4話 夢と現
車体が通りへ身を滑らせると、小雨だった雨がだんだんと激しい粒を落とし始めた。あたりにはアスファルトを叩く音が轟音となって響き、落ちた雨たちは川のように緩やかな坂を下り落ちていく。スリップを警戒してか、運転する秀二はスピードを落とし気味にアクセルを踏んでいた。
交差点を右折した左手には、色鮮やかな赤と青の自販機が立ち並んでいた。そこに雨よけの傘は作られておらず、野晒しに放置された自販機の下には水が溜まっている。
あれでは、近いうちに故障を起こしてしまうだろう。
直人が隣へ視線を向けると、秀二も同じ自販機に目をやっていた。
車は信号に差し掛かり、前の車に倣い停止している。その場所から水に浸かった自販機はよく見えた。
自販機を見る秀二は、至極嫌そうな顔を浮かべていた。直人が笑みを零すと抗議の視線がぎろりと向かい、直人はそれにあえてにこやかに微笑みかけてやった。直人は何となく、秀二の考えている内容に見当が付いていたのだ。
あの自販機が修理依頼を出すならば、状況を見る限り電源が入らないといった電気関係の依頼が来るだろう。電源を司る装置、電源ボックスは、自販機の心臓とも言える部分で少しでも故障が見つかれば大概がボックス丸ごと交換する法を取る。交換時に繋ぐ配線は多少複雑といえば複雑だが、センサーを数本ハンダづけして、後は各所にコードをつなぎ合わせるだけだ。そんなに難しいことはない。
だが、それはあくまで"取り替える"と決まったときの話だ。むしろ問題なのは、取り替える以前、「電源ボックスに異常がある」という判断を下すまでの課程だった。電源ボックスは言った通り、心臓部である為それ単体が自販機に悪さをするということはあまりない。たまに予想外な箇所の故障を引き起こすこともあるが、滅多なことでは関係しない。サービスマンが電源に詳しい人間であればすぐに電源ボックスへ辿り着くことが出来るが、そうでない者にとっては全部解体した方が早いんじゃないかと思うくらい繋がりのある基盤や電装ボックス、扉スイッチやスレーブ板、果ては自販機の脳味噌であるマスターボックスまで虱潰しに見ていく必要があった。つまり正直言って、電源関係は面倒なことこの上ない修理なのである。
移動範囲の感じとして、秀二の担当する地区はこのあたりになるのだろう。だとすれば、依頼があればそれは間違いなく秀二に回ってくる。しかし短時間だが会話した限り、秀二が電源に強そうな性質を持っていたようには思えない。
つまり。秀二は恐らく電源関係の修理を不得意としている。彼には辛い作業だろう。
「秀二」
「なにー」
「ドンマイ」
「……」
慰めのつもりで真面目にそう言ったのだったが、隣からはウルセェという拗ねた声が返ってきた。見ると態度に「どうせ半人前ですよ」といった卑屈オーラが滲んでいて、直人は吹き出すのを堪えて足元に視線を向けた。――そのシートの上、ボールペンがコロンと落ちているのを見つける。
更に視界を広げると、小さな部品やらメモ紙の切れ端やらが好き放題散乱していた。秀二の部屋の小奇麗さを考えれば不思議なほどの放置ぶりだが、直人はあまり深く考えず足下に転がるメモ紙とペンを手に取った。仕事と家は別、多分そういう事なのだろう。直人の本籍である朝倉電機にも、そんな人間が居る。
直人は拾った紙を唯一平らだった横の窓ガラスに押しつけ、090で始まる十一桁の数字を書き記した。直人の携帯電話の番号である。
それを、秀二の目の前に掲げた。
「――えっ」
「どーぞ。解らなくなったら聞いていいから」
「へ」
茶色の双眸が丸くなる。それににこりと笑って応えると、掲げていた紙を二つに折り畳み、秀二の胸ポケットに差し込んだ。
「先生っこれ」
「あ、信号変わった」
何かを言いかけた秀二を制し、前方を指差す。秀二が慌てて前を向いた瞬間、手前に停まっていた車がブレーキランプの赤を消す。雨に霞む視界で、信号の青色がぼんやり光っていた。
秀二がギアをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。すっと動き出した車体にあわせ、タイヤが水を飛ばす音が一緒に隣を追いかけてくる。先生、と秀二が言った。
「な、これ本当に俺使っていいの?かけていい?」
