14話 未来への布石
梅雨はいつも嫌いだった。夏はいつも、鬱陶しかった。
なのに今は、それを愛しく、短かすぎると思っている。
*
「もしもーし、ここに秀二居ません――?」
涼やかな声に名を呼ばれ、秀二は手元のパーツリストから顔を上げた。
――ぎぎぃ
渋るような音で作業室の扉が開き、外光と共に髪を纏めた里佳子が現れる。床を敷く緑色のリノリウムに光が落ち、一瞬眩しさに目を細めた。
「お、発見!」
「――発見って。俺珍獣?」
「あはは、いや車はあるのに姿が見つかんないからさぁ。探したわよー」
額を拭う里佳子にそりゃあご苦労様でしたと言うと、彼女は中に入ってくるなりはおぉ涼しいと言った。作業室の中は空調が効いているのだから、外から来たなら余計に涼しいだろう。
里佳子の歩くスリッパがぱたぱたと響き、その後ろで作業室の鉄扉が重い音を立てて閉まる。遠目にも綺麗な白い鉄扉は、艶やかでやたら新しかった。――取り替えたばかりだから当然だ。
秀二が蹴ったあの錆びだらけの扉は、先週業者が来て新調されていた。
当人にそんなつもりは無かったのだが、加減無く蹴った力は予想外に威力があり、頑丈なはずの鉄扉は強盗でも押し入ったかと噂が立ちそうな外観になってしまっていた。秀二が右足親指の爪が剥がれただけで済んだのは、逆に奇跡である。
お盆休み明け、扉を見た由希子は当然眉を吊り上げた。般若のような顔で誰だこんなことした奴ぁと怒鳴り、そこにタイミング良く出社してきた佐々木が慌てて事の次第を話した。
黙ってそれを聞いていた由希子は暫し沈黙を守った後、刻んでいた眉間の皺を消し、そうか、と小さく苦笑した。そしてそれ以後何も言わず、ただ新しい扉を手配した。
翌日、佐々木から話を聞いた秀二は慌てて社長室へ行った。そして謝罪して代金を給料から引いてくれと言ったが、由希子は目を細めてふんと笑い。
『いらん。現実に向き合ったお前への褒美とでも思っとけ』
――そう言って、決して首を縦には振らなかった。
「今日は修理行かないの?」
「…行きてぇんだけどさ、修理出ようとしたらショーケースはまだかって」
座る作業台横のショーケースを指差して言えば、里佳子があぁ小松飲料の社長ねと微苦笑を浮かべた。ピンクベージュの紅をひいた唇が弧を描き、ひょいと肩を竦める。
「あの社長まだぐずってたんだ?どうしようもないオッサンね」
――えぇ本当に。
深い頷きで秀二は同意した。
秀二は今こうして仕方なくショーケース修理にかかっているが、その身に抱える修理件数はまさしく"殺人的量"である。本当ならこんなことしている場合ではなく、秀二も先輩連中と同じく担当区域で疾走してなくばならない。だが、そこにあいや待たれいと立ちはだかるのが朝倉ベンダー社訓其の一、"サービスマンは顧客第一"。
客が急げというのなら、優先順位はお客様。わが事情など燃やして埋めろ、お客様はカミサマです――組み立てた修理予定など塵となって風に流すが宿命なのである。
肩を竦め、そういやぁ、と秀二は里佳子を見上げた。
「俺探してたっつってたけど、何の用?」
「え?あ――あぁ、まぁえーと」
里佳子が曖昧に笑って首筋に浮いた汗へ手で風を送った。手先の爪はつやつやと綺麗に整えられ、この細い手でどうして人を投げ飛ばせるんだろうと秀二は不思議に思った。合気道の神秘というより里佳子の神秘だ。
「もしかして、伝票整理の手伝い依頼とか」
「いや!まぁそれは是非やってもらいたいけど…月末なんか滅びてしまえばいいんだわ…!」
「月が終わんねーよリコちゃん」
恨めしそうな里佳子に突っ込み、秀二は作業台の卓上カレンダーに目をやった。
三十一日まで表示がある八月の日枠の中、一日から三十日の数字までがずらりとバツで消されている。先輩である大輔の仕業だろう。
里佳子がそれを見て、一ヶ月早いわねぇと言った。
「三十一日もあっても、あっという間」
――儚い。
どこかぼんやりと呟く里佳子に、無言で暦を消すバツ印をじっと見詰めた。
儚い。短い。夏も八月も何もかも――あまりに短かった。
この三ヶ月は、あまりに短かすぎた。
――しゃぁん。
「あ」
蝉が飛んできた、と里佳子の声が言った。
壁越しの鳴き声はくぐもっていたが、それでも大きな歌声は中に反響して伸び上がる。
―――明日の午後一の便で帰るよ。
ふいに、低く穏やかな声が、蝉の声に重なり消えた。
しゃんしゃんと揺れる声と里佳子の声が霞んで、遠くに通り抜ける。
