はたらくリコリス 3
【Ref.No.18-0037】
3
長々と単調な人事異動の報告が、やっと終わり、課員たちは、また三々五々に書庫へ、閲覧室へと散っていく。
その流れに完全に逆らい、リコリスは産卵遡上するシャケめいて、口髭メガネ課長のもとへと歩み寄った。
「か、かちょうー」
「はいはい」
「わたし、わたしって、来月異動なんですか?!」
「うん! そう。そうなんだよ。大丈夫、リコちゃんならできるよ、ガンバ! はあと!」
いつもなら、条件反射で脳裏で繰り出される「ええい、『リコちゃん』とかいうな。馴れ馴れしいっつうの。仮にも管理職だろうが、お前はぁ!」ってな具合のつっこみが浮かぶ余裕もないほどに、リコリスはうろたえていた。
「っていうか、っていうか。内々示は? そんな話、一度も聞いてないです」
「ああ、『内々示』ね」
言って、課長は人差し指を立てると、わざとらしく指先を口元に当てた。
「うーん、今回ね。結構、大規模な異動だったからさ、ぎりぎりまで細部がつまらなかったんだよね。僕もリコちゃんの異動聞いたの、ほんの一時間前だったし。いまさら内々示したって、遅いかなって思ったんだよね」
いや、別に遅くないし。
一応、聞いとけば、心構えとか違うし。って、いいからしろよ、内々示。五分前とかでいいから。
動揺が、少しは収まりつつあるのか、リコリスの心の中でつっこみ隊長が復活し始めた。
「っていうか、わたし、この前、面談でも言いましたよね?! レファレンス畑でキャリア積みたいって」
書誌とか整理なら解る。別に、わたし文献系の書誌学オタクじゃないけど。
そういう仕事は、絶対、調査能力の向上につながるから、やってもいいっていうか、いや、いずれやりたいと思ってたし。
でも、会計とかなんとか、そういう総務系の仕事には興味ないんだってば。
正直、そういう「ちゃんとした」仕事っぽいの苦手なんだよ。
人付き合いとか、名刺交換とか、帳簿とか、書式チェックとかさ。
無理、ゼッタイ!
そもそも、周りの人が困るでしょ。総務とかって忙しい部署なのに。使えないヤツ来たって、迷惑でしょ?!
ああ、もう。信じられない。
伊藤リコリスが、総務課、しかも広報係? とかって。
ナニコレ? これ以上のヘンテコ人事、後はもう、館長秘書室に配置換えになるぐらいしか思いつかないよ?!
とかなんとか、ひとり脳内で、激しくまくしたてるリコリスに向かい、ふと課長が、口元を引き締めてみせた。
「リコちゃんの希望は、前々からちゃんと聞いてるし、解ってるけどね」
「だったら……」
「知ってると思うけど、こういう人事異動って、みんながみんな、希望通りの部署に行くわけじゃないんだよ、役所だしね」
うっ。
そりゃ確かに、それは知ってる。知ってますよ。もう、帝国図書館で結構長く働いてますから……。
「それに、リコちゃん、まだ異動も二回目でしょ? リコちゃんなんかは、まだ若いからさ、基本的に、本人の出す希望って、人事課にはさ、将来のビジョンっていうか? そういう感じで参考にされるだけなんだよ。今は、もう少し、色々な職種を体験してもらう時期っていうかさ、解るよね?」
……ふうん。
そうですか、「元不倫したい係長ナンバーワン」のくせに、急に上司ぶりますか? あ、そうですか。
こんな感じで、胸の内でぶつくさ洩らしはしたものの。
とっぽい口髭課長の言うことが、正論だということくらい、リコリスにも、十分理解できているのだ。
だから。
それ以上は「元不倫したい係長ナンバーワン」課長に詰め寄ることもできないままに、リコリスは、黙ってうなだれる。
と、課長が、黒縁メガネの奥で、目をぱちりと見開いた。
「あ、そうそう、名刺」
「……は?」
「新しい部署の。作っといた方が、ほら、なんて言ったって広報だからね、すぐに挨拶回りで使うだろうし。ね? 準備は、早め早めがイイヨ、イイネ!」
そうだった。
総務ってだけじゃなくてさ、異動先、広報係でしたよ。
って、一体、何やるの、広報って……。
ずずんと、リコリスの胃の奥で、ブルーなバリウムが沈んだ。
そして、そんなリコリスの前から、「名刺のテンプレは、たぶん、総務課の方の庶務係さんがくれるよ」とかなんとか言いながら、とっぽい課長は、ひらひら消えて行く。
溜息とともに目線を泳がせるリコリスの視野に、花園ミホカの姿が入った。
視線を感じたらしく振り返ったミホカへと、リコリスは駆け寄る。
「ミホカぁぁぁ」
「あ、リコ、異動なんだ? 総務課は、事務室も建物違うし、お互い、しばらくは、あんまり見かけなくなるかね」
ちょっ!
