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3話 同じ闇



 修理手帳を開いてスケジュール確認をすると、午後二時指定の修理が一件だけあった。その前の予定は空白で、携帯のメールボックスを見たが新しいものは無い。

 一応センターへ問い合わせもしてみたが、新着メールの通知も無かった。

「おーし、問題無ェな」

 呟いて頷くと、秀二はブルーの携帯を閉じた。ぱくん、と小気味良い音がする。

 ――"会社携帯・俺"。

 秀二がその名でプライベート携帯に登録する番号は、会社に支給された携帯電話機の番号である。

 普通、会社支給の携帯は通話料金だけ会社が払い、機種変更の類は個人のポケットマネーという仕組みであることが多い。だが秀二の会社――朝倉ベンダーサービスでは、親会社の電機メーカー側から「カメラ機能が高性能」の携帯を持つようにとの指示で、通話料金どころか機種代も全て会社が負担するような仕組みを取っていた。

 自販機という機械は、形は大きくてもなかなかデリケートな精密機械だ。配線やモーター、押しボタンなどの小さな故障ならばそう金額も高くないが、事故や悪質なこじ開けで大きな破損を受けた場合、自販機自体を新しく入れ替えた方が安く済むことがある。その時に活躍するのが携帯に内蔵されたデジタルカメラだった。修理に出向いたサービスマンが入れ替えの方が安かろうと判断すれば、その破損状況の写真を携帯に収め、その自販機管理会社へ送信する。報告を受けた管理会社は入れ替えか修理続行の判断を下すと、オペレーターと呼ばれる「その自販機を使って飲料を売っている」販売店に連絡する。オペレーター側がそれでいいと了承をするとそれが秀二達サービスマンに伝えられ、修理続行なら修理に、入れ替えるなら修理キャンセルにと行動を移すのだった。

 それがあり、秀二の会社用の携帯は現在最新機種のものだ。片手作業が多いためスマートフォンは使えないのが残念だが、メーカー側からは「このシリーズに」と言った指示はあっても色は各自好きなものを選んでよかった。まだ変えたばかりのお気に入りのきらりと艶やかに光るフォルムを胸ポケットに戻すと、秀二は後方を確認し、車のウィンカーを下に落とした。

 その道は、アパートに続く交差点に向かって伸びている道だった。



 倒れていた「先生」が居た桐蔭電機工科大学は、ほぼ男子大学と言っても過言ではない、秀二は正直言ってむさくるしいイメージしか持っていない大学である。

 その日依頼された故障内容も流石と言うか、サークルの部室で酒に酔った学生が自販機をゆすりまわし、翌日他の生徒が買ってみたらジュースがちっとも冷えなくなっていた、というものだった。――機械を揺すったせいで冷却機が位置をずらし、ガス漏れを起こしたのが原因である。

 揺らしさえしなければ故障しなかったのだから、アホかとしか言いようが無い。

 だがこんな修理内容はこの大学に限り珍しくも無かった。秀二もしょっちゅうこの大学に呼び出されては修理に訪れ、顔見知りの生徒や先生ができる程度には通っている。こうなるともういっそ設置するのを止めたほうが修理代が嵩張らず良いのじゃないかと思われるのだが、「学校」という場所に設置した機械は他に比べて恐ろしく良い売上を記録する。だから修理代など屁でもないのだという、秀二たち修理業者からすれば有り難いような迷惑のような事情で、こうして意味の無い修理に何度も出向いているのである。――秀二個人の意見を言えば、頼むから仕事増やすなと言いたいところだが。暇で仕方ないなら兎も角、生憎と結構他の"普通"の修理も秀二は抱えているのだから。


 そんな血気盛んな生徒がいる学校に、新しく見つけた顔があの「綺麗な先生」だった。

昨日の昼、職員室に自販機の鍵を借りる為「朝倉ベンダーサービスでーす」と名乗りながら訪れると、いつもの若い男性助教授が「よぅ」と顔をだした。名を田中と言い、彼がこの大学で自販機の鍵を管理している人間だった。

 秀二は田中の挨拶に笑って返し、「うっす」と手を上げ――ふと中に、もう一人男が居る事に気づいた。

 男は何か集中して作業に取り組んでいるらしく、黒いスーツの背中を向けてノートパソコンを叩いていた。見たことが無い人が居るなとそれを見ながら田中から鍵を受け取っていると、その男性が唐突にくるりとこちらを見た。

