プロローグ
■ この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
■ 即興小説トレーニング
http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=260402
お題「これはペンですか?違うわ、それは冬」 必須要素:岩塩
加筆訂正。
【Ref. No. 0】
「……は?」
伊藤リコリスは、思わず間抜けな声を洩らした。
つい、今。
帝国図書館の総合案内カウンターに座るリコリスの前に、老婦人が立ち止った。
トイレの場所を尋ねられるのか、食堂に上がるエレベーターの場所か。
それとも、検索パネルの使い方でも訊かれるか。
そんなところを予想していたリコリスに向かって、老婦人は、皺だらけの華奢な両手を、真っ直ぐに差し出したのだった。
「さあ、どうぞ、お嬢さん」
ボブキャット種らしく、その手の厚みのある肉球と同じく、とても柔和な声だった。
リコリスの両手が、ぎゅいんと下がる。
手の甲がカウンターにぶつかった。
「……あたっ」
なにこれ、重っ!
リコリスは、あわてて両手に力を入れる。
掌に載せられていたのは、曇りガラスのようにグレーがかって半透明の物体だった。
「いやあの、えっと」
手にした物体を、リコリスは慌てて老婦人に押し戻す。
「な、なんです? これって、何ですか」
激しく瞬きを繰り返すリコリスの焦げ茶の目を見つめ返して、ボブキャット種の老婦人が、ゆったり頷いた。
「なめてごらんなさいな」
「……なめるって、なめるって、なにを」
「『それを』ですよ、お嬢さん」
リコリスの手にあるグレーの物体を、老婦人が指さす。
……な、なめてたまるかよおお。
こんな得体のしれないモンをおおおお。
心の中で叫びながらも、リコリスは冷静さを取り戻すべく、懸命に努める。
老婦人が続けた。
「しょっぱいわよ。だって、岩塩ですもの」
「……は?」
あれ? デジャヴ? わたしさっきも、こう言わなかったっけ?
言ったよね、「は?」って言ったわ。
つか。
なんで岩塩??????
なに、暑いから? 熱中症予防?
館内、クーラー効いてないって、そういう皮肉とか?
いや、それ言われても、困るよ。
うん、よくある苦情だけど、今年の省エネ目標達成するまで、管理課が空調入れてくれないから。
しょうがないから。役所だから。わたしも暑いし。普通に暑いよ。
普通は、キンキンに涼しいはずの図書館という名の施設として、申し訳ないけど。
でも、我慢してください。ごめんなさい。予算がないんです。
閲覧にいらしたみなさんは、想像もなさらないかもしれませんが。
空調室は、最前線の武器庫級の厳戒態勢なんです。
そこへのこのこ、自爆テロ的に空調のスイッチ入れに行くとか、それは、ちょっとわたしには、できないから。
一介の司書の身では、それは無理な任務なんで。
これまで、何人もの新人が若さという名の無謀さで「空調スイッチオン」へ向かって特攻を試みたけど。
いまだ誰も成功してないし。
屈強な管理課の課員さんたちが、鉄壁の守りを固めてるから。
GSGの9課なみだから。彼らは、たぶん特殊採用枠だから、うん、普通の図書館員じゃないから、たぶん。
と、そこでリコリスは、老婦人の後ろに、ふたりほど、新たな客が並んでいることに気づく。
ひとりは、サラリーマン風のごくありきたりなスーツ姿、暑そうにネクタイを緩めて、手にした電子ペーパーをイライラと小刻みに震わせている。
その後ろには、Jimmy Chooの今季モデルらしきピンヒールを履いた大人女子。
首筋の金の産毛を逆立てて、これまた、順番待ちに、相当イラついているようだった。
微妙に焦るリコリスのことなど、まるでお構いなしといった風に、老婦人が、のんびりとのたまう。
「ねえ、お嬢さん。その岩塩、どこ産のだと思う?」
「え……?」
なに、なめて当てろってこと?
テイスティング? 岩塩のブラインドテイスティングですかい?