秀二、と呼ばれたが、それも現か幻か解らない。――聞こえない。
――しゃぁあん
『え?失礼な、ちゃんと起きるって。あぁいや、見送りはいいよ。忙しいんだろ?』
――しゃああぁ
聞こえない。
『いいからいいから。死んだわけじゃないんだから、いつでもまた会えるでしょ』
――ぁああん
聞こえなかった。
『いやこちらこそお世話になりました。雨の中助けてもらったし』
――ぁ
聞こえない、先生、と。そしてその先の言葉は腹に潜り込んだ。
『――なぁ秀二、本当に色々ありがとうな』
先生。
『こらお前、うわッはないだろ。人が礼を言ってるってのに…え、礼を言うなんて怖い?失礼な、他に言う事ないのかお前』
先生、
『まぁ、それはともかく。元気でな。困ったことがあればいつでも電話しろよ』
『―――先生は雨降ったらちゃんと傘させよ。俺関東まで助けには行かねーぞ、遠すぎるもん』
『へーえ、そういう事言う?でも俺はお前が困ってたら助けに行くよ。例え外国に居ようとね』
『せ、~~先生ッ』
『はは、照れるな照れるな。俺に勝てないのなんか解ってるんだろ』
聞こえない――
『…じゃあ秀二』
『うん』
先、――
『元気で』
―――・・・。
『うん』
「秀二?」
ぶぅうん、とエアコンのモーター音がした。
はっと我に返り、ぼうっとしていた秀二は咳払いして顔を上げた。里佳子は気にした様子もなく、白い腕を摩りながらこの部屋空調効きすぎてない?と天井を見上げて言った。
「あんまり下げてるとクーラー病になるわよ」
「や、そんなに寒く無いけど――あぁ、それで用事、何だっけ」
誤魔化すように薄く笑って言うと、里佳子がえッと言って一瞬目を泳がせた。
何を焦っているのかと見ていると、暫くえーとえーとと言った後、ポンと手を叩いてポケットから紙を取り出した。
「そう!秀二宛てにファックス来たから届けに来たの」
「ファックス?」
そんなに急ぎなのかと目を瞬く秀二に、里佳子が丸まっているよれた紙を差し出した。
大分長い間ポケットに入っていたらしい。
「日本技研の佐藤主任サマでございます」
「え」
予想外の人物に目を瞬き、秀二は作業台に放っていたタオルで手を拭った。一応おろし立てだった真っ白いタオルが機械油で茶色く汚れ、少し勿体なかったなと思う。
「なんかコインメックが云々とか書いてた気がするけど」
「あぁ、この前発注したやつかな」
秀二は用件は何ぞやと、巻いている紙を上下に引っ張って広げた。経費節約という名目で、未だ旧式のファックスを使用している朝倉ベンダーのファックス紙は、ロール仕様の感熱紙だ。里佳子が持ってきたそれも、自分は形状記憶ですからと言わんばかりにくるりと丸まってしまっている。秀二としては見難いからやめて欲しいのだが。
「――あーあ、参ったなこれ」
「え、何だったの?」
至急だと持ってきておいて内容を聞くのも妙な話だが、秀二は気にせず肩を竦めた。
「ほら、この前新旧500円対応メック交換し忘れてるとこの依頼あったじゃん。あの部品が在庫ないって」
どれどれと身を乗り出した里佳子に、再び丸くなった頼りない感熱紙を渡す。里佳子は受け取るとピントを会わせるように目を眇め、「えぇと」と文面を読み上げた。
「えー、発注のあったコインメックCGXシリーズ、新品中古在庫無しの為出荷できず。そっちでどうにかしろ――どうにかしろって、ちょっと」
里佳子が呆れた顔を浮かべ、それを見て秀二が溜息を落とした。
「俺に修理しろって言ってんだよ。あーもうっ出来ねーから注文したんじゃんかっ」
「さすが佐藤主任、無駄なことは一切しないラショナリスト…」
恐るべし合理主義者と呟いた里佳子に、秀二はどんよりと頭を抱えた。
日本技研サービス、正式名称「日本技術テクニカル研精サービス」は、隣県に事務所を構える自動販売機部品の製造メーカーで、朝倉ベンダーとは優先専属契約を結んでいる。
なので会社同士仲が良く、修理士である秀二は部品発注を全てここに回すので、結果的に良く電話で話す部品受注担当者・佐藤誠司主任殿とは結構仲が宜しかった。
宜しかったが、それ故に余計これは酷くないだろうか。
「あんた佐藤主任と正反対の経験主義だもんねぇ。――どうすんのこれ?」
ファックスを再度秀二へ戻しながら処遇を尋ねる里佳子に、秀二は難しい顔でどうすっかなぁとぼやくように呟いた。
「確か部品庫に故障品で引き上げてきたのがあったし――修理してみるかぁ」
「あんたさっき無理って言ったじゃないの」
