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2話 因果


 胎児が母の腹に居るような、ひどく懐かしい夢をみた気がして、工藤直人は薄い唇の両端を笑みの形に引き上げた。

 思考に垂れ込める霞みの中で、しとしと鳴り響く静かな雨音を聞いた。今日も雨かと、夢うつつの隅に思う。

 深く落ちていた意識は頼りなく漂い、けれどここ数日ずっと感じていた体の鉛が軽くなっていることに気付いた。

 ――どうやら久しぶりに、深く寝入っていたらしい。

(…働き詰め、だったからなぁ)

 包む空間は優しく、静かなものだった。

 目を閉じたまま自然と訪れる緩やかな覚醒に身を任せ、ぼんやりと考えを巡らせる。

 部屋に落ちる音は自然の奏でる雨音のみで、いつもは鬱陶しいと感じるそれが今はひどく心地よい。身を包む布団の感触が優しく、この地に来てから一度も得られなかった安眠を直人に与えていた。


(――そうだ、講義の資料を作らないと)


 思考が嫌なことを思い出した。もう一眠りしてしまいたいという体の欲求を押し込めて、瞼の暗闇をゆっくりと押し上げていく。確か、今日は午後からの講義が一つだけしか入っていないはずだ。

 が。

 ――面倒くさい。

 直人はどんよりとそんなことを思った。

 一週間通じて勤務時間が同じでなく、授業という区切りで生活しなければならないのは、休憩は長く取れても逆に慣れない疲れを誘う。

(あぁもう、会社に戻りたいなぁ…)

 胸中で呟いた声は音にならず、直人は渋々とその瞼を押し上げた。



 *



 工藤直人は、現在桐蔭電機工科大学の機械知能工学科で講師を務めている。

直人が担当する分野は学科名が指す通り機械工学で、機械設計技術を基礎に、熱力学・流体力学、また機械材料、機械加工、強度解析、計測制御等の理論・技術を教えている。

 学校は四年制だが直人が受け持つのは二年生と三年生のみと限定され、それもその学科全員という訳ではなく知能機械の設計・製作を実践する、知能機械設計コースの生徒だけを相手にしていた。そうでもしなければ、とても直人の手には負えない。当然だ、直人の本職は大学の講師などではないのだから。


 電機機器関係の一般企業に勤める、一会社員―――と言うには少々躊躇いを持つ肩書きが乗っかっているが、直人は間違いなく一般会社に勤めるサラリーマン、会社員である。

 この地に来たのはおよそ一週間前の事で、切欠となったのは一通の手紙だった。

 曰く、「貴方が書き下ろされましたナニナニの著書を読み、その知識の深さに感動致しましたれば是非とも我が大学で教鞭を持って頂きたい云々」といったもので、直人にとっては何ら珍しくも無い大学教授として本校にきませんかというお誘いの内容である。

 直人の名はこの業界で結構広く知られたもので、それは数年前に出した直人著作の一冊の本による効果だ。面倒なことが嫌いな直人は本など出そうなど米粒ほども考えた事は無かったが、知り合いの人間に拝み倒さんばかりにしつこく頼まれ、一度だけと言う条件で仕方なく一冊書き上げた。

 仕事の合間に作成した原稿は直人にとってメモ書きも等しく、碌な手直しもされずそのまま刷りに出されたそれははっきり言って綺麗ではなかった。出版したところですぐに本屋の棚の隅に追い遣られ、埃にまみれて忘れ去られるだろう――直人はそう考えていた。

 ところがである。いざ出版されてみればその内容の緻密さと濃さは業界に身を置く人間を驚かせ、その道に携わる人間は必ず一冊手にする程のマニュアル書として定着してしまった。予想外の反応に直人は驚き、慌てて増版はしてくれるなと出版社に電話したが、既に後の祭りで増版は見事決定していた。――著作者の写真を外させる事が直人に出来る精一杯だった。

