11話 無限と有限、死者と生者
じりじりと熱帯夜の気配が漂う。
砂利を踏みしめる音が二人分、熱夜の中に夏虫の弦楽器と共に落ちていた。
朝はまだ心地よい風が吹いていたように思ったが、陽の落ちた今はただ蒸し暑いばかりの闇だった。数多の命が活動する夏は夜も眠らず、愛の賛歌をあちこちで響かせる。
「…先生さぁ」
「ん?」
…じゃり。
踏みしめていた足音が止まる。
立ち止まった右隣に目を向けると、今まで黙りこくってただ俯いていた秀二が、じっと直人を見つめていた。栗色の瞳が遠慮がちな月明かりを受け、奇妙に目を惹く輝きを帯びている。
――それがふと、僅かに地に落ちる。
「秀二?」
「お、思ったんだけど…今日授業だったんじゃねぇの」
月に薄雲がかかり、瞬間的に瞳のきらめきが消えた。それが秀二の表情を一層暗くして、直人は苦笑混じりに目を細めた。――あぁ、なるほど。
妙に黙っていると思ったら、そんなことを考えていたのか。
「先生は俺が、泣い――…その、帰るに帰れなかったんだよな。…ごめん」
ごにょごにょと言いづらそうにするのはバツが悪いからか。項垂れた茶髪がさらりと流れ、そこから薄らと見えた瞳は戸惑いと深い後悔に彩られていた。
…そんなこと、気にする必要あるまいに。
項垂れる髪と細い肩は、直人の"呆れ"を怯えていた。
(おまえは…)
目を細め、そっと溜息を落とす。
――――ごめん、ごめん、ごめん。…ごめんな。父ちゃん、爺ちゃん。
(一体何をそんなに背負う必要があったんだ)
清潔な病室内、抱き締めた秀二は故人へ低く謝罪を繰り返していた。秀二の内にどんな葛藤があったのかは知らぬ。だがお前は何も悪くはないだろうと一言で断ずるには、秀二の謝罪の声音はあまりに弱弱しく、そして亀裂だらけだった。
過去に縛られていた"少年"は、一体どれだけ夢と現の狭間で膝を抱えていたのだろう。
(どれだけ孤独を噛みしめていた?有り得ない夢を見続けて――)
その誰も居ない真っ暗な闇の中で。一人、孤独に。
「ごめん、先生。ほんと、俺」
「―――『来た時期が悪かったから、今暇なんだよなぁ』」
秀二を遮り、直人はそう棒読みで言いながら額に浮いた汗を拭った。蒸し暑いスタンドカラーの長袖シャツは捲くり上げていたが、まるで涼は得られない。
秀二を横目で見ると、突然のことにきょとんとしていた。直人はそれを面白がるようにニィと口の端をつり上げ、「覚えてない?」と笑った。
「昨日電話で話したと思うんですけどねぇ?――『一昨日から学生が夏休みに入って、俺何もやることが無いんだよねぇ』」
「…あっ」
ぽかんとしていた秀二がみるみる目を大きくし、「あああー!!」と突如叫んで頭を抱えた。瞬間に俯いて淀んでいた負の空気が消え去り、秀二の本来の明るさがさらりと吹く。
そしてそれを、直人は心地よく思う。
「思い出して頂けたようで。――まぁ、そんな訳で気遣いは不要だよ。安心しなさい」
頭を抱えたまま片足をどしどし地面に叩きつける秀二に笑って言うと、悔しげな栗色が直人を睨め付けた。
「くそ、そうだった…!俺が忙しいって言ったらざまみろ暇だって言われたんだった!」
――ひとでなし!
びしりと人差し指を突きつけられ、直人はカラカラ笑って肩を竦めた。罪悪感も気遣いも、自分に対しては何一つしなくていい、して欲しくないのだと、柔らかく秀二に笑いかける。そんな必要はない。
―――もう、お前の時も俺の時も、流れ始めているんだから。
黙ってただ微笑むと、秀二の目が微かに揺らいだ。
汗で額に張り付いた茶髪を伝い、浮いた汗玉が一筋頬を滑り落ちる。――涙のように。
「秀二と俺は、もう少し話さなくちゃいけないね、きっと」
「え?」
呟やくようにそう口を滑らすと、秀二が目を瞬いた。何を言っているのかと不思議そうに傾ぐ首を苦笑で受け止め、止まっていた足を歩くように視線で促した。
「話し合いをしようってことだ」
「――してんじゃん、いつも」
じゃりじゃりと細かな石を踏みしめる音が響き、直人は「そうなんだけど」と笑った。
「そういう日常会話じゃなくてね。何と言うか――一歩踏み込みましょうってところかな。俺とお前、何か繋がりがあるのは気付いてるんじゃない?内面的な物で似通ってる部分…そうだな、"何か共有している気がする"っていう」
「―――」
秀二の沈黙は肯定だ。伺うようにじっとこちらを見る視線を感じ、けれど直人は前方にやった目を動かすことなく道を歩む。
夏虫の弦楽が密やかに響き渡った。そっと、目を伏せて吐息を紡ぐ。
「――俺の家は父子家庭でね。母親が居ない。だけど離婚したとか死んだとか言う訳じゃなくて、父は結婚したこともなければ子供を作ったこともない。元からずっと独身」
「え、え?」
突然に始まった身の上話に、秀二が戸惑いがちに「どういうこと?」と首を傾げる。