「かけなきゃ意味無いだろ」
そうだけど、と躊躇いがちに言う秀二に、直人は笑った。
「なぁに今頃遠慮してんだ。俺を"ヘルプデスク"と言ったのは誰だよ?」
途端、運転中のため前方を見たままであったが、秀二の顔には満面の笑みが浮かんだ。
「やった、先生サンキュー!今日の修理、実は自信無かったんだ!」
弾んだ声でそう喜び、金が飲み込まれるつってんだけどそれコインメックがどうというよりどうも電源ぽくてさぁと依頼内容を上機嫌に直人へ話し始めた。それに直人はうんうんと相槌を打ちながら、渡してよかったと小さく笑みを零していた。
――ヘルプデスク。
それは、直人の素性を聞いた秀二が、硬直が解けた瞬間に言った言葉だ。
曰く、『すげぇ俺!最強のヘルプデスクと知り合いになった!』
――流石である。
直人は常々、一人歩きしてしまった名前を持て余し、辟易している。理想を持つなとは言わないが、自分は自分。その通りに演じることなどできもしないしするつもりもない。押し付けられるなど真っ平だ。
だが状況は、常に理想を強要する。
直人は人だ。機械ではない。直人は現実だ。空想ではない。工藤直人は己一つで存在している。知らぬところで造られた言葉や想いなど、直人の一部になり得はしない。
時折辛気臭く、深い溜息をつきたくなるのも仕方なかった。例え己のことであろうが、一度歩き始めたものを止める程直人に力は与えられていない。
――もはや自分はその扱いでしか生きられないのか。
そう想うのも至極道理だ。
だが。それを秀二は、「ヘルプデスク」と一言で斬ったのである。
ヘルプデスク――要するに、「便利な人」。
こうもはっきり便利人間だと宣言されると、逆に気持ちが良いというものだ。
「そういえば、昨日家に運んでくれたのは秀二なんだよね?」
「は?」
ふと一つ思い出して聞くと、秀二が目を瞬かせてこちらを向いた。が、直ぐに前を向く。
対向車線をパトカーが通り、他の車と共に後ろへ流れていった。
「そーだけど。何、そこは覚えてねーんだ?」
「ちょっと所々がね・・・」
面目ないと直人が頭をかけば、秀二はしょーがねぇよフラフラだったしと、笑って首を振った。
けれど直人のそれは、覚えていないというのとは少し違った。直人は覚えていないのではなく、どこまでが正しいのか記憶に自信が無かったのだ。
朦朧とした意識の中で見た光景は現とするには輪郭がぼやけすぎ、けれど夢とするにはあまりに印象が強い。直人はそれを、夢か現か判断できないでいた。
(だが、夢、ということはないだろう)
ぼんやりと直人は窓の外を見た。
そこは昨夜と変わらない豪雨が、カーテンの様に世界を覆っていた。
―――おい、あんた!
声がかけられた時、直人自身、座り込んでどれくらいの時が経っていたのか解らなかった。遠く離れていた意識でぼぅと開けた視界、広がったのはモノトーンの世界だ。
夢か現が解らない光景。不思議と何の感覚も無かった。夢だ。直人はそう思った。
色の無い視界がゆらゆらと揺れ、どうやら揺すられているようだった。視界の隅に何かがちかりと光を弾いた気がして、釣られた様に首を持ち上げた。
そこには青年が一人、直人の顔を覗き込んでいた。
―――大丈夫か!?
声は酷く籠もったような響きを持って、音としてははっきり認識できなかった。側を流れ落ちる雨の川が、コマ送りのように断続的に映像を送る。場は酷く、朧気だった。
周囲は何の現実味も色も持たないのに、青年だけは色を持っていた。
光を弾く濡れた茶髪と、蛍光灯を映した栗色の瞳。その二つは閃光のようにぼけた意識へ滑り込み、青年の額に垂れた前髪の束が含みきれない滴を零しているのを、ただ無心に眺めていた。動かない直人に、青年が何かを言いながら体に触れた。そして―――
それきり、記憶は無い。
何か会話をしたような気もしたが、何を話したのかも全く覚えていない。
見た色彩は茶色と栗色。現れた青年が夢と思ったのも、それが亡くなった師が宿していた失われた色だったからだ。――だから、夢だと思った。
『――名取秀二』
全く同じ色彩を持った青年は、師と同じ姓を口にした。
あぁ、と胸に声が落ちる。あぁ本当に、もう。
――信じられない。
(何て信じられない偶然だよ。――本当に、こんなこと有り得るのか?)
