8話 言葉の力-1
人は決して強いとは思わない。たった一言で死すら選ぶ生き物だ。
だけど彼は笑い、慣れていると言う。大丈夫だと言う。
逆説的に動く世界を、自分はとても哀しく思う。
―――言葉はとても、恐ろしい。
■
生徒の出したレポートの文を追う目を止め、直人は視線を窓から覗くまっさらの青に上らせた。
空調により温度の整えられた大学の事務室。雲ひとつない快晴が零すのは、過ぎるほどに気温を上げた真夏の哄笑だ。梅雨の不快な湿気よりもそれは幾分かマシであるが、こうも晴天が続けば皆勤中のアマテラスに文句の一つも言いたくなる。
(…今日もこりゃ、暑いなぁ)
泣き喚く蝉の声が、窓を隔ててしゃあしゃあ響く。容姿通り人の好い性質をした助教授――田中が言うには棟全体に防音壁を使用しているとの事だったが、どうやらあまり意味を成していはいないようだ。蝉の声が聞こえるようでは人の声など言わずもがなだろう。
(まぁ別に、喋る相手もいないから構わないけど)
見渡した事務室の中、職員は誰一人として今そこに居ない。直人がうっかり居眠りをこいた間に、全員昼食を取るため出払ってしまったからだ。
「…声かけてくれても」
溜息混じりにぼやく。
けれど直人は知らない。一応皆が出る前に直人に声をかけていたことを。
そして直人本人が「はい行ってらっしゃい」と無意識に答えていた事を。
「…食事はしばらくお預けか」
本人は知らずとも、直人は居眠りにおける生返事の天才であった。
―――何の役にも立ってはいないが。
直人の居る事務室は、授業に使う講義室とは別棟になっている。校門から向かって左が講義棟、右が直人の居る研究棟――教授達が詰めるそこは、講義棟との間に程よい広さの庭を挟み、喧騒のない透明な空気に包まれている。騒がしいことをあまり好まない直人にはその簡素さが好ましく、居心地自体は結構気に入っていた。学校と言えば喧噪に満ちる場所の代表格とも言える施設だが、やってきてこの静かさを見て心底に安堵したものだ。
・・・まぁ何か、僅かに存在する女生徒がちょっと一部で騒いでいるみたいだったが。
(何が楽しいんだかね。顔なんて皮一枚剥げば誰も変わらないのに)
ひとりごち、ぼんやりとして見た窓の外には誰の姿も見当たらない。
綺麗に整備された中庭は人一人通らないが、真ん中に一際大きく聳える金木犀、あの下にあるベンチには先週まで人を乗せていたはずだ。ここ数日でぱったり来訪者が失せたのは、つまり外気温が殺人的になったという証拠だろう。現代っ子の学生達は炎天下で食事をとるほど突き抜けた根性は持っていないらしい。
(そりゃそうか)
ぐにゃりと口を曲げる。
(そもそもンな根性があるなら、こんな採点に困るレポート書いたりしないだろーし)
――ちらりと落としたA4用紙に並ぶのは、パソコンに打ち込まれて吐き出されたゴシック体のかたまりだ。直人が先週講義で出した課題で、生徒が提出したレポートである。
課したテーマは『誘導電動機の速度制御方式のうち、サイリスタインバータによる可変速制御の概要と特徴について』。…確かにちょっと面倒くさいかなーとは思ったが――― まさか本の引用を八割も持ってくるとは。
(しかも、だ)
頭が痛いのはそれだけじゃなかった。直人の頭痛を増やしているのは、この生徒が引用している本。この本、どこかで見た文章だなと思っていたら直人が書いたものだったのだ。これほど採点に困る代物はなく、何か恨みでもお有りかと尋ねたい限りだ。
(参考文献はいくらでも使っていいとは言ったけど…これはなぁ)
丸写ししてオッケーとは言ってない。というか、普通それが常識だろうに。
口をついて出る二度目の嘆息もそこそこに、再び視線をぽいと庭に投げた。
ひそやかに佇む金木犀の丸い緑葉が、光りに晒され鮮やかで眩しい。どうやら大自然の恩恵、その一端である涼風は溜息一つ落としてはいないようで、重なり合う葉は一枚たりとも踊らない。ただただ黙って造り物のごとく鎮座している。
微動だにしない青空と樹 ―― まるで窓の額に収まる一枚の絵だ。
【二つの棟の間にある庭は、視覚的なリラックスを促すよう計算されています】
赴任初日に手渡されたパンフレットの中に、そんな事が書いてあったように思う。隣でにこやかに載っていた写真は確か学長の顔だった。(秀二は「メロンパンそっくりだよな、あの人」とか言っていた。)
―― それは本当に美しいと言えるものだろうか。
人の手によって計算された美。
頬杖をついてぼんやりと考える。
この降り注ぐ日の白色光の中には、人の目が捉えられない何色もの色が眠っている。空を覆う青色がどれほどに澄み渡って見えようと、それはただ、空気を構成する窒素や酸素の分子により他色が散乱させられ、残ったのか青でしたという結果的なものでしかない。