「うん…」
短い沈黙の後、秀二は正直に無理ですなと溜息をついた。秀二は部品の整備が嫌いではなく、むしろ好きで得意な方だ。だがそれがコインメックの、しかもCGXの整備となると話が多少違ってくる。
「センサーのプログラムとなると俺にはどうしようもねぇし――」
――参ったな。
ぺたりと台に頬をつけたまま、溜息混じりに呟いた。
参ったものだ、本当に。
――頼れる人は、もう居ないのに。
しゃぁん、と蝉が笑うように鳴いた。
秀二は目を閉じて、聞こえない振りをした。
「…あの、秀二」
横向きになった視界で里佳子を見上げる。
白い眉間には何事か思い悩むような皺が刻まれ、軽く眇めた猫のような瞳が妙な躊躇いを宿していた。それが秀二を見下ろし、迷うように揺れている。
――何だ?
秀二が目を瞬くと、里佳子が取り繕うように笑った。
「いやっ、ほらっ…あ、――あの人に聞かないのかなーって」
「あの人?」
きょとんとして突っ伏していた顔を上げると、里佳子が軽く目を逸らして頷いた。
「い――言ってたじゃない、工藤常務と仲良くなったって」
秀二が動きを止めた。里佳子は秀二を見ずに続ける。
「電話してみたら?多分知ってるわよCGXも。ね、秀…」
ぷつりと。そこで言葉が途切れた。声と言う音を無くした作業室はしんと静まり、外で鳴く蝉の声がしゃんしゃんと漏れて聞こえる。
里佳子の目が、秀二をじっと凝視していた。
「――行きなさいよ」
ぽつりと言われ、思わず首を傾げる。
「見送り、行きなさい。今日帰るんでしょう」
――瞠目した。
秀二は誰にも言っていない。直人は里佳子と親交など無かったし、里佳子がそれを知っているのは妙だ。
何故。
「、リコちゃ」
「行けつってんの!そんな顔する位なら我慢しないで行きなさい!」
「――…」
静かな作業室に里佳子の怒声が響いた。
"そんな顔"――里佳子が言いたいことは何となく解っている。秀二の顔は――強張っていた。辛うじて笑顔のようなものを浮かべていたが、強張って引き攣っていた。形状が笑顔である分その異様さは顕著で、まったく笑えてないのが秀二自身でも解っていた。
でもそれを、崩してしまうわけにはいかない。
「………」
作業台の古びた椅子をひくと、軋む音が響いた。
錆び付いた椅子の背もたれがぎぃと鳴き、秀二は頭をかき、この椅子そろそろ寿命かなぁと、どうでもいいことを考えた。
台上のパーツリストに視線を落とす。
「秀二!」
「――もう」
――搭乗したんじゃないかなぁ。
窓を破った蝉の声が、しゃぁんと部屋の中に伸びる。
「搭乗って――」
「時間。午後イチって聞いたんだ」
秀二は傍らの部品を手に取った。パーツリストを捲る。
「まだ…まだ間に合うわよ。行けばいいじゃない。修理も明日頑張ればいいんだし」
「いや…」
「私にまで遠慮すること無いじゃない。行きなさいよ、何なら私社長に電話しても…」
「リコちゃん」
どこか必死に言い募る里佳子に、秀二が苦笑して名を呼んだ。パーツリストに落としていた視線を持ち上げ、何でそんな必死なんだと横に佇む里佳子を見る。
ひょいと、左腕を掲げた。
「今な、十二時過ぎ」
シルバーの腕時計を見せ、針の場所を指した。ぎし、と椅子の背もたれが鳴いた。
「間に合わねぇよ。それに先生、――常務がこなくていいって言ったんだ。お礼とか挨拶とかはもう昨日長々と電話でしたから、今更会っても何も言う事無いし」
「だけど、」
「いいんだよ。別に死ぬわけじゃねぇじゃん?それにいちいち来られても常務も困るって。俺が一方的に慕ってたようなもんだし、いろいろ迷惑、かけたから」
あぁ、そう迷惑。
自分で言いながら苦い笑いが漏れた。その通りだなと思う。
とても迷惑をかけてしまった。優しさに甘えて、ついつい遠慮も何もしなかった。
三ヶ月で帰ってしまうのだという事を、忘れてしまうくらい。
もうこれ以上迷惑はかけられないと笑うと、里佳子が何か言いたげな顔をした。
しかしそれは言葉になる事なく、だた、そっかとだけ言った。
「…ごめん、仕事邪魔しちゃったわね」
「いや」
作業台横のショーケースをちらと見やり、終わったら手伝いに行くからというと、里佳子が結構よと歯を見せた。
そうして里佳子はひらりと手を振り、秀二に背を向け歩き出した。細い背中は綺麗に背筋を伸ばし、艶やかな鉄扉にまっすぐ歩いていく。
――今更会っても――
(――よく言うよなぁ)
腹の中で声が毒づく。
(何もいう事がないって?)
