5話 押せないボタン
夕闇の迫る事務所外、秀二がぼんやりと眺める空は黄昏時に染まっていた。
決して美しいとはいえない光景、橙と紫を溶け込ませた異様な色彩。茫洋と見つめている栗色の瞳には空の大理石模様が色を投げ込み、玉虫のように多様な色をゆらめかせている。
手に握っているのはブルーの携帯だった。開かれたディスプレイには一人分の電話番号が表示され、点灯時間を通り越して明かりを失っている。夕闇空はそこにも己を映していた。
『工藤直人』
秀二は視線を空から携帯へ移し、表示された名前を目に留めて大きく溜息をついた。
光を失ったディスプレイは見難く、それは秀二に周囲の薄暗さを改めて理解させることとなった。だいぶ日が長くなったと思ったが、やはりまだ初夏を抜け切れていない。
かろうじて目を細めることで文字と数字は視界に届き、画面隅に小さく点滅する時刻を見れば就業時間を指していた。もう、定時を過ぎている。
唐突に、ぷつりと画面が真っ暗になった。画面表示時間すら過ぎてタイムアウトしたらしい。
秀二は無意識に苦笑を零し、とうとう表示すらも放棄した画面をぱくりと折り畳んだ。
暫し、丸くなって青い光沢だけを弾く携帯を見つめる。
「…も、もう遅いし」
ぽつりと呟いた言葉は、我ながら言い訳じみていた。しかもそれは人にではない、他ならぬ自分に対する言い訳でしかなかった。秀二はまた零れそうになった苦笑は苦労して飲み下し、土曜日だし、と断固その言い訳を正しいものとして自らに言い聞かせた。
(土曜は、大学の先生は休みだろうし――迷惑、だろ)
秀二はその説明に納得し、――否、納得させて。他の思考を断ち切りながら閉じた携帯を胸のポケットへと落とした。
ここ二週間、秀二はこの一連の動作を毎日最低五回は行っていた。
直人に電話をかけようとアドレス帳を表示させるものの、通話ボタンの上に置いた指は決してその圧力を増す事は無い。最初何を言うべきかとかける言葉を考えるのだが、考える内に電話をかけるには不味いタイミングであるという理由を無意識のうちに探し出し、そして結局「邪魔になるから」と断念する。これの繰り返しで、秀二が直人の番号を知り、既に二週間もの時が経過しているというのに通話に至れた事は一度として無かった。これではまるで、電話をかけない理由を考える為に携帯を出しているようなものだ。
例え本心が、全く逆の位置にいたのだとしても。
(―――だあああああ、あの時は平気だったってのに!!)
とうとう頭をぐわしと抱えて天を仰ぎ、秀二は胸中でもどかしさに絶叫した。あの日、直人をホテルまで送り届けた後向かった修理先は、直人に聞くまでもない簡単な部品交換で済む修理だった。その時は秀二も「ヘルプデスクは活用せずとも良かったな」と気楽に考え、折角与えられた玩具を使う機会を失った子供の様にただ残念がっていた。なのでまた別の機会があるだろうと極めて呑気な姿勢でその日一日を過ごしてしまったのだが、不思議な事にそれからもずっと壁にぶつかる様な難解な修理には当たらなかった。それはつまり、秀二が直人に電話をかける機会が無いという事でもあった。
そうすると、これまた不思議な事に接触から日が開くにつれ、直人に対して奇妙な壁を感じるようになった。その気後れは何故なのか段々と強さを増し、やがて少し話をしたいと思っても通話ボタン一つ押す事すらできなくなってしまった。日課のように直人の番号相手に没意義な睨めっこを繰り返し、その結果秀二が得たのは暗記が不得手という事実を捻じ伏せて空で番号を並べられる自分である。
メールアドレスを聞いておけばよかったと何度悔やんでも、全ては後の祭りだった。
「…俺こんなに小心者だったんだ…」
己の所作に当惑を覚えるほど横たわる事実は意外で、秀二は大仰に溜息を落として頭を抱えていた手をだらりと両脇に戻した。秀二は夕闇に溶けて行く空を複雑な思いで見つめ、仕事をするべく事務所裏にある自販機保管倉庫へと踵を返した。
周囲は刻々と濃さを増す夕闇に身を潜ませていたが、そこに梅雨特有の鬱陶しい湿気は見つからない。先日までの雨空は呆気ないほどの潔さで失せ、梅雨明けを皮切りに目にも眩しい青空が天空に広がっていた。季節はもうすぐ、盛夏を迎えようとしていた。