妙な笑いが漏れそうだ。
師に子供がいた事を、直人は知らなかったのだ。
かちかちとウィンカーの音が聞こえ、直人はふと視線を前方へ戻した。降り続く雨が勢いを増し、フロントガラスに落ちる粒はワイパーに拭われて川の様に流れていく。濡れて真っ黒になったアスファルトが、車の灯したライトを映して揺れる光を弾いていた。
「あ、そういや先生」
唐突と、秀二が思い出したように話しかけた。直人は軽く目を瞬き、首を傾げる。
「何だ?」
「うん、三笠セントラルホテルなんだけど、アレさ」
「――うん?」
思わず、傾げた首をさらに傾げた。
秀二の言った三笠セントラルホテルは、直人の現在宿泊しているホテルの名前だ。それは解るが、あまりに急な会話の切り替えに一寸思考が詰まる。
当人が最初に言っていた通り、"説明が足りない"秀二の話は本当にいきなり始まる。直人が浮かべた苦笑は意に介さなかったか気付かなかったか、秀二は「あ、ちょっと待って」とサイドミラーに目をやった。握ったハンドルをくるりと滑らし、大型デパートの地下駐車場へと車体を入れ込む。曇天とはまた違う薄暗さがさっと車を包んだ。
三笠セントラルホテルには、駐車場の設備が無い。代わりに最寄の駅まで送迎タクシーが着いており、ここに宿泊する客はその制度を利用してこのホテルを訪れる。秀二が今入った大型デパートはホテルの真後ろに位置しており、本当はよろしくないことだがホテルに用がある者は大概がそこに停める様になっていた。直人もこの近辺は軽く散策したのでそれ位は知っている。
「んでさぁ、このホテルってここらへんで一番高いホテルなんだぜ。中、綺麗だろ?」
そう言って、さすが優遇されてるよな先生、と何故か秀二は誇らしげな笑みを浮かべた。
薄暗い地下にぽつぽつ蛍光灯が光り、場にぼんやりとした明かりを落としている。空いているスペースを探してうろうろと視線を動かす秀二に、直人は右の端を指差して空いている場所を教えてやった。
そうして、いや別に、と口にする。
「優遇されてるわけじゃないでしょ」
「えー?でもこのホテルなんだぜ?優遇されてるじゃん」
「いや、大学がそのホテル指定しただけだし。払ってんの俺だよ」
瞬間。
「―――ッ!!?」
ぎゅいいいと、地面とタイヤの擦れる酷く耳障りな音が耳を劈いた。
急停車に驚く間もなく車体は揺れ、前へ飛び出しかけた体をシートベルトが抱きとめた。一体どうしたのかと慌てて秀二見れば、秀二もまた、驚いた顔で直人を見ていた。
「――ッどうした!?」
「自費って!!」
問いに絶叫で返され、一瞬直人は口を噤んだ。自費?と眉を寄せて聞けば、秀二は必死な顔でうんと勢い良く頷いた。――意味を、図りかねた。
「し――秀二。詳細に…」
「講師来いっつったの大学なんだろ!何で自費なんだよ!?」
――は。
理不尽だ!と目を吊り上げ怒鳴った秀二に、直人はようやっと状況を理解した。
今の急ブレーキが事故ではなかったらしい。事実を悟り、強張っていた体から急激に力が抜けた。ちらりと見た窓の外、くっきり焼き付いたタイヤの跡は黒々としている。――横の柱にある非常灯の赤いランプがそれを照らし、いやに呑気な様相に見えた。
「秀二、とりあえずバックをだな」
邪魔になる、という直人の言葉は信じられないという絶叫にかき消された。
頭を抱えた秀二が、絶望したように首を振る。
「あそこ一泊一万六千円するんだぞ!そ――それを自費って!自費って!!」
――まるで世界の終わりが如き風情だ。
直人は中途半端に手を上げたまま固まり、口にすべき言葉を見つけ損ねた。点になった目に映る視界では秀二が顔を真っ赤にして、桐蔭め我らが朝倉電機の最高技術者になんてことを、この罰当たり、などと酷く憤慨して叫んでいた。
まさに赤鬼、怒髪天。
――いや、これ俺のことだよな?