 その事があって、こういった学校からの申し出は珍しくも無く、今までにも何度となくその手の誘いは受けてきた。だが直人はそんなつもりで書いたわけではないし、そもそも現場で働く事を気に入っていて第一線を退くつもりは全く無い。

 だから直人が誘いに頷いた事はただの一度も無かったし、正直鬱陶しく思っていたのも事実である。


 それが何故、この大学の講師となることになったのかと言えば。

 桐蔭電機工科大学学長の、スッポン並みのしつこさ。これが大きな要因だったとも言えた。

 手紙を受け取った直人が電話で自分の意志を伝え、断りの旨を述べた所、「だったら短期間だけでもいい、半年、いや三ヶ月でいい」と熱心に食い下がってきた。それでも直人が断ろうとすると、どうしても来て欲しい来てくれなきゃ困ると子供の様にくずりだし、直人は閉口して「数日後にまた連絡をするから」と一旦電話を切った。信じられない御仁だ。

 こんなに粘られたのは初めてで、直人は溜息深く頭を抱えた。

 どれだけ熱心に言われても、自分に話を受ける気はない。

 ――どうやって断ろう。

 直人は再び大きく溜息を着き、そんなことを考えていた。

 

 その考えが翻ったのは、電話から数日後の事である。

今度こそ断る為に大学の手紙を手にとった直人は、末尾に記された連絡先を見て密かに声をなくした。動きを止めた視線の先、几帳面に並んだ明朝体の住所は、直人がよく見知った場所であったのだ。


 その土地は、別に全国的に有名と言う訳ではない。何か突出したものがあるというわけでもなく、端的に言えば都会と田舎の中間のような、ぱっとしない土地である。

 けれど、その地名は直人の頭から離れたことは一度も無かった。

 ――直人が尊敬し師と仰いだ元上司が、死して眠る場所であったからだ。


 師が死んだと連絡を受けたのは電話、それも仕事中の事だった。最初は何かの冗談だと思ったが、電話先の相手は真剣で、お前には連絡したほうが良いと思ってなと沈痛な声でそれを伝えた。衝撃を受けた直人は信じたくないという思いに縛り付けられ、結局通夜どころか葬式にも出ることが出来なかった。ただ呆然と窓に叩き付ける雨の音を聞きながら、幽鬼のような表情で日常生活を続けていた。

 全てが終わったと聞いた後もやはり、直人は呆然と止まない雨の中に居た。事実を受け止めることが出来ず、当然、墓参りも行っていない。――そもそも、墓の場所すら聞いてはいなかった。認めたくなかった。墓など、見たくは無かったのだ。


 なのに―― 一体、何の因果か。


 手紙から顔を上げた直人は、卓上カレンダーを見た。日付は五月の半ばを進み、数日後に六月の到来を待っていた。

 師の命日は、六月。

 ――梅雨に入ったばかりの、大雨が降った日の事である。



 手紙を封筒に戻した直人が手に取ったのは、ボールペンと一枚の用紙。

 その用紙は、一番上に「長期出張希望申請書」と印刷されていた。



 *



「………え?」


 柔らかい色彩の天井が視界に映り、直人の間抜けな声が落っこちた。

染み一つ無い天井板は新しく、一面のクリーム色はまだ建って間もない新築であると伝えている。直人はそれを呆然と見つめ、いやいやまさかと呟くと、目を閉じて大きく深呼吸をした。再度、ゆっくりと目を開いてみる。

 ――綺麗なクリーム色が、寝ぼけの消えた目に鮮明に映った。

(…そういえば――)

 布団に入ったまま天井を見つめ、呆然と一つの事実に思い至る。

 昨日、夜遅くまで講義の資料を作成していて、そろそろ帰ってはと促され大学を出たのが確か21時過ぎである。そして指定されたホテルに帰り、夕食を取れる場所を探しに部屋を出たのが22時少し前だった。