なによ、なんなの、ミホカ、その冷たい態度は。
「広報だっけ? なんか意外。そんな希望出してたの、リコ?」
ぶるぶるぶる、と三回首を振って、リコリスは否定の意を激しく表明する。
「ふーん、そっか」
と、軽く応じて、花園ミホカが続けた。
「総務だと、きっと忙しいよね、残業とかあってさ? あれだね、送別会、異動の前にさ、今月中にやっちゃおっか?」
何? なんですか、ミホカ、もう追い出しモードですか?
そんなにわたしに出て行ってほしいというの?
いやああ、寂しいこと言ってくれるでないよぉおおお。
同期の中でも、一番仲良かったでしょうが、われわれは?
いたく心細げなリコリスの様子に、ミホカもやっと気を留める。
「リコはあれだ、行きたくないんだ? 総務」
「いきたくない」
全然行きたくないよ、広報係とか。
「ミホカ、助けてよ、厭すぎる、総務とか。超厭すぎ」
「えー? 大げさだなあ、リコ。大丈夫、そんなの、すぐ慣れるってば」
ミホカの小さな手が、ぱしぱしとリコリスの肩を叩く。
リコリスはうなだれ、見るともなくミホカの履いている消音シューズを見つめた。
小さいビジューが、爪先に控えめに付いている。なかなか可愛い品だった。
昔は、ぜんっぜん、身なりに構う子じゃなかったのになあ、ミホカ。
シューズなんて「爪が絨毯に引っかかんないために、しょうがないから履いてる」って感じだったのに。ホント、変わったよ、最近。
……結婚決まってからだなあ。
たぶん。
そりゃ、私だって、まあファッション誌をめくったりするのは嫌いじゃないけど、でもそこまでオシャレにいそしんでるわけじゃないんだよね。
一応、専門職っていってもヒラの図書館員なんて、ブランド品に凝ったりするには薄給過ぎだし。公務員だからね。
本を抱え歩くのも、実は肉体労働だったりするし、書庫だって、本だって埃っぽいし。
「愛されOL」一か月コーディネートとか、ないない。
そういう風に頑張るっていうのとも、ちょっと違うんだよ。
……ってね。
彼氏のいない言い訳にもならないか。
ミホカ、旦那とは、学生の時からの付き合いっていうから……。
旦那だって、別にちゃらちゃらしてないミホカが、好きだったんだろうしね。そりゃ、最近、綺麗になって、旦那も嬉しいんじゃないかと思うけどさ。
まあ、それも「自分と結婚して幸せだから」綺麗になったってことになれば、さらに嬉しいだろうけど。
すると「あ、花園係長、すいませーん。新着の確認お願いします」
などと呼ぶ声に、ミホカまでも、リコリスの前から、テトテトと歩み去って行った。
ひとつ盛大な溜息をつき、リコリスは、自分の席にどさりと腰を下ろす。
っていうか、本当に、わたし異動なんだ。
総務とかの仕事、しなきゃいけないんだ……。
やだやだやだ。
嘘だ、うそだと言ってよぉ。誰か。
さっき書庫から出してきたばかりの、「吉弘大辞典」を、リコリスは横目でちら見する。
総務なんて、ありえない。
もう、図書館なんか、辞めちゃおうかな……いっそ。
いやいやいや。ないないない。
うん、辞めないよ、辞めないから。
別に、ちらっと思ってみただけだけだから。ちらっと。
大体、図書館員なんて、それこそ「ツブシがきかない専門職ナンバーワン」だよ。
転職とか、相当厳しいし、うん。
でも、やっぱり。
「……やだよぉおお、総務ぅぅ」
言っても詮無い泣き言を洩らし、リコリスは、積み上げた「吉弘大辞典」の上に、ゴンと額を打ち付け突っ伏した。