いや、わたし、図書館員ですから。
フードコーディネーターとかじゃないんで。
そういうのとか、無理なんで。
エルゼビア社の『世界食品業界名鑑』だったらご案内できますが、ええ。
ラッキーですよ、おばあさん。食品業界名鑑は、4年ごとの刊行ですけどね。
最新刊、去年の秋に出てますから。かなり新しいです。
とかなんとか、心の中で言いながらも、リコリスは非常に困り果て、カウンターの中から老婦人を、うつろに見上げた。
……あ、この人、実はボブキャット種じゃなくて、意外とチーター系かも、とか。ふと思ったりしながら。
「調べてもらえるかしらね? 近所の図書館じゃ、全然解らないのよ。ここへ来れば解るって教えてもらったから、わざわざ来たの」
こう言って、チーターっぽいボブキャット老婦人は、また微笑んだ。
そして、「そうだ、わたし、ちょっと食堂でお昼をいただいてきますからね」と会釈して、リコリスの前から歩み去って行く。
「え、あ、いや、ちょっとあの」
椅子から腰を浮かせて半立ちになりながら、リコリスは、老婦人に呼びかける。
「あの、調べもの相談でしたら、一応、申込書式に記入していただきたいんです、けど……あの」
というか。
「えっとですね、あのレファレンスっていうのはですね、鑑定とか、身上相談、医療相談、法律相談とか個人のプライバシー調査とか、そういうのはサービス対象外でして」
遠ざかっていく老婦人の背中へと、力なく語りかけるリコリスの前に、待ちくたびれたサラリーマンが、せかせか近づいてくる。
「ちょっと、あのですねぇ。訊きたいんですけどぉ、『これはペンですか? いいえ冬です』っていうのを、百六十五か国語でどういうか知りたいんですけどぉ」
……だから。その。
「ええ、あの、申し訳ありませんが、論文の手伝いとか文献解読や翻訳とかは、ご自身の力で御調査いただくのが筋でして。その、『レファレンサー』というのは、研究の代行とか、そういうことをする者ではなくてですねぇ……」
「えぇ? 解んないんですかぁ? 帝国図書館の人なのに、そんなことも解んないんですかぁ?!」
リコリスの目の前、ごねるサラリーマンの後ろには、また一人、そして一人と、さらに列が伸びていく。
チッと。
舌打ちを噛み殺して、リコリスは気合を入れなおした。
「ハイ、えーっと、すいませんが。奥の参考図書室に、三十か国分の辞書出てますから、ご自分で辞書引いて調べて下さいね? ハイ。それでは、次の方、どうぞぉ」
リーマンの後ろの、チュー新作女子に視線を転じ、手を差し出そうとして。
リコリスは、そこで初めて、自分がまだ手に、くだんの岩塩を持ったままだったことに気が付いた。
■レファレンス/レファレンス・サービス
一般的に、図書館においては、情報又は資料を求める利用者に対し、情報若しくは資料それ自体の提供又は情報若しくは資料に到達するために役立つ資料若しくは情報を検索、提供若しくは回答の作成を行うサービスをいう。
参考奉仕、参考調査、リファレンス等の呼称もある。
レファレンスについては、しばしば「探し物、調べ物のお手伝い」と平易に説明される。
「お手伝い」の言葉どおり、調査の主体は、あくまで利用者本人であるべきとされるが、近年、情報化社会の進展にともない、レファレンス・サービスが司書による代行調査・代行研究でないとは言い切れない側面も、実際的に大きくなりつつある。
また、このような流れについては、昨今、司書の間でも、一概に否定的に受け止めない傾向が広がりつつある。
(参考文献)
・図書館語彙研究会編 『最新図書館語彙大辞典』 バッカス書林, 30002年(帝紀新)
・徳村ヨニ「旧藩立図書館専門司書に関するフィールドリサーチ(概説)」『ライブラリアン・グール』30000年春号, 帝国図書館協会, pp.320-403.