6話 蝉時雨の回顧録
頭脳の問題において、過去直人が苦労した覚えは一度もない。
直人は朝倉ベンダーの連絡先を知らないが、直人が本籍をおいている朝倉電機に尋ねるとその解答は得られる。住所を聞くと秀二の住む場所のすぐ近くであると言うことに気が付き、結果として正確な位置情報も得られることとなった。
先日秀二に送ってもらった際、直人はその道々で見た案内標識や交差点名、町名やどの係累の店舗があるのかを全て脳に記憶していた。その為位置を確認できた秀二の自宅からこの大学まで、どれ位距離があるのか大雑把ながらも把握する事は可能で、秀二の自宅近距離にある朝倉ベンダーと大学の距離に見当を付けるのは難しくはなかった。
そこまでは、まだ普通と言える領域だ。
だが直人は、そこに秀二の身長・歩幅、ついでにせっかちな性格を足して計算し、大体何分程度で大学に到着出来るのかを暗算で割り出す術すら識っていた。
――非常識な脳。
それが、他者が直人の頭脳に持つ感想だ。
普通の感覚で考えれば、数分で土地勘のない場所の距離をほぼ正確に捉え、一度だけしか会っていない人間の歩幅・人格をデータとして盛り込み、スピードと到着時刻を暗算で導き出すなど到底無理な話である。観察眼が優れていると言えば聞こえは良いが、もはやその所業は一般という枠から零れ落ちた存在だろう。時代が違えば崇められるか、迫害でも受けて人外扱いされていたかもしれない。直人当人は非常識だなどと思っていないが、一般と違うという事実は人に恐怖を与える素材として充分なのだ。
それ故か、直人は友と呼べる人間を多く持っていない。顕著だったのは一番多感な学生時代で、皆が直人を見る目は羨望と畏敬に溢れ、それを理由に一線を引いて一般の括りには入れて貰えなかった。直人の両親――母親は居なかったが――との関係は悪くなく、むしろ良かった方だったが、ある特殊な事情で直人は人より淡泊な分別を持っていた。それが一線に拍車をかけ、周囲は尚一層壁を厚くし、決して一般の括りに入れようとはしなかった。
唯一の親であった父が病死したのは、直人が高校の頃だった。だが直人はその死の瞬間が来るまで、己が孤独となるのだと言うことに気付かなかった。病室で父の心臓が止まった瞬間自分は独りになったのだと初めて理解し、見てはならぬ足下に広がる真っ暗な闇を、真っ直ぐに覗き込んでしまった。
闇を巡らす深淵、その名は孤独。
直人が自殺を考えたのは、それから間もなくのことだ。
闇に足を捕まれた直人に光を見せたのが、当時バイト先に居た名取秀隆という技師だった。彼は直人に何か特別なことをしたわけでもなく、むしろあからさまな励ましは避けていた方だ。だがその何もせず、ただ話しかけて事実と理論を説いた態度に触れ、直人は次第に笑うことを思い出していった。師は、直人の心を救った人間だった。
直人は自分を頭がいいと思ったことは無い。むしろ事あるごとに己の無知を謗り、嗤っている。どうして己はそんなにも馬鹿なのだろうかと、いつも蔑み、悔いている。
師が永遠に失われたと思ったその日以降、直人は再び深淵に落ちた。ずっと憂いと陰りの世界を彷徨い、拭われぬ孤独感を抱えて幻の雨に降られてる。
雨は止まない。見上げた空は鉛色。
到底認めらない現実を拒否した空を、直人はずっと見上げていた。十三年もの間、ずっと。
――だから今まで気が付かなかった。
直人の隣に、同じように空を見上げる青年が一人、居たことに。
* * *
見上げる季節は、夏が盛りを迎える一歩手前である。
七月に入ってからというもの、外気温は上昇の一途を辿り、羽化した蝉たちによる歓喜の大合唱が続いている。時刻はすでに午後七時を回っているというのに、空にしがみつく太陽の照りはしつこく厳しい。空の色こそ大理石模様のように黄昏時に染まっているが、暑さと日差しはもはや苦行のごとく。
――何でこう、夏の太陽というのは仕事熱心なのか。
仰げばギラリと笑み返され、もう溜息しかでない。
直人が大学正門前で秀二を待ち、かれこれ十五分の時が過ぎようとしていた。
左手に抱えるのは講義資料の収まるクリアケースで、その反対、右手に握っているのはカーマインレッドの携帯電話。そして視線は今、二分前からその携帯中央の時刻表示に縫い止められている。
携帯を開いてその二分の間、直人は時を止めたようにただディスプレイを凝視していた。――と、その片眉がひょいと上げられた。
(あと八分ってところかな)