土曜日は大抵、修理件数が少ない。理由としてはもちろん、週休二日制を採用する会社が増えたからである。依頼した販売店が営業していても、その設置先が閉まっていればどうにもならない。道ばたに設置してあるならともかく、それがオフィス内のものであったり敷地内に置かれたものであれば、中に入る事ができないからだ。
その為、土曜日は秀二はいつもまず依頼があった設置先全てに電話して、営業の有無を確認している。そして営業が確認され尚且つ修理に来ても問題は無いと承諾を得られたら、早々と修理に出向いてその後は事務所へ戻り、新しい設置先を待つ自販機保管倉庫で機械の整備をしているのが常だった。
秀二は倉庫のシャッターを開けるスイッチを押すと、ふと思い立って事務所の窓をがらりと開けた。中を覗くとクリーム色で統一された内装の部屋に、事務服に身を包んだ女性がパソコンへ向かっていた。秀二は胸ポケットに差したボールペンを手に取りながら、少し大きめに名を呼んだ。
「矢崎さん」
「――はい?」
女性がこちらを振り向き、秀二を見てなぁんだという顔をした。そして笑いながらさっと席を立ち、スリッパを鳴らせながら窓際へと歩いてきた。
「何よもー、矢崎さんとかいうから吃驚したじゃない。アンタはリコでいいって」
「――あ、ごめん。リコちゃん」
指摘された事を慌てて言い直すと、別にいいけどさぁと女性は苦笑を浮かべた。
矢崎里佳子。秀二と同じ十九歳で、朝倉ベンダーにこの四月から勤め始めた新しい事務社員である。
肩まで伸びたピーチブラウンの髪に猫を髣髴とさせる少々きつめの瞳、唇に控えめに引かれたベージュの紅は薄く弧を描き、その小さめの顔に良く似合っている。この割合綺麗な容姿に騙されがちだが、実はかなり頭脳明晰で言いたい事はびしばし口にする中々の女傑である。秀二は彼女が入社してきたその日、姿を見て驚いたものだ。里佳子は秀二の学生時代最期となった中学の、クラスメイトだったのだから。
だが秀二が更に驚いたのは、紹介のあった朝礼後、里佳子に声をかけられた事だった。
秀二は中学時代、家の問題も有ったが勉強もそう得意ではなかった為、極めて大人しい学生時代を過ごした。友人など数えるほどしか居らず、それも他のクラスの人間であった為教室内ではほぼ無口だったと言っていい。小学生までは結構ドタバタして騒がしい性格をしていたが、中学に上がる頃に祖父が体調を崩し始め、それと同時に備えていた無邪気さは段々と形を潜めていった。里佳子と同じクラスになったのは中学二年と三年の二年間だったが、秀二が祖父を亡くしたのは中学二年の後期だった。それにより保護者を失った秀二は手続きやら何やらで学校に顔を出す事も減り、かろうじてクラスメイトの顔は覚えていても思い出らしいものは何一つ持っていない。だから、滅多に学校に来なかった自分の事など里佳子は記憶していないだろうと思っていたのだ。今でこそ完全に騒々しい性格に戻っているが、当時は間違いなく大人しくしていたのだから。
『久しぶりね!卒業して以来だから四年ぶり?』
にこにこして声をかけてきた里佳子に、秀二は頷きながら笑った。
『かな。四年ぶりか。でも覚えられてるとは思わなかった』
『――えぇ?』
驚いてそう目を丸くした里佳子に、秀二がきょとんとする。
『それ本気で言ってる?あんた一番目立ってたじゃない。滅多に来ない上に来たと思ったらどこか達観した目でクラスを見るし、同じ歳の人間とは思えなかったわ』
そうして少し寂しげな笑みを浮かべ、結構人気あったのよ、と秀二を伺うように見て語っていた。秀二にとっては寝耳に水の話でしかなく、他人の話を聞いているような心境だった。
「で、どうかしたの」
窓越しに尋ねてくる里佳子に、秀二はボールペンの芯を押し出しながら、設置依頼の入っている機械の型式を尋ねた。
「一昨日入った小松飲料のショケース、型式教えてくれない?」
「整備するの?」
「うん」
頷くと、里佳子が呆れ気味にもう定時を過ぎたわよと時計を指した。
「就業時間終わったんだから帰ったら?」
「そりゃ俺の台詞だよ」
秀二は外の薄暗さを指して暗くなると危ないと進言したのだが、当の里佳子はけらけらと笑って首を振った。
「いいのよ、やっと最近楽しくなってきたところなんだから。―――それに」
里佳子はすっと目を鋭く尖らせると、にまりと唇を邪悪な形に歪め。
「私に狼藉を働く悪漢は、美しくラッピングして三途の川に放り込んでくれるわよ」
――猛者だ。
ぎらりと光った目に我知らず、秀二は背筋をしゃきりと伸ばしていた。