 ――で、確か。

 ぐるりと思考を探る。

 確か、出たはいいがホテルの周囲にレストランはもとよりコンビニすら見つからなかったのだ。それで諦めて帰ろうとして。――…そう、道に迷った。

 困って人に聞こうと見回したが、どこにも人影はなく民家すら見当たらない。どれだけ田舎なんだここはと腹立たしく足を動かしているうち、雨足が強まり、溜まった疲れも出てきて道端に座り込んでしまった。どしゃ降りの中座り込むなど狂気の沙汰だと自身で呆れたが、疲れ果てた体は立ち上がることを拒否した。帰らなければと思えば思うほどに意識は揺れ、あぁもういいやと――。

 ・・・いいやと、思って。


 その後、ホテルに戻った覚えは無い。


(と、したら)

 柔らかな色彩は目に優しい。あたりに満ちた空気や生活の香りもまた暖かいものだ。

 けれど。

「…ここはどこだ」

 ドラマや小説で「ここはどこ私は誰」などと言っている台詞を耳にした事があったが、まさか己も同じ言葉を口にする日が来ようとは。

 思わず小さく溜息をつき、漸く直人は気だるい上体をのそりと起こした。


 見渡した部屋は、あまり広くなかった。

造りとしてもどちらかといえば簡素で、置かれた僅かな家具や部屋の配色から、恐らく男の一人暮らしの部屋だろうと推測される。

 部屋の大きな窓に下がるカーテンはパステルブルーの単色。その隙間に僅かに見えた景色が、ここがどうやら二階程の高さに位置していることを伝えていた。

(アパートかな――)

 直人は眉を寄せて頭をかき、窓と反対側に目をやる。

 あ、と声を漏らした。

 窓辺に下がる、黒に近い濃いグレーのスーツと、濃紺のネクタイ。

 ハンガーにかかるそれは、直人の持つスーツで間違いなかった。直人のスーツは全て一から仕立てて貰っているオーダーメイド品で、品質と着心地重視のものばかりだ。従って、似たようなスーツでも微妙な違いでそれが己のものだと解るし、ハンガーに下がるそれが自分のだと確信するには容易い。

 スーツは己のもので間違いない。

 ――家主がかけてくれたらしい。

 直人はここに来て、漸く自分が見たことも無いパジャマに袖を通していることを知った。

 慌てて立ち上がって見下ろすと、それは白い布地に袖と裾へ青いラインが入っただけのシンプルなパジャマだった。しかし着心地は悪くなく、どこかパリッとしたその感触は新しい布地特有のものだ。

(もしかして――わざわざ買って着替えさせてくれた?)

 感謝より居心地の良くない罪悪感が沸く。親切でしてくれたのなら申し訳ないが、あまりの至れり尽せりな対処はどこか空恐ろしいものを感じた。

「――このまま拉致監禁とかされたりしないよなぁ・・・」

 思わず身構えながら後ろを振り向けば、自分の寝ていた布団の横、そこに布団のはだけたベットを見つけた。皺の寄り方や布団の捲れ方からして、家主はそこで寝ていたのだろう。見ず知らずの人間と同じ部屋でいつも通りに眠るとは、中々豪胆な心の持ち主である。

(悪い人間、じゃなさそうだけど、な。たぶん)

 直人はそっと部屋を区切る引き戸に手をかけ、それを軽くスライドさせた。カラカラと能天気に軽い音が転がり、多少拍子抜けしながら広がった部屋の光景をみる。――静かに、絶句した。


 目が見ているのは部屋の光景というより、正しくはテーブルの上の光景だった。

 サラダにハムエッグ、ウインナーとトーストが、白い皿に二枚乗っている。手作りらしいそれは多少形が崩れてこそいたが、ふうわりと香る匂いは空腹の胃に優しい誘いをかけた。脇に置かれたコーヒーメーカーが保温ランプを点灯させていて、まるで早く飲めと言うかのように白い湯気を立ち上らせている。