目を細め、携帯を閉じてポケットに戻した。
額の汗玉が筋を引いて落ちる。ついと流れた汗は顎を伝い、そこからぽつんとダイブした。
自覚無きルックスと雰囲気で勘違いされがちだが、直人は風一つ吹かぬ夏の日射で平然としていられるほど人間離れしていない。確かに汗をかきにくい体質で周囲が暑がる中、一人涼しげな顔でさらりと立っていることが多かったが、それでも物には限度というものがある。一応人並みの汗腺は所持しているのだ。
(待ち合わせ場所を間違えたなぁ・・・)
汗が落ちる。こっそり落とした溜息は音にならず、喧しく泣き喚く蝉にかき消された。
うんざりして何とは無く視線を上げると、校門横に植えられたケヤキに一匹の蝉がとまっていた。
―――クマゼミ。
声は毎年聞いていたが、こうはっきりと姿を見たのは酷く久しぶりだ。
他の蝉に比べ、種類的に大柄な体躯をしているクマゼミ。緑がかった羽は体が綺麗に透けるほど透明で、葉の葉脈を思わせる細かな筋が入っている。胸元と尻を震わせ声の限りに歌い上げる姿は、過去名だたる歌人がこぞって歌い上げた程、夏の代表的風物詩として定着している。
が、正直なところ――やはりその声が暑苦しく、ついでに喧しいというのが人間だろう。
…しゃあああん。
「…あぁ煩い」
――直人くん――。
「―――・・・」
しゃあん。
――煩いは失礼だよ――
……しゃぁん
(…――言われたっけな、そんなこと)
蝉に引き出されたか、唐突に蘇った声。直人はふ、と目を細めた。
記憶が古いレコードのように巡り出す。クラシックレコードを聴くように思いを馳せる。過去鳴き喚く蝉の声を喧しいと言った時、一度注意された事がある。
"喧しい"、そんなことを言ってはいけないと。
――妙な人だった。
そう、本当に。
妙な人だった。
『――ですが名取さん、喧しいものは喧しいんですよ』
『ふふん、なってないねぇ』
汗を拭い、そう言った直人に、上司である技師、名取は指を立ててそれが駄目なのだと言った。
『考えてもみなさいよ。彼ら蝉は羽化するまでの七年間、幼虫として暗い土の下で過ごし、そして漸く成虫になるだろ?外界に羽を広げても、およそ二週間でその生涯を閉じてしまう。そのたった数日間の下界を謳歌する姿を喧しいと言っちゃあ、七年の孤独に耐えた蝉は報われないし――』
――失礼だろう、直人くん。
しゃぁあん。
直人は細めていた目元に力を込め、口を引き結んで下を向いた。
しゃぁんしゃぁんと高く強く、耳に木霊し反響する蝉時雨。
しゃぁん、しゃぁん。
しゃぁあん。
『でも名取さん、それだと全ての生き物に敬意を払わなきゃいけませんよ。当然、名取さんの嫌いなゴキブリも』
『馬鹿言っちゃいけないね。ゴキブリと蝉を一緒にしないで貰いたい。僕は別に蝉愛護協会の回し者と言うわけでもないがゴキブリ撲滅委員会には所属しているつもりだ』
『・・・名取さん、意味が解りません』
しゃあぁああぁん。
蝉が鳴いた。
木々にとまり、声を嗄らし、真夏の日差しを一杯に受けて、鳴いていた。
しゃぁんしゃぁんと鳴いていた。
あの日も、蝉は鳴いていた。
――蝉はね、決して儚い生き物ではない。
大音量の蝉時雨につい黙ったあと、彼はぽつりと漏らすように言った。
リノリウムを歩く安全靴がきゅいきゅいと音を鳴らし、窓際に立ち笑う。
二階だというのに彼は身を乗り出して、晴れ渡った青空を見上げていた。誰かが危ないですよ名取さん、と声をかけたが、彼は平気平気と手を振っていた。
しゃぁあああん しゃあぁあああ・・・
喚くように叫ぶように。歌うように口ずさむように。
蝉は鳴いた。啼いていた。
『名取さんの言い方だと、儚いから大事にしろと言ってるように聞こえたんですが』
『そういう訳じゃない、敬意を払えと言ってるだけだよ。だって外を見てみなよ、大声で鳴いて歌っているアレを見て――直人君は儚く見える?』
『いや、見えません』
そうだろ、と彼は身を起こし、後ろに広がる空のような広さを宿した瞳を優しげに細めていた。そしてふいに窓から外壁に手をやると、しゃああと悲鳴を上げるクマゼミを一匹捕まえていた。
『蝉は強い。震わす声はエネルギーに溢れているし、定められた時間を力の限りに生き抜いているんだ。多分ね、下手な人間よりもきっと強く逞しい。――それに』
しゃぁあああ……ん
蝉と名取と。二つが溶けて。遠くを見るように空を見ていた。
――人であれ虫であれ、寿命が長ければ幸せだとは限らないしね。