 驚いて「え」、とつい正面から顔を見て、――秀二は更に吃驚した。

 鮮やかとも言える艶を持つ黒髪に、吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳。ただの黒一色のはずなのに不思議と何色もの光を纏っているような錯覚に陥る。というか、それ以上に吃驚したのがその顔の端正さだった。素で思わず「俳優か!」と突っ込みそうになり、慌ててそれを抑えて頭をぺこりと下げた。向こうも目が合った瞬間驚いたような表情をそこに浮かべたが、秀二の挨拶に「こんにちは」と頭を下げた。その後、自販機の設置場所に向かいながら「このむさい学校にはおよそ似合わない人だよなぁ」とかなり失礼なことを呟いた秀二が居た。



 ――それが昨夜外灯の下で倒れていた、今は己のアパートにいる男である。

 つまり秀二は、男と面識はその一度だけで、親しくないどころか知りもしない人間なのだ。


(別に見たことあるような人でもないもんな)

 緩やかなカーブを曲がりながら、秀二はこの不思議な状況に思い悩む。

 顔をその一度を除けば過去に見たこともなければ会ったこともない。全く何も、全然知らない人間に相違ない。

 ――だというのに。

 緊急時とは言え何故自分は躊躇いも無く自室に引き入れ、介抱して食事まで作って、挙句様子見に戻ろうとしているのか。秀二も自分が冗談でも人見知りする性格だとは思わないが、こんな見ず知らずの人間相手に何故ここまでするのか解らなかった。

 性格はどうだか知るところじゃなかったが、綺麗な筋肉の付く均整の取れた体と言い嫌味な位色男な顔といい、さぞやあの先生は人気があることだろう。普段なら間違いなく気に入らない部類に入る人間であるし、どうしてこんなに純粋な意味で気がかりなのか解らない。どこからみても「普通」という容姿しか持たない秀二は、どちらかといえばイケメンが嫌いだ。

 だが、と思う。

 あの雨の中濡れたアスファルトに力なく投げ出された体は冷たく、触れた瞬間どうしようもない恐怖が込み上げた。《連れて行かれる》、ただその恐怖が。

 ――思うのだ。

 もしあれが「先生」ではなく他の人間だったら、もっと冷静に対処できたのではなかろうか、と。

(変だよなぁ、初対面なのに他人のような気がしねェっての)

 雨に濡れ、項垂れたその姿が。なぜか、近しいものの姿に見えた。

 近しいもの――否。あれはむしろ、既視感とでも呼ぶべきではないだろうか。

 あの雨の日に見た、――白い、顔たちの。


「…全然、似てもねぇのにな――」


 ――ざぁ、と雨音が車内に響いた。

 口に暗い笑みが上り、何かを宥めるように目を眇める。

 白い顔は白いまま。どれほど待っても帰ってきたりはしない。その現実を知っている。

 知っている。どれほど待っても、無駄なことなど。


 今日の朝、起きて隣に血色の戻った安らかな顔を見つけた時は、心底に安堵したものだ。本当は起こしたほうが親切だったのかもしれなかったが、洗濯機を回そうが箸を落とそうが食器をぶつけようが、全く起きない様子と顔に現われた色濃い疲労に声をかけることが躊躇われた。暫く考えた末にプライベートの携帯を開いてテーブルに置き、広げた紙にただ一言「食っとけ」とだけ書いた。――たったその一言でも、ペンを持った右腕は緊張していた。

 未だに"書き置き"を恐怖する体の執念深さには、苦笑するより他、無かった。


 秀二はサービスカーの白いカローラを滑らせ、「先生」を見つけた自宅に繋がる交差点を右に曲がった。緩やかな坂道を登るとアパート横に雑草のひしめいた小さな空き地が見える。そこに豪快に車体の鼻先を突っ込んで車を停めると、左指でシートベルトを解除しながらキーを回してエンジンを止めた。

 フロントガラスは飽く事無く雨粒を流し、ワイパーの止まった景色は不規則な揺れを描く。知らぬうちに奥歯をかみ締めてキーを引き抜き、降り落ちる雨粒を無視するように外へ飛び出した。そうしてエントランスに向かいながら、何年も繰り返し呟きつづけた言葉が脳内に踊った。