自分に確認しながら何となく直人が解ったのは、秀二は直人の待遇が悪いという状況がとてつもなく許せないらしいという事だった。――だが、それは他人事だろうに。何故秀二が怒る。
困惑する直人を他所に、拳を握り締めた秀二が目に炎を灯して直人を振り向き、びしと指差した。
「これはおかしい!つか、ぜってぇンなとこ損だ!朝倉電気が嫌になったんならウチに来いウチに!栗原社長が雇う!間違いなく雇う!住宅手当も家族手当も賞与昇給有給休暇もあるし!学歴云々で判断したり馬鹿にしたりしねぇしぜってぇ足元見ねぇしー!!」
段々言いながらヒートアップしてきたらしく、秀二は直人の襟元を掴むと火を噴きかねない形相で、とうとう理不尽死ねぇと絶叫した。
何か足元を見られた過去があるのだろうか。直人はがくがくと揺さぶられる頭で思った。
――って、流されてる場合じゃない。
漸く我に返り、直人は慌てて秀二の手を押さえた。
「わ、解ったから落ち着け秀二!出てきた訳じゃなくて出張!出張だから!」
というか後からちゃんと請求するから襟から手を外しなさい、ね、と言って乗り出している体を宥めさせ、何とか元の冷静さを取り戻させた。
「後から請求すんの?」
「うん、一応はね」
「――なら、いい」
ふぅと一仕事終えたかのようなため息を着いて、秀二はシートに身を沈めた。漸くギアをバックに入れ、後方を確認しながらくるりとハンドルを片手で回す。バックにギアが入っていることを示す確認音が、きんこんと軽やかに鳴り続いた。
秀二の顔はまだどことなく不満そうではあったが、一応の納得はしたのか大人しくサイドブレーキを引いている。ふと、後ろで何かの落ちる音がした。
直人が振り向くと、そこには「98年式--2000年式」とラベル表記された庫内ファンモータの箱がシートの下に転がっていた。
「秀二、部品落ちてるけど」
「え?あー、あぁそれ」
首を戻してそう言ってみれば、秀二は運転席足元の扉ポケットからクリアケースを引っ張り出していた。ぱちんと端を弾いて書類を出し、それは違ぇよと平然として言う。
「それで俺は片付いてるんだ」
さっぱりとそう言われ、直人はそうなのかともう一度後ろに首を向けた。しかしシートの上と言わずあちこちに転がる部品の様子は、とても整頓されているとは思えない。ふと見た運転席裏の網ポケットになど、基盤が豪快に2枚突っ込まれていた。
「秀二…基盤こんな仕舞い方したら壊れない?」
視線を再度運転席へ戻すと、秀二はけろっとした顔でボールペンを胸ポケットに差し。
「大丈夫。俺部品の修理が一番得意なんだ」
そんな問題ではない。
どうやら部品がひとりでに壊れてしまうのは、秀二にとって日常茶飯事らしかった。
「ところでさ、先生講義何時から?」
「え?あぁ、」
書類の束をクリアケースに戻し、秀二がドアを開けながら聞いた。直人も小脇に置いていた丸めたジャケットを手にすると、足を伸ばして地面に下りた。コンクリートで固められた地面は乾いたままで、直人の湿った革靴でも辺りには小気味良い音が転がる。――考えるように指先で顎を撫ぜた。
「一時からだった筈だけど」
「一時」
秀二が左腕を見た。シルバーの電波時計が側の非常灯の赤を映し、同じように秀二の顔も片面だけ赤を帯びる。
途端、栗色の瞳が、あ、と。――大きく。
「先生、―――今、12時30分」
覗き込んで針を見ると、長針は講義開始の30分前を差していた。
――おぉ。
「本当だ」
「イヤ本当だじゃねぇよ!」
何他人事のように言ってんだと慌てる秀二に、まぁそんな事もあると肩を叩くと、思い切り「ねぇよ!」と裏手突込みを受けた。見事な切り替えしだと感心する。
「つぅか何のんびりしてんだよ!早く、先生早く部屋戻って支度をー!!」
「、おわッ」
直人の腕を握って走り始めた秀二に、慌てて直人も足を動かした。だが秀二は直ぐに手を離して、「傘!!」と叫びながら車の方へ走って帰る。
直人は慌てふためくその背を見ながら、そんなに急がなくてもいいのになぁと呟いた。
「どうせ時間通り行った事無いしなぁ」
講義に遅刻して現れるのは、直人にとって日常茶飯事の事だった。