降りしきる蝉時雨の中、技術課室の窓辺で笑った姿は楽しげだった。けれども、あくまで楽しげであるのに、瞳は全てを見透かしたような深い色を湛えていた。まるでそれは、事の全てを知り尽くし、判断と導きを下す者。――デウス・エクス・マキナであるかの如く。
(――それはそうかもしれませんけどね)
直人はひっそりと声を紡ぐ。確かにそれは、貴方の言う通りなのかもしれないけれど。
"寿命が長ければ幸せであるとも限らない"
(だけど――)
直人は目を伏せ、苦い笑みを貼り付けた。
それは自嘲でもなく悔恨でもない、…ただ、どこか哀しげに。
(だけど貴方は、短すぎましたよ――名取さん)
胸に落とした呟き声は、誰の耳にも入ることなく弾けて消えた。
そしてそれでいいのだと理解する自分が居る。追憶は追憶。戻りはしないのだからと。
ふと、明るいテノールの声が聞こえ、直人は目を開けて通りに目をやった。
漸く日暮れらしい陰りを見せ始めた薄透明の日暮れ闇の中、息を切らせた茶髪の青年が―――師の息子が駆けて来る。それを目にして直人は優しい笑みを浮かべ、手を振りながらそっとポケットからカーマインレッドの携帯を取り出した。
秀二の携帯と通話終了したのが19:14分。直人の計算した秀二の所要時間は23分。
時刻は現在、ジャスト19:37分。――ぴったり、計算通りだった。
「ごめん先生!待っただろ、一応すぐ走ってきたんだけど!」
直人は携帯を閉じてポケットに落とし、「そんなに急がなくても良かったのに」と懸命に息を整える秀二の背をさすった。苦笑する顔には何の憂いも陰りも無い。ただ急がせて悪かったなと言葉通りのものしか浮かんでいなかった。
「着替えて来ても良かったんだけど?制服で食事もしにくいだろ――あ、俺は構わないけどね」
「いやいや、俺人を待つのはいいんだけどさ、待たせるのどうも好きじゃねぇの」
そう言い、慌ててあっ別に先生に対するイヤミじゃねーからな!と手を振る。
「それは解ってますって。すいませんねぇ時間にルーズで」
「解ってんならどうにかしろよ…いやそれがさ、走んなきゃ佐々木さんに捕まりそうだったんだ。あ、佐々木さんてウチの課長なんだけど、飲み事が好きで週末になると誰か生贄求めんだ。酒じゃないなら俺もいいんだけどさぁ…」
肩を竦める秀二に、直人は少し目を丸くするとあぁと笑った。
「佐々木孝彦、だろ?設置班に居たっけね」
「――え、知ってんの!?」
「うん、まぁね」
酒好きだもんなぁあいつ、と苦笑した直人に、秀二が何で、と目を瞬いた。
直人はひょいと眉を上げ。
「しょうがないよ、佐々木と俺、高校でクラスメイトだったからな」
腐れ縁の同級生だと綺麗に笑う直人に、秀二の目はまん丸に開き、口をぱかりと開いていた。
直人はその反応を、「身近な者と、先日知り合ったばかりの人間が実は知り合いだったという事実に驚いている」のだと思った。
けれどそれは、実際のところだいぶ違っていて。
「…あのさぁ…同級、て事は―――先生、歳…」
恐る恐るといった態で尋ねてきた秀二に。
直人はけろりと。
「?三十四だよ。勿論佐々木と同じ。それがどうかした?……秀二ー?」
かきんと真っ白に固まった秀二の顔を覗き込み、直人はおぉいと呑気に呼びかけた。
――栗原社長と同類が居た。
秀二がこっそりそんな事を考えたとは、直人は知る由もない。
* * *
「先生、酒好き?」
秀二が突然そう直人に尋ねたのは、知り合いの店でいいかと言う秀二に頷き、そこへ歩いて向かう道中の事だった。
直人は返事を待つ秀二に軽く一回瞬きし、「酒?」とつい鸚鵡返しに問いを乗せた。
直人の記憶が正しければ、確か今、秀二は自販機の紙幣識別装置であるビルバリを整備する際、裏技を見つけたのだとかいう話をしていたように思ったが、と直人は思った。
暫く考えた末、直人は「酒販用成人機のビルバリか?」と尋ねる。
秀二はそれで自分の失敗に気付いたらしく、慌てて首を振ってゴメン違うと否定した。
「ビルバリじゃなくて、店!今から行く店、酒あんまり豊富じゃねぇの。あるにはあるけど、居酒屋じゃねーから少ないんだってば」
早口でそう言った秀二に、直人はあぁそういうことかと納得の声を上げた。そうして、質問に対して、いやと微笑んで首を振る。
「飲めと言われたら飲むけど、あんまり好んで飲む方ではないよ」
「そか、…先生の歳で酒好きじゃないって、珍しいな」
もしかして酒乱?