元から有る自然のものであっても、煎じ詰めれば理論と計算の上に成り立ってしまうのだ。作用素として働いたものが人か自然かの違いだけで、成り立ったものに人工も自然も関係ないだろう。
だとしたら。
人の手が作り出した美に疑問を抱くなら、全ての自然に対してもまた同等に疑問を持たねばならない。
(―― あぁ、そりゃ面倒なことだ)
世界は数で成り立っている、そう言ったのは数学者のピタゴラスだったが、目には見えない数の調和で成り立つこの世界、そう考えてしまうと一体美しさとは何なのか何も解らなくなってくる。
――――― りぃぃいん
「―――、っ!」
唐突に、事務室内にけたたましい電話の音が鳴り響いた。
直人は驚いて持っていた赤ペンを取り落とし、しかしそれは放っておいて隣の机にある電話に手を伸ばす。別に出なくてもいいといわれているが、どうも会社に居た流れで電話が鳴れば腰が浮くのだ。
常務という立場は電話応対することは普通ならあまり無いが、直人は開発室で平社員と一緒に作業している現場人だ。そうなると必然的な流れで電話は出られるものが出るという暗黙の了解が出来、そこに立場もヘチマも持ち出す分だけ邪魔になるのだ。
直人は受話器を取り上げ、はい、と口にして―― 言葉に詰まった。
―――朝倉電機リテイルシステムズ開発課本部・工藤です
「…と、桐蔭電気工科大学事務課です」
寸でで堪えたが、名乗るまでに妙な時間ができてしまった。
気をつけているつもりだが、気を抜くと本籍を置く社名が口を突いて出る。長年の間で舌に馴染んだ名はなかなか上手く修正出来ず、人とプログラムと、その記憶メカニズムの差が際立つ部分だ。
危なかったと胸をなで下ろす直人に、受話器が言った。
『お世話になってます、自販機修理の朝倉ベンダーサービスと申し…』
―― がしゃぁん。
物凄い音が事務室に響いた。
無意識で立ち上がっていた体が、椅子を倒してしまったのだ。
『……あ、あの?』
受話器の向こうで、音に驚いたらしいテノールが慌てている。
直人はそれで驚愕の波があっさり引いていったのを感じ、次に出たのは溜息だった。
「―――えぇどうもお世話になっております。昨日ぶりの名取秀二君」
『 え、…え!?…先生かよ!』
かかってきた電話の相手は、昨日聞いたばかりの名取秀二の声だった。
直人の声を聞いた上で、しれっと仕事モードの声で挨拶した秀二に少しがっくりする。
「オーマーエ~、昨日聞いた声くらい聞き分けなさいよ」
『だ、だってさぁ!出るとは思わねぇじゃん!!』
―― それはそうかもしれないが、土曜日泊まって日曜日も一緒に居たのだ。躊躇うそぶりぐらい見せて欲しいというのが人の情というものだろう。…まぁ、そこまで期待してはいなかったけれども。
必死な様子で弁解する秀二に苦笑しながら、直人はそれで?と尋ねた。
「ココに何か用があったんだろ?今誰も居ないし、俺で良ければ聞くけど」
『あ、先生で全然オッケー!むしろ話が早くていいや。…あのさ、今日ソコの自販機また冷えないって依頼が来てんだけど、型式的にそれ多分ユニット不良だと思うんだ。欠陥なのかどうかは解んねぇけどその型式に入ってるユニット、ここ最近バタバタ故障始めてやがんの』
「へぇ冷却ユニットが?そりゃ致命的だな。型式は?」
『えーと、ON-HSA30BSFLD4』
「―― ハーティー機?いいのかねこんな大学に」
直人が目を丸くすると、俺もそう思うと秀二が同意した。が、すぐに「先生が"こんな大学"って言うのはマズいんじゃね?」と笑いが響く。
ハーティー機というのは、「人に優しい親切設計の自販機」というコンセプトを持つ新型の自販機の事だ。 体の不自由な人やお年寄りにも使いやすい作りをしていて、形は大型のものが多く、商品選択のボタンが従来の場所とは別に低めの位置にも配置してある。車椅子使用者に対しての配慮だったのだが、身長が足りない子供も使用できるという事で別の客層にも喜ばれているようだ。
商品取り出し口は屈む必要がないように中央に取り付けられており、またコイン投入口に関しても一枚挿入型ではなく外にせり出したスロープに一括投入できるようになっている。名前の由来―― ハーティーという名前は正式にはHearty、ロゴマークのハートが示すようにheart―― つまりは愛情とかそんな安直なものからきているが、あらゆる場合を想定して造られた紛う事なき開発の結晶、高精度性能新型自販機なのだ。早い話、値段が高い。
「この大学って血気盛んなお子さまが多いんだろ?すぐ壊されるだろーになぁ」
日曜日に秀二がぼやいていた事を思い出し、直人が呆れたように言う。
