの?
対テロ部隊ばりに鍛えてるあんたがたとは、われわれ、身体のつくりがちがうんだからさあ。
リコリスは、胸の内でこう呟いたが、口からは溜息だけを吐き出した。
「……暑っつう」と。
溜息に交じって、思わずひと言。
だいたい、一枚一枚、紙に印刷した辞令を総務部長が、いちいち手渡しするとか、どれだけ資源と労力の無駄遣いなんだか! しかも、スーツ着用デフォルトってさ?!
いまどき、本だって紙価格の高騰で、出版がめちゃめちゃ厳しいんだよ?
辞令なんて、承認済み電子メールで済む話でしょ。
そういうものこそ、電子で済まそうよ、まったく。
リコリスが、こう心の中でおらんだ瞬間、人事課の若い課員さんが、部屋の面子を呼びに来る。
案内されて、ぞろぞろと入った総務部長室は……。
「す、すずしい……」
うぉぉぅ……と。
ネクタイ姿の男どもの声なき咆哮が、オーラとなって部屋の空気を震わせる。
え、え、ちょっと待て、待ってちゃぶだい。
閲覧者や汗水流してはたらく下々の職員の居場所は、茹で鍋で。
なに? 総務部長室とかは、ちゃっかり涼しいわけ、クーラー入ってるわけ?
だって空調メインスイッチってさ、あのGSG-9……じゃなっくって、屈強な管理課員が鉄壁の守りを固めて、省エネ目標達成までは、スイッチオンが、断固阻まれているんじゃなかったの??
総務の、この館長室、副館長室、総務部長室の集まる一角だけは、空調系統は別になってるってこと?
うーん、知らなかった。こんな秘密、こんな巨悪の存在など、知らなかったさ。知りようもない!
何っていうの? これ。「国家権力の闇」って感じ?
ひどーい、ずるーい。
偉い人だけ、いつもいい思いするの? そういうのってさあ……。
こんなポイズンな社会システム、その爛れきった暗部に、リコリスは激しくも憤る。
と、不意に名を呼ばれ、リコリスは、飛び上がりそうなほど驚かされた。
そして、小学校の卒業証書授与以来のなんとも滑稽な作法に基づき、それまでは名前しか知らなかった総務部長から、どえらい大げさな、黄色い縁取りの小さな紙を手渡されたのだった。
*
「やれやれ……」
リコリスたち人事異動対象者が、ぞろぞろと総務部長室から、廊下へと出てくる。
滑稽で窮屈な辞令交付の儀式から解放され、皆、安堵の声を洩らさずにはおれない。
総務部長室前の廊下には、まるで宝塚の出待ちファンか何かのように、一定の秩序を保って、複数の人々が立ってたむろしていた。
異動先の庶務さんや補佐さんが、自分の部署に異動してくる職員を迎えに来ているのだ。
なぜだか知らないが、図書館にはそういう慣行が、昔々からあるらしかった。
この非効率で滑稽な辞令授与は、役所はどこでもやってるんだろうけど……。
リコリスが、ぼんやりと考えを巡らせる。
……このお迎えってのは、なんとも奇妙な風習だよね。よその役所でもやってるのかなあ。
廊下のそこここで、異動者の名前が小声で呼ばれる。
呼ばれた職員は、自分の迎えの人へと近づいていき、「よろしくお願いします」、「こちらこそ、よろしくお願いします」、だのなんだのと、ひとしきり挨拶を交わしては、迎えの者と連れ立ってその場を離れていくのだ。
だがいつまで経っても、誰からも、リコリスの名は呼ばれなかった。
総務課からも、誰か来てくれてるんだよね……。
リコリスの胸に、そんな風に、なんとなく不安な気持ちがよぎりそうになった、その刹那。
「……伊藤さん、伊藤リコリスさん」
渋い低音だった。
あまりにもツボにはまりすぎるその声に、リコリスの胸は、きゅんきゅんに締めあげられる。
なに、なに、なに? 誰、この渋い声のおじさまは。
一体全体、どんなダンディー紳士が自分を呼んでいるのかと、リコリスは、周囲にあたふたと視線をさまよわせた。
「……ここですよ、伊藤さん」
再びの、渋声。
だが、その姿はどこにも見えない。
なに、幻聴? 暑さのあまりに、幻聴?
トキメキのせいか、暑さのせいか、はたまた緊張のあまりか。
リコリスの動悸は激しさを増し、息苦しいほどになってきた。
「伊藤さん? 伊藤さん」
む、そこか……。
リコリスは、声の方向を聞き定めると、ガッと振り返った。
「すいませんね、迎えが遅くなってしまって、待ちましたか?」
……誰もいない。
壁だ、壁が喋ってる。
リコリスは放心した。
壁際には花台が置かれていて、館長秘書さんが活けたのか、綺麗な桔梗が飾られている。
花……。
桔梗から、花瓶へと、リコリスは、なんとはなしに視線を落とす。
「……えっ」
花瓶の脇、花台の上には。
銀色交じりの白い毛並みをしたジャンガリアンハムスターが立っていた。
「はじめまして、伊藤さん。わたしが総務課長です」