 それは恐らく、「直人に用意された朝食」だった。

 そしてその横――直人の目を釘付けにさせている一枚の白い紙。

 黒いマジックで書かれたらしいその文字は、大きく豪快にただの一言。



 " 食っとけ。 "



 ――これ以上なく、簡潔明瞭な書置きである。


 見事すぎる。あまりに見事すぎて言葉が出ない。疑う余地無く、テーブルの上のものが誰のものでどうしたらいいのか一目で解る一言だ。

 だが何か、――他に無かったのか。

(――どういう性質してんだ…)

 直人は思わず天を仰いだ。――幾らなんでも、と。

 時を追うごとに増す家主への疑問と脱力。代わりに警戒という砦ががらがら崩れていたが、何とか言葉の衝撃から抜け出してのろのろとテーブルに歩み寄った。

 なんのかんの言ったところで、昨夜から何も食べていない直人の体は正直に泣き声を上げていたのだ。


 用意された朝食は、多少冷めていたが美味しかった。




  * 




 ――ぴるるるるるるるるる――



「――うわっ」


 テーブルの隅に置かれた携帯が鳴り、手に持っていた食器がつるりと流し台に落ちた。

 静かだった空間に大きな電子音と水音が響き、流し台のステンレス製容器に張られた水が小さな水柱を上げる。慌てて食器を見ると割れてはおらず、安堵してテーブルに踵を返した。――多分、家主からの電話だ。


 ――ぴるるるるるるるるるるぅ―――


  ――あぁ、やっぱり。


 《会社携帯・俺》。


 液晶のディスプレイに表示された文字を見て、やっぱりなと笑みを浮かべた。テーブルに書き置かれた言葉もそうだったが、疑問を挟む余地など全く無いシンプルさはいっそ清々しい。狙ってんのかと言いたくなるが、恐らく家主にそんなつもりはあるまい。部屋に漂う人柄は、とてもそんな計算高くは思えなかった。


 直人は鳴り響く携帯を手にとり、軽い緊張を覚えた。通話ボタンを押し、一度息を吸う。

 そして携帯を耳に当てると、そっと言葉を口にした。


「――はい」

『お、出た!目ぇ覚めてたみてーだな!メシ食った?てか、解った?』


 矢継ぎ早に。

 多少ながらも緊張して発した直人の声は、晴れた日に思い切り空き缶を蹴飛ばしたような軽快な声で一蹴された。かこーんと遠くへ飛んでいく「緊張」の文字が見えた気がして、思わずしぱしぱと目を瞬く。

 ――バカ明るい。

(…想像以上だ)

 呆気に取られてぱかと口をあけていると、『もしもーし!』と声が呼んだ。は、と我に返る。

「――あ、す、済まない。食事は有り難く頂きました。君が助けてくれたんだね?」

 何とか落ち着き、申し訳ないとの旨を口にすると『いーよ気にすんなよ!』とカラカラ明るい笑い声が言った。声の調子は騒々しいが、若いテノールで優しい響きを持っている。

 ――十代後半か二十代前半、かな

 感じとして、そんな印象を受けた。

『それよりさ、先生学校大丈夫なのか?大学で授業しなきゃなんねーんだろ?』

「あぁいや、今日の講義は午後からだから。そう急がな――…て、え?」

 放られた問いに思わず言葉を返し、"先生"という言葉と何故大学に居る事を知っているのかという疑問に言葉を切った。が、家主はそれを気にすることも無く「そっかじゃあ大丈夫だな!」と言い放ち。


『じゃあ俺今から一旦そっち帰っから!待っといてよ、じゃー一旦切るな!』

「は!?あ、ちょっと待…!」


 慌てて静止した言葉も空しく、携帯から返って来たのは通話終了を示す無情な電子音だけだった。

 呆然と携帯を握り締めて立ち尽くす直人の耳に、柔らかい雨音がしとしとと慰めるように響いていた。


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