失礼な事をさらりと言いながら秀二が首を傾げ、直人は無言でぽかりと叩いた。痛いと声が聞こえたが、あえて無視した。
そこでふと、秀二の「酒があまりない」という言葉に一つ疑問が沸いた。
秀二は間違いなく、直人の師である名取技師の息子だ。直人が師に世話になったのは二年間だけだったが、彼の口から細君の話こそあっても子供の話は一度も出てこなかった。あまり家族の話をする人ではなかったからどうだか解らないが、師の年齢を考えると居たとしてもまだ小さかったのではないだろうか。
直人は高卒入社だったが、それ以前からアルバイトとして入社していた。師に世話になったのはその期間で、居たのは技術課。十六歳から十八歳の頃だった。 入社して配属されたのは開発課で、そして師が唐突に会社を辞めてこの地に行ったと聞いたのがその年の十九歳。そして、・・・師が亡くなったのが、その二年後である二十一歳の頃だった。
「先生、どうかしたか?」
「あ…」
考え込んでいた顔を上げ、首を傾げる秀二を見下ろす。少し釣り目気味なのは師と似ているが、全体的な面差しは恐らく母親似なのだろう、精悍な顔立ちだった師よりも優しげな形をしている。ただ柔らかい色彩はそのままそっくり受け継いだのか、全て師と全く同じ色彩で纏まっていた。
おしゃべりな事務の女性が言っていた師の妻は、確か綺麗な黒髪で、目は優しい飴色をしていたと言っていた。秀二を見る限り、色素は薄いが髪も目もその色は見当たらない。
「おーい」
「秀二」
「お、おう!?」
静止して凝視する直人に困惑し、「みえてますかー」とぱたぱた手を振っていた秀二は、唐突に呼ばれてびくりとした。直人は「あぁごめん」と微苦笑を浮かべ、再び歩き出しながら「つかぬ事を窺いますが」と切り出した。
「秀二はこの業界に入って何年経つんだ?」
「――業界、てぇと、…つまり会社に勤めだして何年かってこと?」
予想外の質問だったのか、少し控えめに尋ねる秀二に一つ頷く。そして、考えた事を滔々と喋り始めた。
「話してて思ったんだけど、お前の知識と技術、確かに完璧とは言い難いけど処置できるその腕は間違いなくプロだろ。一年そこらで身に付けられるものじゃないし、何より部品を触る手付きが経験を積んだ者特有だ。無意識下に働く記憶に基づいた選別をしている。それは最低でも3年程度の経験を積まないと出てこないものだし、だが三年程度ならまだ指先の感覚に迷いが生じる。お前にはソレが見当たらない上、基盤の修理も出来ると言った。
そこらあたりを踏まえて考えると、俺はお前が四年か五年は自販機修理に携わってるんじゃないのかと思ったわけなんだけど」
「――先生、結論だけ言え」
根拠は重要じゃないかと思ったが、耳を塞いで眉間に皺を作った秀二はこれ以上考察を聞く気が無いようだった。直人は苦笑し、「悪かった」と両手を挙げた。
「解った、簡潔に聞く。朝倉ベンダーに勤めて何年?」
「四年だよ。最初からそれだけ聞いてくれ」
むすりと口をへの字にしてそういった秀二に、もう一度ゴメンってと言った。
直人はかしかしと頭をかき、秀二を見下ろして考えた。
(四年…てことは、十八で高校卒業だからそこから四年で…今二十二か?細すぎる気もするのは童顔なのか…しかしその若さで酒飲みに行きたがらないというのも珍しい)
自分が二十二歳の頃は結構好き放題していたような覚えがあるがなぁと過去を顧みて、その頃が丁度一番荒んでいた時期であることを思い出し、直人は自嘲と苦笑の混じった笑みで俺も年を取ったなと小さく溜息を落とした。
「あ、先生ここだよ」
そっちじゃねぇよと袖を引っ張られ、ぼんやり歩いていた直人は慌てて足を止めた。
だいぶ陽が落ちた薄闇の中に、小ぢんまりした和風の建物があった。ファミレスのようにオープンな窓ガラスがあるわけではなく、丸い形の障子窓が二つ三つ並んでおり、その一つ一つがぼんやり橙色を灯していた。お洒落な店というより、どこか風情有る様相の佇まいだった。