この見た目華奢な里佳子、合気道の全国大会優勝者、しかも三連覇を達成した人物なのだ。入社の挨拶で「得意なことは四方投げと小手返しです」と爽やかに言って社員を硬直させていた。
里佳子は硬直した秀二を余所に、ぎらついた猛者の笑みを引っ込めると「あら失礼」と笑った。そして「ちょっと待ってなさいねほほほほほ」と涼やかな笑い声を転がして窓辺を離れ、依頼書を取りに事務所の奥へと姿を消していった。
――里佳子にだけは楯突くまい。
秀二は体を壁にぐったりと預け、そう堅く心に誓った。
依頼書が挟まれているバインダーを手に戻ってきた里佳子は、顔に顰め面を宿して現れた。
どうかしたのかと首を傾げると、里佳子はバインダーを差し出しながら唸るように言った。
「ねぇ、私こんな型式見たこと無いんだけど。コレ自販機?」
勉強不足かしらと言う里佳子に秀二は目を瞬き、依頼書の型式を見てあぁと声を上げた。
「これショーケースだから」
「ショーケース?」
「うん。店用の冷蔵ケース。コンビニの壁にあるガラス扉のジュース棚みたいなモン。えーと、RMA-120RCね、サンキューリコちゃん」
「どういたしまして」
ボールペンで左腕に型式を書き付けて依頼書を返すと、里佳子に手を振り秀二は事務所を後にした。だが数歩歩いたところで足を止め、慌ててその腕に書いた型式を再度見直した。
「――これ一人じゃ無理じゃんか」
里佳子との会話でまったく考えてなかったが、書き記された型式は大型のショーケースのものだ。フォークリフトを使えば一人でも移動できるだろうが、残念ながら秀二はまだ免許を取っていない。
どうしようかと思いながら倉庫に入ると、外よりも更に暗い倉庫が秀二を迎えた。壁伝いにスイッチを探して点けたが、高い天井から下がる蛍光灯はどうにも薄暗さが抜けない。
しかもその微妙に薄暗い倉庫で見つけたショーケースは、やはりどうあっても一人では無理な代物であった。
「…佐々木さんに手伝って貰うかな。設置班は今日予定無いって言ってたはず」
脳裏に浮かんだ大柄の姿は、朝倉ベンダー設置班所属の設置課長、佐々木孝彦。銜え煙草でひょいひょいと自販機を動かす、恐るべき怪力の持ち主である。
見た目は少し声をかけるのを躊躇いたくなる容姿をしているが、とても面倒見が良く、気のいい人柄をしている。秀二に自販機のイロハを教えてくれたのは実はこの上司だ。因みに誰も課長と呼ばないのは、別に虐げているのでは無く本人が嫌がるからだ。
秀二は佐々木の逞しい両腕を思い浮かべ、あのオッサンなら素手で移動できるに違いないと化け物を見るような目で機械を見つめた。
忘れもしない、秀二が入社した初日、佐々木は「そうか中学出たばかりか、小さいなぁ坊主!」と十五歳の秀二を抱え上げて振り回したのである。
「悪い人じゃ無ぇんだけど、豪快通り越して大雑把なんだよなぁ…」
佐々木を呼ぶ為に事務所へ戻りながら、秀二は渋面を浮かべて小さくぼやいた。
* * *
「えぇ、はい――あ、戻って参りましたので代わります。少々お待ち下さいませ」
秀二が事務所へ入ってくると、里佳子が電話を片手に手招きしていた。
きょとんとして己を指差すと、頷いた里佳子が保留ボタンを押し、「朝倉電機から電話よ!」と叫んだ。親会社の名前を言われ、秀二はぎょっとして自分のデスクへと走る。名指しで電話があったという事は、自分の出した伝票に問題があったという事だ。
事務所は二階建てになっていて、修理班と事務が一階、設置班が二階に自分のデスクを置いている。向かい合わせで並べられているデスクは六つあるのだが、修理班の人数は全部で五名しか居ない。昔六名居た名残なのだろうが、今現在はただの物置と化していた。
秀二のデスクは里佳子の向かい側、つまり入り口から一番近い場所にあった。秀二はデスクに走り寄ると机の書類を適当に引っ張り出し、ペンを握りながら受話器をとった。焦りながら回線ボタンを見ると誰かが二階で電話をしているのか、ランプが二つ点滅していた。
「何番!?」
「二番よ!男の人だったわ!」
「――え」
瞬間、秀二は手を止めてかなり嫌そうな顔をした。朝倉電機の事務員は全員が女性で、男が電話をかけてきたという事はつまり、専門者の人間が電話をかけてきたことに他ならない。
(ま、またか…)