お前はバカだろうと笑い声がする。腹の腑が撫でられるような気持ち悪さを覚え、よくもまぁ言えたものだ、この大嘘つきめと嘲笑が浮かぶ。何が何もいう事が無いのだろう。見栄を張るにしても一番納得いかない嘘に違いない。
言う事がないどころが、何一つ言う事が出来なかった分際で。
(だって、言える訳ない)
窓から入る光がリノリウムの床に反射し、鈍い光が目に刺さった。
(言える訳ないじゃん)
秀二は光が眩しくて、目を伏せた。光が眩しくて。
――言えるわけが無い。
いかないで、なんて。
"―――独りは嫌なんだ"。
――そんなこと、言える訳なんか無い。
「あのね」
「―――?」
目を開くと、見送っていた背がぴたりと鉄扉の前で止まっていた。
背中は振り返ることなく、実はね、とそのままの姿勢で言う。
「入社したばかりの頃さ、私中学の時あんた目立ってたって言ったじゃない?」
問いか独白か解らない口調に、秀二は言葉を出しかねた。
黙ったままの秀二を、里佳子は気にする様子も無く続ける。
「あれみんな雰囲気が大人っぽくていいとか何とか、まぁそういうことで騒いでたんだけど。秀二、顔悪くないしね、あれくらいの歳の子って大人に憧れるでしょ」
「…リコちゃん?」
「だから学校には滅多に来ないけどさ、一匹狼してた秀二に惹かれたんだと思うのよ。私は成績維持で忙しかったから、騒ぎはしなかったけど。気にしてはいた」
「……」
捲くし立てるようにして喋る里佳子に遮られ、行き場を失った秀二の言葉は空気に消えた。対して里佳子は、未だその背を向けたまま「そしたら」と言葉を続ける。
「あんたの目が何かおかしいことに気付いちゃったの。何ていったらいいか解らないけど――ここじゃない、どこか違うところを見てるみたいな」
秀二は完全に口を閉ざした。向けられた背中を凝視する。
――クラス会があったのよ、と里佳子が言った。
「私実行委員させられたから、皆に通知して回んなきゃいけなかったの。なのにあんただけ連絡先一切解らなくなってんのね。電話は繋がらない郵便物は戻る、もうどうしようもないわけ。そしたらさ、この会社入社したら秀二居るんだもん、びっくりしたわよ。しかもあの時の目、変わってないどころかもっと酷くなっててさぁ。卒業して四年よ?四年経ってんのよ?」
声は淡々としていた。里佳子は背を向けたまま、出入り口に立ったままずっと喋っていた。
――後悔したの、と声が言った。
「心底悔やんだ」
しゃぁあん、と蝉の声が落ちる。
「初めてそこで後悔した。声をかけるなり何なり、何かできることがあったんじゃないか。気付いていながらどうして私は何もしなかったのか。――優等生だ学年一位だなんて持て囃されたけど、何が賢かったのかしらね。私は頭が良いどころか相当なバカだったんだと、今になってよく解るの」
「――リコちゃん、それは」
「違う?違わないわ。勉強が出来るのと頭が良いのとは別物よ、秀二」
遮られた秀二はそれ以上言を持たない。
だからね、と背を向けた里佳子が言う。
「六月終わりか七月の初めくらいあたりからかな。あんた段々変わってきて」
嬉しかった、と。
声に張りが出て、どこを見ているのか解らない目が《こちら》を向き始め、しっかり地に足をつけて歩く姿が嬉しかった。いつも雨の中に居るような、どこか虚ろで尾を引く気配が晴れてきて、嬉しかったと。
――私は結局、また何もできなかったけどね。
里佳子は低い声で溜息を着き、実はねと言葉を紡いだ。
「さっき、事務所に電話があったの」
本当はファックスじゃなくて、目的はこれだったと声が笑う。
淡々としていた声が柔らかくなり、あんた自分の事になると鈍感よねと秀二に言った。