―――"六月の雨は嫌いだ"。と。



 * * *



 がちゃん。


 ロックを外して玄関を空けると、男が驚いていた。

 何故か男は所在無さ気に突っ立ったままこちらを見ていて、ぽかんとこちらを見つめている。それがあんまりギョっとした顔で見ているので、家主の秀二の方がきょとんとしてしまった。彼の顔は、突然で驚いたというより「予想外のものを見た」といった種類の驚きに縁取られている気がした。

 何で椅子があるのに立っているのか、とか、自分は驚かすような顔でもしているのか、とか。一瞬動きを止めて考えたが、ふとその手にシルバーに輝く自分の携帯を見つけ、それであぁと合点する。

(またやっちゃったな)

「えーっと、その」

 ぽかんとしたままの男に、ゴメンナサイと頭を下げた。

「は…え、――えぇ?」

「いや俺さ、いつも会社でもお前は説明が足りねぇって怒られてるんだよね」

 更に目を点にした男に言葉を付け足す。

「いきなり携帯かけたり切ったり、訳解んなかったろ。悪かっ…すいませんでした」

 靴を脱ぎながらそう言えば、男も合点がいったらしい。

 あぁいや、とテーブルに秀二の携帯を置き、そして申し訳なさ気に入ってきた秀二に、漸く困ったような笑みの形を浮かばせた。

「――それは別に。それより世話になってしまったみたいで…確か"朝倉ベンダー"の人だよね?」

「うん、そうそう!」

 男の言葉に良かった覚えてたと笑って頷きながら、台所脇の冷蔵庫に歩いて飲み物を探した。一昨日買った麦茶のペットボトルを見つけ、それを手にとって扉を閉める。

「俺会社から帰ってた途中だったんだけどさ、交差点のちょっと先あたりで倒れてたぜ」

「申し訳ない。――外灯の下、かな」

「そ。何、覚えてんの?」

 あー、座り込んだところまでは、と面目無さそうに言う男にからからと笑い、茶を注ぐコップを探した。流し台を見るといつも自分が使っているマグカップが入っていて、あぁそうかと戸棚に別のコップを探す。

 見上げた戸棚は見事に、全てのコップを一番上へ並べていた。――届かない。

 秀二は椅子がなければ無理だなと判断し、まぁお茶はいいかとペットボトルをテーブルに置いた。そしてそのテーブルを挟んで立つ長身を見上げると、体は大丈夫かと聞いた。

「――体?」

「いや何か、疲れてたみてーだったからさ。朝結構ばたばたしてたけど全然起きねぇし」

「あぁ…」

 苦笑する男の身長は、180cmはありそうだと思った。170cmにあと3cm足りない秀二には羨ましい限りの高さだ。

「近頃寝不足気味で…お陰様で熟睡していたよ。――あの、取ろうか?」

「へ?」

 きょとんと目を瞬くと、最初に見て驚いたあの瞳がちらりと秀二の後ろ――流し台にあるマグカップに向けられたのが解った。そしてそこに申し訳無さそうな色を見つけ、自分が使ったのを気にしているのだと理解する。

 状況的に見て、多分ここで頼むと言った方がいいのだとは解ったが、どうにもそれが面白くなかった。自分には届かない場所が、あたりまえだが男には軽がると届く。

「い―――いい。別にいい!どーせ身長低いっての!」

「・・・そんな事言ってないけど」

「言ったも同然なんだよ!いーから別にいいの!」

 きぱっと言い切って首をそっぽ向かせると、一拍の間の後、ぶぅと小さく噴出す音がした。むっとしてそちらを睨み付けると、楽しげに笑う顔が目に入り、秀二は自分の怒気がすぽんと失せたのを感じた。彼の笑い顔はやはり腹が立つほど整っていて、けれど穏やかで優しく、――秀二は内心でまけたと嘆息した。


「それよりさ、先生午後から授業あんじゃね?一旦家帰って着替えねーとマズイだろ?」

 そういえばと言うと、男があー、そうかしまったとのんびり呟いた。しまった、と言う割にその様子は全然焦っていない。どうみても口先だけだ。

「…急ぎじゃねぇの?」

 秀二が首を傾げると、男はうーん、と虚空を見つめ、ゆったりとした動作でいや、と呟き。

「資料作らないといけないし、――ま、急ぎかな」

「じゃ、急げよ!!」

 全力の裏手ツッコミが決まった。

 秀二は気付いた。この男はマイペースだ。恐ろしく我が道を行くマイペースだ。こういう類の人間は放っておくといつまでも急がず、堂々と遅刻してしかも悪びれないのだ。案の定、「そうだよなー」とやはりのんびり言い放ち、ちっとも急ごうと言う気配は無い。秀二はこうしちゃいられないと男を放置し、慌てて寝室に飛び込んだ。何故かこのとき、秀二はこの男を遅刻させてはならないと言う奇妙な使命感が湧き上がっていた。全く関係ないのに。