うんざりと嘆き、心底にこの電話機が故障して欲しいと思った。出たくない。僅かに逃げ腰になり、時間稼ぎの様にゆっくり椅子を引いて腰を下ろす。察したらしい里佳子が苦笑いしているが、秀二は二番の回線ボタンに指を置きながら深々と溜息を落とした。
この反応は秀二に限らず、他のサービスマンにも言える。
親会社である朝倉電気の「専門者」と言われる人間は、提出された伝票に不備があると詳細な説明を求めて担当者へ電話をかけてくる。ただ普通に質問してくるだけならば問題は何もないのだが、その質問の仕方は普通というにはあまりに捻くれたやり方だった。
彼らはわざと解りにくいような専門用語を連発し、返答に詰まると説明できないのかと鬼の首を取ったように勝ち誇って責め立てるのだ。
『――絶対に奴らは俺たちでストレス発散をしている』
先週、30分以上責められて突っ伏しながらそう断言したのは、秀二の二年先輩である鈴木大輔だった。そしてそれに追従して頷いたのはその場に居たサービスマン全員だ。
「――お待たせ致しました、サービス担当の名取です」
観念して、嫌々ながら名を名乗ると、受話器の向こうで風が吹くような音が聞こえた。同時にざざ、と鳴った音は、相手が外で携帯からかけているという事を示す独特の雑音だ。
(?――専門者じゃないなこれ)
秀二は即座に判断した。彼らは完全にデスクワーク人間なので、外から電話をかけてくることは無い。とすれば、修理で相談があった技術系の人間である確率が高かった。
「もしもし?」
『―、ァ――、…――』 電波が悪いらしい。途切れがちの音声が聞こえ、辛抱強くもう一度声をかけてみる。すると相手は移動したらしく今度は「もしもし」と低い男の声がはっきりと声が聞こえ―――
―――秀二は受話器を取り落とした。
ごとんという音が事務所に響き、驚いた里佳子が顔を上げて秀二を見た。秀二は慌てて落とした受話器を手に取り、里佳子に何でもないと手を振る。だが顔も動作も完全に動揺を示し、どこら辺が何でもないのかと突っ込みたくなる狼狽ぶりを表していた。
秀二は「え、何で、え?」と訳の解らないことを口にし、受話器を手に持ったまま放置していることを思い出したらしく慌てて再度受話器を耳に当てた。そしてまさか、いやそんなと可哀想なくらい慌てた表情で、「あの、もしかして」と口にし。
「く、―――工藤、常務…?」
言った途端、向かいでこちらの様子を伺っていた里佳子がぎょっと目を見開いていた。
この業界に入って間もない里佳子でさえ、その名前がどれだけ稀有な存在であるか知っている。
『常務の呼称は嫌いだって言ったはずだけど』
秀二が呆然としていると、受話器の向こう側の声主が不満げな声を上げた。更に暢気な口調で、それなら"先生"の方がまだいいなぁとぼやかれ、秀二は、へ?と間抜けな呟きを漏らした。
『へ、じゃないよ。何ださっきから…そんだけ若いのに痴呆は早いぞ?』
そう言うなり受話器の向こうでけたけたと笑い声が響き、秀二の肩に集まっていた緊張ががらがらと音を立てて崩れていった。真っ白になった頭の中、流れてくる笑い声は紛れも無くあの"先生"。穏やかでどこか間延びしたような、そのくせ俳優かよと突っ込みを入れたくなるような、綺麗な顔の。
秀二の心境など知らぬとばかりに、声主の直人は楽しげに尋ねた。
『全然連絡がございませんが、その後いかがかなーと思ってね。頑張ってる?』
「いや、そりゃ、が、頑張ってっけど、――つか、先生!何だ急に!」
『ははははは吃驚しただろー』
吃驚なんてもんじゃないと思わずぼやけば、してやったりといった笑い声が耳を打った。それを途方に暮れた顔で聞いていると、秀二はこの二週間自分は何を悩んでいたのかと物凄く馬鹿らしく思えてきた。
「あぁもう、俺馬鹿みたいじゃん…」
『うん?』
今までの自分が異様に可笑しくなり、秀二もぶは、と盛大に吹き出した。
里佳子がぽかんと秀二を見ていたが、秀二は構わず机を叩いて大爆笑した。無意識の内に積み上げていた意識の壁が、完全に崩れ去った瞬間だった。
そうしてひとしきり二人で爆笑した後、漸く直人が言ったのは。
『暇なら一緒にお食事などいかがでしょう』
――食事のお誘いであった。
そんなことの為に会社に電話をかけたのかと思ったが、考えてみれば秀二は直人に番号を教えていない。秀二は会社の電話を一旦切った後、プライベート用の携帯を取り出して二秒と経たず電話をかけた。
そこに二週間も苦悩した迷いは、一切見あたらなかった。