秀二がきょとんとその細い背を見詰めると、白い手がドアノブを回したのが見えた。きゅいという音に混じり、里佳子の穏やかな声が言う。
「…ホントは言うなって言われたから、どうしようかと思ってたんだけど――」
ぎぃと新しいドアの蝶番が声を上げる。
――朝倉電機開発課の工藤と申します。
十分ほど前、里佳子が取った受話器から流れた声は、優しい低音でそう言った。
『矢崎里佳子さんという方をお願いしたいんですが』
『え?あ、ハイ、私ですけれど』
思わぬ指名についしゃきりと背を伸ばして言うと、あぁそれは失礼と声が謝罪した。
『急に申し訳無いんですが、あなたに一つ頼みたい事があります。そちらに勤めている名取秀二の事で』
『――名取、ですか?』
えぇ、と頷く気配がした。
『あいつの話に出た人間の中で、矢崎さんが一番適任だと思ったので』
適任。
忙しいところ悪いけどと言われ、里佳子は慌てていいえと首を振った。
『あの、名取でしたら宜しければ代わりますが…』
窓から秀二のサービスカーを見つけ、おすおずと申し出た。
いや結構ですよ、と声が苦笑した。
『矢崎さんへの頼み事だから。秀二はいい。――実は今、空港に居るんですがね』
『く、――空港?何故!?』
『えぇ。今日本社へ戻るもので。…で、いいかな本題に移っても』
はいっと慌てて返事をし、里佳子はデスクのメモを引き寄せた。
短い沈黙のあと、もし、と躊躇いがちの声が言った。
『もし…彼が今後困るような事があれば。その時は教えて貰えませんか』
『え?わ、私がですか?』
目を丸くした里佳子に、直人が苦笑してえぇと答える。
――秀二には言わないで欲しいんですけど。
『多分あいつは―――』
「"あいつは何があっても私に連絡しないと思う。昨日少し電話で話しはしたが、きっと本当に言いたいことは一言も言えてないはずだ"」
瞠目した秀二の目に、外の光がさっと差した。
開けられた扉から蝉の声が乱反射し、大きな声で室内に響く。
「"だから、傍で見ている矢崎さんにお願いしたい。勿論強制ではないし、貴女の面倒にならない程度で良い。あくまでこれは私のお願いだから"」
――だけど
しゃああん、と一際大きく声が鳴き、扉は全開に開けられた。
――出来れば、秀二を見ていて欲しい。
ただ、細い腕が重い鉄扉を押し開けるのを見詰めていた。
「"放っておくと無理ばかりして、他者を優先し自分を忘れる。あれだといつか潰れてしまう。そうなってしまう前に――"」
扉と共に、背中が動いた。
「"私は彼を支えたい"。――常務は迷惑だなんて欠片も思ってないわよ、秀二」
背中が扉の外に消え、がちゃんと重たい音がした。
秀二は放心したように閉じた扉を見詰め、蝉の声だけが漏れる作業室で言葉を忘れた。言葉を、声を、思考を、所作を。
"お前が困ってたら助けに行くよ"
――あぁ。
喉から熱がせり上がる様な感覚に、溺れそうになって口を開いた。腹に残り、行き場をなくしていた言葉や思いが勢い良く体を飛び交う。――目が、熱い。
あぁ、あぁ本当に。本当に自分は最後までこの人に勝てなかった。
勝てなかった。
"俺に勝てないのなんか解ってるんだろ"
――本当に。
「――…先、」
声と雫と。零れ落ちた先でぱちんと弾けた。
迷いかけた獣道はもう見えない。独りではなかった。独りではなくなっていた。自分はもう、独りではないのだと――明るい道はあるのだと。確かな光がそれを教える。
独りではない。
もう自分は独りではない。支えてくれる人が居る。独りではないのだ。
先生。
先生ありがとう。良かった。本当に良かった。
先生。
貴方に会えて、良かった。
それから暫く、作業室にはエアコンの稼動音と蝉の鳴き声と――
途切れがちの、微かな嗚咽が。
不規則に漏れ響いて、室内の静寂を消していた。