「…日本料理がメイン?」
へぇ、と思わず感嘆の声を漏らして聞くと、秀二は良く解ったなと胸を張った。
「そうだよ。俺の友達ン家がしてんの。山中っつー奴なんだけどさ、すげーいい奴だぜ!今日は多分、バイトで出てると思う」
「…ふぅん?バイトってことは、山中君とやらは大学生か」
友達の、と言うのが嬉しいのか、秀二は得意げに「おう」と頷いた。直人はつられる様に微笑を浮かべ、早く入ろうと秀二に急かされ入り口に向かった。
和造りの建物に相応しく、入り口はやはり引き戸の造りをしていた。戸を横へ流すとカラカラと涼しげな音が転がり、石造りの玄関が雰囲気を壊すことなく現れる。ふわりと奥から漂った香りは、直人の空腹を思い出させるように誘いをかけていた。
「いらっしゃ…あ、名取!」
「おっ山中!」
唐突に横からかけられた声に、驚いて振り返る。
振り返った先には厨房に続く通路があり、草木染の暖簾を持ち上げて一人の青年が顔を出していた。
「久しぶりー、飯くいに来たぜ!タローは外か?」
「あぁ、そりゃ飯屋に犬ウロウロするのも拙いし…つーか、マジで久しぶりだなぁお前!」
何してやがったんだよと快活に笑い、山中と呼ばれた青年が秀二の肩を叩く。
直人は元気良く弾む会話を聞きながら、これが山中という子かと見つめ――ふと、こちらを向いたその青年の目が、直人を見た途端。
驚いたように見開かれた。
「く、工藤先生――!!」
「え」
――何で先生がこんなところに!
叫ぶキバに直人はぎょっとし、説明を求めるように秀二を見た。求めた秀二もこちらを見てぎょっとしていた。
救済の手を失い、そのまま秀二を見下ろしていると、秀二が目を瞬きながら山中を見た。
――そこで唐突に、ああーと珍妙な声を上げた。
「あーそっか、そうだそうだ!」
直人はまたぎょっとした。
「し、秀二?」
今度は一体、何だ。
合点がいったと叫ぶ秀二は、動揺する直人などお構いなしに、忘れてたと明るく笑った。
「そういやぁ山中桐蔭電工に入ってたんだ!そーりゃ知ってるよな!」
あっはっはいやうっかりだと手を打った秀二に、今度は違う意味で「え」と声を上げた。慌ててキバを見て、「生徒さん?」と声をかける。
「おっ前…!この前もオレ教えたじゃねーかよ、何で会うたび忘れてんだ!――あ、先生今晩は!知能機械工学科一年の山中ッス!オレら一年は先生の授業取れなくて凄ぇ残念で・・・名取とは知り合いなんスか?」
前半は秀二を睨みつけながら怒鳴り、後半は直人にぺこりと頭を下げながら言った。直人もつられるように頭を下げ、あぁそういえばと頷き、確かに一年生は授業が無いなと――
―― "一年生"?
ぴたりと、動きを止めた。
唐突に止まった直人に、秀二と山中は顔を見合わせ、揃って直人を注視した。
直人は三秒ほど固まった後秀二を見つめ、そして山中に目をやった。
二人共に背丈は似たり寄ったりで、若干山中の方が高いが見上げているのは変わらない。きょとんと疑問符を浮かべて見上げる二人は、どうみても同じ年齢だった。
「………………」
直人はふと視線を虚空にやり、そこで漸く、なるほど、と呟いた。
「先生?」
秀二の呑気な声が響く。
情けなくもしっかり自分基準の固定観念に囚われてしまっていたが、考えてみれば彼は一言もそうであるとは言っていない。
その若さで飲酒を何故渋るのかと思ったが、なるほど、そう考えれば辻褄が合う。恐らくそれは、酒が好きとか嫌いの問題なのではなく。
「秀二さ、聞いてなかったけど。お前歳、いくつだっけ」
「え、言ってなかった?」
直人が聞いてないなと頷くと、秀二はそりゃ悪かったと笑い。
からりと。
「十九だよ!あと三ヶ月くらいで二十になるけどな」
―――未成年だからだ。
直人はそりゃあ堂々と酒飲みに行くのは憚られるだろうなぁと思い、今度佐々木に釘を刺しておこうと思った。