 窓のハンガーにかけていたスーツを手に取ると、踵でくるりと反転して背後のクロゼットを勢い良く開けた。そして綺麗に畳まれた昨夜男の着ていたカッターシャツを引っつかんでダイニングに戻り、その鼻先に突きつけた。

「さぁ早く着替えろ!スーツは乾いてねーけどシャツはアイロンあててっから乾いてる!家どこ?!」

「え、おぉ…ありがとう。いや、俺ね」

 送るから、とわたわたしながらサービスカーの鍵を手に握ると、「家はこっちに無くてね」と男が言った。

「――ない?家がない?」

「うん」

 きょとんとした秀二に、男は着ているパジャマのボタンに手をかけながらあー、と考えるように呻く。

「実は今、俺出張中でホテル住まいな訳」

「しゅ――出張?先生なのに?」

「え?あ、あぁそっか。俺ね、"先生"じゃないんだよ」

「――はぁ?」

 混乱して秀二は眉を寄せた。先生じゃないのに何故大学で、職員室にいて、講義をして。いや講義をしているならやはり先生で。―――どういうことだ?

「まぁつまり、臨時講師。三ヶ月期間限定で来てな、現実はただの会社員。本籍は別で」

「待った」

 秀二が手を突き出した。

「ん?」

「いや、あのさ…だたのって――思うにさ、ただの会社員がフツー講師は」

 ――ただの会社員が、普通、講師になれるものか?簡単に?

 秀二は眉間を押さえ、ぐるぐると回る思考に頭痛を覚えた。理解の船は知識の海で大嵐に見舞われ、今にも転覆しそうな傾きをもってそこにある。男は今物凄く軽い調子で身分を明かしたが、それはなんだか違う気がする。一般常識的な知識は不得意だったが、秀二もこれが普通ではないこと位は解る。そんな簡単になれるなら、世の中講師で溢れかえっているではないか。

 確か。何かそういった功績やら、研究やらが評価されてなるもの――じゃなかった?違った?桐蔭電機工科大学、つまり、電機関係で。え、えーと…?

 両手で抱え込んでいた頭がだんだん下向いていき、少ない知識の海を進んでいた船が、

 ――くるりと。

 転覆した。


「―――あーもう駄目だッ三ヶ月でも大学で教えてンなら先生決定!あんた先生!!」


 頭を抱えていた両手に握りこぶしを作って、秀二は驚く男に叫んだ。

 例えるならそれは、パズルのピースを一つも埋める事無く放り投げたというか、思考の環に並ぶ理解への絶対的断絶を果たしたと言うか。

 簡単に言ってしまえば、秀二は少し――自棄になった。


「そ…そうか」

 何故か駄目出しをされ、男は呆然と呟く。秀二はそれに「そうだ!」と据わった目でこくこく肯定し、ようやっと一つ溜息を落として「先生」と呼んだ。

「とりあえず先生は先生な。――で、聞くけどさ、会社員で機械工学系の大学講師ってことは、電機関係の会社の人――なんだろ?」

「あぁ、うん。そうだけど」

 男は頷きながらボタンを外し、着ていたパジャマを身から剥いだ。秀二は現れた肌色の逞しさに内心歯噛みし、けれどそれを悟られるのは悔しく、拗ねた気分で目をそらした。

「それ何て会社?電機関係なら俺知ってっかも。ウチんとこと取引あったりする?」

「――取引、」

 脱いだパジャマを受け取ると、男が取引ねぇと呟き、面白そうな顔で秀二を見た。

 ――何だ、一体。

 思わぬ反応にきょとんとして見上げると、男は笑いながら薄青のシャツを羽織った。ぽつぽつとボタンを留めていく指を何とはなしに見つめ、ふとその指先が結構な数の傷跡をこさえていることに気付く。