聞けば、パネルはすぐに割られるし3ヶ月に一度は押しボタンが壊れる。外箱の凹みは毎度のことだし落書きなんか来るたび増えるという。
ハーティー機の導入など、壊してくれと言わんばかりではないだろうか。
『一番売れ行きがいい設置場所で導入テストってことらしーぜ。修理担当者に言わせりゃ設置施設を間違ってるだろって思うんだけどさー?』
上の連中現場の声無視しやがるもんなぁと溜息を落とす秀二に、直人は「耳の痛い話で」と苦笑いを返した。秀二は忘れているようだが、直人も一応《上の連中》の一人である。
『先生上っつってもずっと現場に居るんだろ。俺が言ってんのは書類とにらめっこしかしねーヤツだって!先生はいーんだよ!』
「あれ、俺現場居るって言ったっけ?」
『…ハンダ火傷を書類でどーやって作るのか俺解んねぇよ』
言われて右手を見れば、傷だらけの指が目に映った。確かに紙でこんな火傷はしない。
成る程と見ていると、秀二が「それでさ」と幾分困ったように言った。
『電話の用件なんだけど、二時って依頼には書いてあってさ。俺二時無理そうなんだ。できるだけ急ぐけど、多分六時くらいになりそうで―― 田中さんも事務の人も帰ってるよなー?』
「あー、事務方は帰ってるな。学長の方針で事務の残業は厳禁みたいでね。二時ってのは田中先生が言ったんだろうね。今日用事があるとかで早く帰ると言ってたし」
『げぇっ』
秀二がひっ潰れたカエルのような声を出した。
自販機の鍵を管理しているのは田中だ。その彼が不在となれば修理は出来ない。
暫く考えた後、直人は言った。
「鍵は俺に預けて貰うようお願いしとくよ。どうせ俺今日中にレポート採点しなきゃならんから遅いし」
『え、いいの?』
「うん。急がなくて良いから事故起こさないようにおいで」
『――― サンキュ!よかったー!』
心底安堵したといった朗らかな声を上げ、秀二は礼を言って「じゃああとで!」と通話を切った。直人はせっかちなことだと苦笑しながら受話器を置くと、先程落とした赤ペンを拾う。
「あーあ…ほんっといい天気なことだよ」
視線を投げた窓にあるのは、"綺麗な"庭に降り注ぐ、目を細めるほどの白熱光。
どれだけ温度計の目盛りを押し上げてくれるのかと思えば、あまりのありがたさに呪詛の言葉が止まりそうにない。
仰いだ空の青さが、先まで話していた秀二の笑顔と重なった。
美しいと思う本心。美しいが解らない、屁理屈。
(――とは言うものの)
ふ、と落とした息は柔らかく、妙な思考に囚われていた脳をほぐした。
どれだけ屁理屈を振り回したところで、空の青が直人の目をしばしば奪う事実は変わらない。自然の創り出す現象が単純かつ普遍的に働き続ける物理法則によるものだと思っても、目を奪われて、その大自然へ参ったと言う以外直人には何も出来ないのだ。単純で在ればあるほどに、人はそれを前に両手を上げる事以外、きっと出来ることなど無いのだろう。
ありとあらゆる物事には原因があり、またそれを導き出す法則が存在する。自然現象一つにしても物理法則に従った因果関係の連鎖のみで成立していることが多いのだ――勿論未だ解明されていない事象とて多くあるけれども。
「――あ、工藤先生。済みません遅くなりました」
がらり、と事務室の扉が開いて、食事を終えたらしい田中が戻ってきた。
直人はそれにいえいえと首を振り、そこでようやく椅子を倒しっぱなしにしていたことに気付いて慌てて戻した。田中が不思議そうな顔をして見ているが、誤魔化して自分も昼食に出るべくサイフを手に取る。もうすぐ他の事務職員も戻ってくることだろう。
「あぁそうだ。田中先生、秀…朝倉ベンダーから電話があったんですけどね、講義棟ロビーにある自販機の修理、二時には間に合わないそうですよ」
「秀二君ですか?そりゃ参ったな」
右手で頬を掻き、意志の強そうな眉が寄る。
名前を知っている事に驚いたが、その親しさが解って笑みが零れた。親近感が湧いたのだ。
「それでその秀二から頼まれたんですけど、鍵を私が預かっても構いませんか?今日どちらにしろ遅くなりますし、彼も出来れば今日中に片づけたいようでして」
「本当ですか!助かります!」
裏表無い笑顔を向けられ、本当に人が好いんだなと苦笑した。恐らく秀二もそれを感じ取って田中に名前を教えたのだろう。ただ仕事で会っただけの相手に普通下の名は名乗らない。
直人は鍵を預かると、空調の効いた事務室を後にした。案の定気温は蒸し暑く、まだ廊下であるというのに半袖の腕に熱気がまとわりついてくる。
うんざりしながら出入り口に向かい、研究棟玄関を押し開け。
「……溶けそうだ」
溜息を落としながら、食堂に向かった。