はたらくリコリス 1
【Ref.No.18-0037】
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「あ、ちょっと、リコぉ?!」
廊下の奥から、経社資料係の花園ミホカの声がした。
「リコさ、今、カウンター当番じゃないよね? 課長がみんなを呼んでる、すぐ事務室に戻ってって。臨時の報告だってさ」
同期のよしみの気軽な口調でこう言うと、ミホカは、テトテトと事務室に戻っていく。
「臨時の課長報告」ねぇ。
ま、今の時期なら、たぶん、次期の人事異動の内示だわな。
伊藤リコリスは、内心、独りごちる。
……そんな予測がすぐにつく位には、わたしも古株になってきたってことか。
と、両手に抱えていた「吉弘大辞典」の索引三冊と八巻と十巻が、リコリスの腕から、ずるりと雪崩れた。
「おっとっとっと。落ちちゃう、落ちちゃう」
リコリスは、慌てて片膝で本を支え、片足立ちになる。
バランスを取り直し、積み重ねた本を両手と顎で挟み込んだ。
「まったく。いくら『閲覧室のスペース確保』っていったってさ、こんな基本的な参考図書を、地下十三層にしまいこむとか。ちょっとね」
三十年前くらい前からか。
民間出版社がコンソーシアムを結成し、既刊の書籍の電子化が、一気に加速した。
その動きに対して、周囲の先輩たちの多くがもろ手を挙げて賛同する様子を、当時新人館員だったリコリスは、ヒシヒシと肌で感じたものだった。
そりゃ、それはそれで、便利にはなった。
たしかに、そうは思う。けどさ……。
初期のOCRは、結構、変換の精度が低い。
実際、調査の途中で、何かひとつ引っかかりを覚えてしまうと、現物を確認しなければどうにもならないことも多いのだ。
加えて、調査の内容によっては、数版前の記載内容を参照する必要があるというのに、そんなのは、どこをどう探しても、電子の世界ではヒットさせることはできないときている。
つまりは、調査の経験を積んでいけばいくほど、電子の資料だけでは、心もとなさが募る一方っていう感じで。
「……皆、なんだか忘れちゃってるみたいだけど」
溜息とともに、リコリスは、きゅっと眉根を寄せる。
「紙の上にしかない情報の方が、実はまだ、多いのに」
でも、悲しいかな。
いまどきは、図書館員ですら、そんなこと感じなくなっちゃってるのかもね。
館内の「電子至上主義者」たちの顔が、リコリスの脳裏にちらつく。
そして、その誰もが、今や図書館内で、なかなかにいい地位に上がっているという事実も……。
「あっと、そうそう。ミホカ、課長報告あるって言ってたっけ」
またしても、オバさんくさく洩らしてしまったひとりごとに、リコリスは、思わず顔をしかめた。
いかんいかん、まだ、そんな歳じゃないし。
「妙齢」の乙女なんだし!
そりゃ、まあ。
同期は、ちらほら結婚し始めてるけどさ。
リコリスの脳裏に、ふと、最近、事務室の壁モニターに頻繁に表示されている「『花園ミホカ経社資料係長』結婚祝い金カンパのお願い」の告知が浮かび上がった。