「取引――は、確かにあるかもね」

「カモ?どっちだってばよそれ」

「いやあるにはあるけど、何か違うというか」

 秀二は己の指を見た。男と似た、火傷や裂傷跡がそこにいくつも残っている。

 ――自分の指と同じ。

 男の手は、現場を知る者の指だった。

 男は特に恥ずかしがる風でもなくパジャマのズボンを脱ぎ、湿ったスーツに履き直した。ジャケットとネクタイだけは流石に着たくなかったのか、腕にひょいと丸めて抱えていた。

「・・・ま、いーや。用意できたんなら出ようぜ、近くの空き地に車停めてっから」

「あ、悪いね」

 肩を竦めて玄関に行くと、靴を履いてさっさと外へ出た。見上げた空は小雨になっていて、それでも重そうな曇天がみっしりと日の光を遮っている。元の色が青であったなど、とても思えない色合いだ。

(――暗いな)

「暗いね」

 一瞬びくりとして振り返ると、玄関から出た男が空を見上げていた。

「――六月の雨は好きじゃないんだ」

 瞳が、暗かった。寂しさを含んだ陰を滲ませ、秀二に馴染みある独特の淀みを見つける。――あぁ、と理解した。

(そうか。――他人に思えないはずだよ)

 秀二は内心で薄っすらと笑った。

 ――彼は自分と、同じ闇を抱えていたのだ。


「あの、君」

 ふと、男の目が秀二の方を向き、少し口元をほころばせた。

「まだ、言ってなかったね。――助けてくれてありがとう、本当にお世話になりました」

「え」

 すっと頭を下げた男に、秀二は慌てて両手を振った。面と向かって礼を言われるのは、何故だかひどく恥ずかしい。

「や、そんな!俺がしたくてしただけ!先生は気にすんな!」

 早く顔上げてくれと落ち着きなく言うと、男は苦笑しながらありがとうと顔を上げた。





「――車、アレ?」

「そ。あの白いの」

 空き地に駐車されたカローラを指差すと、低い声が社用車だねぇと言った。そうだと頷きながら鍵を取り出すと、ボタンを押して集中ドアロックを解除する。がちゃ、と音がし、ライトが一度点滅した。

 秀二は男に助手席を促すと、自分は運転席のシートに体を埋めた。シートベルトの具合を確認して男が腰を下ろすのを見ると、エンジンキーを作動させる。ヴォン、と声を上げた車体が揺れ、左に触れたギアをバックに入れた。

 後ろを確認しながら車体を回し、車道へと鼻先を向ける。――準備オーケーだ。

「じゃー出るぜ」

「あ、ちょい待ち」

 ギアをドライブに入れた途端に制止され、秀二は慌ててブレーキを踏んだ。

 何事だ、と男を見る。

 ――男は、申し訳なさげに笑っていた。

「せん」

「いやね、君、名前は?聞くの忘れてたよ」

「――はぁ?」

 間の抜けた声をあげ、秀二は男を見詰めた。男は微笑してこそいたが、至極真面目な様子で「だから名前」と再度言った。

「世話になっておいて名前も知らないじゃね。お礼もできないし」

「れ、礼?」

「そ、お礼。お名前は?」

「……」

 そう訊かれると答えにくい。秀二は詰まり、困惑した顔で男を見た。

 それでは何だか、自分がお礼目当てで男を介抱したかのようではないか。

「別に・・・ンなつもりで助けた訳じゃねぇし、いらねぇよ。礼しないってんなら教える」

「そういう訳にはいかないな。こればっかりは気持ちの問題でしょう。――人として、ね」

 中々小狡い返答だった。益々困って、本当にいいのにと言ったが、さぁ名前はと促されて秀二は口をへの字に曲げた。

 立場的にこちらが優位であるはずだが、なぜか敗北感がある。

「さぁ吐きなさい。名前は?」

「先生さぁ、強引すぎねぇ?」

「渋る君がおかしいんです」

「えー…」

 秀二は黙り、困惑しきって深く溜息をついた。

 ――仕方ない。

「名取秀二。朝倉ベンダーサービスのサービスマンしてます」

「―――、」


 瞬間。

 穏やかだった男の顔が、傍目にも解るほど硬直した。

 元が整っているから微妙な変化と言えばそうだが、その表情は間違いなく「驚愕」。

「せ、先生?」

 呆然と秀二を見る男を見て、発車はムリだなとギアをニュートラルに入れた。まだ車道には出ていないのでハザードランプはつけず、戸惑いながら男に問う。

「先生、どうした?」

「――苗字」

「苗字?」

「なとり、・・・っていうのか」

「そうだけど」

 何かおかしいかと首を傾げると、男はそうじゃないと言うように緩く首を振った。

「ちょっと訊くけど――もしかして、ここは育った場所と違ったりする?」

「え?あ、あぁ隣町の方が地元だけど。こっちは引っ越してきたから」

「――そう、か」

 噛み締めるようにそう言った男に、秀二は困惑して眉を下げた。男はすぐに我に返り、悪かったと苦笑を浮かべた。

「ごめん、ちょっと覚えがあってね――名取秀二、ね。秀二君と呼んでも?」

「君はいいよ、何かむず痒い。先生のが年上だし」

 苦笑して言えば、了解と男が言った。

 秀二はほっとして笑い、先生の名前はと尋ねた。

 自分だけ言っても仕方がない。というか、考えてみれば先程からこの男は会社すら言ってないではないか。

「つーかさっきから俺ばっかじゃん!次先生!名前と会社何だ!」

「ごめんって」

 問い詰めると、男が笑った。――名刺がなくて悪いけど、と口にし。


「朝倉電機リテイルシステムズ開発課勤務、工藤直人です。――改めて宜しく」


「……………」


 ――今、何つった


 今度は秀二が固まった。


 関東に、自社ビルを構える業界屈指の有名な電機メーカーがある。世界でも三本の指に入る業績を持つ、大きな会社組織――その名を、朝倉電機リテイルシステムズという。

 朝倉電機の特に優れているのが開発チームで、彼らが世に送り出した電気機器は常に世界の先端を歩き、確実な信頼と安心が着いて来る。驚くべき高評価は無論、日本に留まらず世界中に轟き渡り、言いすぎでなく現実に、押しも押されぬこの国トップの実力者達なのだ。会社は元より、その業績を考えれば有名でない方がおかしい。

 ところがその開発課の人間、名前こそ有名だが絶対にその姿をメディアの前にあらわそうとはしなかった。何度取材の電話を入れようがにべも無く断るそうで、一時期あまりのつれなさに、やれアラブの王族の血を引いているらしいだの、どこぞの政治家がヨソにつくった愛人の子供らしいだの、なにやら勝手な憶測が飛び交っていた。そんな謎めいた噂もあって、その開発課常務が一度だけ本を出版した時世間は騒然となったものだ。

 本の内容は当たり前だが電気関係のもので、素人が見るには難しすぎる専門書。だが専門書の需要が伸び悩むこの昨今において、かの常務が書いたそれは異例の売り上げを記録した。文は一見乱雑だが実用的で、本は業界に広く浸透し、電気関係に携わる人間のマニュアル書と定着した。実は秀二も勉強用に――中身が半分も理解できなかった事実は別として――持っている。

 そして秀二は、立場上、他より余計にその会社を知っていた。

 何故なら、朝倉ベンダーサービスの親会社、――それこそが朝倉電機だからである。



「そんなに驚かなくても。別にアラブの血も政治家の血もひいてないよ、俺」

 秀二は口をはくはくと戦慄かせ、それを見て微笑む男を凝視した。

 男はどこか苦笑じみた表情で秀二を見返し、その反応を困ったように笑う。

「しゅーうーじー。もしもーし」

「だ、だって――先生――じゃあ、先生って」

「うん。だから普通の会社員だって言ったでしょう」

 微笑む男に、秀二は引き攣った顔でどこらへんが普通なんだと思った。

「先生―――・・・工藤、常務・・・なの?」

 謎の渦中の最重要人物。

 現実味のない真っ白な頭で、ぽつりと問うと。


「うんそうだよ。何だ、知ってるじゃないか」


 ――うわぁー。

 秀二は一瞬気が遠くなり、そりゃあんた知ってるに決まってるでしょうがと思った。

 だが男は――直人は、でも常務って呼び方は好きじゃないからそれは止めてと、既に秀二には聞こえない言葉を言いながら笑っていた。

 秀二はほらなぁ、とどこか遠いところで思った。


 ―――ただの会社員はフツー講師になんねぇって、言ったじゃん――。



 ちょっと気絶したいと、秀二は思った。



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