まぁ意味は分からないだろう。ずっと独身で子供を作ったことがない"父"と言われても、非常識的なものと受け取られるのは当然だ。
直人は首を傾ぎ、肩を竦めた。
「養子なんだ、俺。父との血縁関係皆無」
「なっ、」
目を丸くして息を詰める秀二に、「大げさに驚かないように」と苦笑した。
「父には感謝してるし、それで不自由感じたこと無いし――別にどうってことはないだろ。実の両親は三十数年前に起きた地震で死んだらしいけど、まぁどちらにせよ覚えてないから…何の感慨も湧かない訳だ」
実際は地震と言うより、地震で引き起こされた地滑りで死んだらしいが。
真実を父に聞かされたのは直人が十二歳の頃だった。己で調べたその地震のデータは、死者30人、負傷者102人。家は全壊が134棟、半壊240棟と規模的には小規模なものだった。――そしてその全壊した家の中で、乳児にも関わらず一人だけ生き残ったのが直人だ。
恐るべき強運というのか、悪運が強いというのか。
それはどちらなのか解らないが、肉親のただの友人でしかなかった"父"が直人を引き取り育ててくれたのは、恐るべき強運と言っていいだろう。
「だから正直、肉親に対しての情を俺は持たない。育ての父にしても何か違う、たぶん他人だってのはどっかで解ってたから、別にショックは受けなかったし、常に一歩引いた関係でしかなかったからね。――そう言ったら薄情かもしれないけど」
「違うと思う」
吐息混じりにそう言うと、秀二が首を振って否と答えた。
「俺の母ちゃんも俺生んですぐ死んだから記憶にねぇし…言いたかねーけど、思い出がないから情も湧いてこねぇんだ。多分さ、"親"でも知らないなら、生んで貰った事を感謝する以外、できなくて当たり前なんだ」
「――あぁ」
強い瞳の眼光に、その通りかもねと笑った。
見上げた紺碧に幾つもの星が瞬き、見事な天の川が銀光と共に流れていた。
「そんな風に冷めていたせいかどうかは解らないけど、俺は早くから分別がついた方でね、可愛気のないガキだったわけ。しかも妙に目立ったもんだから、周りにあったのはおよそ気持ちがいいとは言えない感情ばっかり。中学に上がるともっと酷くなって、必然的に人に関わらないような選択ばかりして生きてた」
砂利を踏む足音が響く。決して音がないわけではないのに、酷く静かな闇夜だった。
秀二はただ黙って隣を歩いて、時折何か言いたげに直人を見ていた。
「で、高校受験が終わった次の日だったかな。父が倒れたんだ。それまでも少し具合は悪そうじゃあったんだけど――まぁ、頑固な人だったから病院行かなかったんだよね。痛いんだろうに脂汗浮かべて我慢するから、俺もいい加減に無理矢理引きずって病院連れて行って――」
「…どうだったの?」
恐る恐ると言った様子で尋ねる秀二に、苦笑して首を振った。
「肺癌だった。末期の上あちこち転移してて余命半年」
「――、死んだんだ」
掠れた声で聞く秀二に、吐息と共に肯定を返す。
「うん。半年どころか三ヶ月で逝ったよ。見る度に窶れて、最後は意識も無くて、目を見開いて人工呼吸器が無いと息も出来ない。…それが苦しそうでねぇ…」
遠くにぼんやりと街灯の光が見えた。信号の点滅が見える交差点は、秀二と初めて会った場所だ。
人工灯など必要ないくらいの月明かりの下、街灯の光は小さく見えた。
「何でもっと早く連れて行かなかったのかと心底に悔やんだ。悔やんで悔やんで、何かもう生きることがどうでもよくなってね。…その時、バイト先の上司に言われたんだ」
後悔の鉛空、空気は澱み。
動けない暗闇で蹲っていた直人に、彼は強く言ったのだ。
「たった一言、"もういい、頑張ったな"、て」
「…、」
驚いて目を丸くした秀二を、直人は静かに真っ直ぐ見返した。
「名取秀隆技師も名取康秀会長も、お前の幸せ以外願ってないと思うよ、秀二」
「―――!!」
交差点近く、驚愕して見開かれた瞳に信号の青色が光っていた。発光ダイオードの鮮明な色は美しく、点滅して栗色の瞳を照らす度、その色を優しげな若栗の色に変えた。
あの見覚えのある、優しい瞳。喪われた色彩に。
「、なん、で。な、まえ…!」
秀二の掠れた声が問うた。
何故父と祖父の名を知っているのか。話した覚えは一度も無いのに。――秀二の目はそう言っていた。
そう、まったく秀二と直人は一月半前まで何の面識もなかった。何も知らないはずだったのだ。
――それが。
『お、…おい!あんた大丈夫か!?』
たった三ヶ月の出張。師の墓参りという理由を付けて、何かに呼ばれるように引き受けた臨時講師。
知らないはずだったのに、驚くほど嵌り込んだタイミングで引き合わされた。
まるで、そうなるべきであったかのように。
(…そう考えるのは傲慢だろうか)
呼ばれた、などおかしな話だ。ただの積み重なった偶然の結果。それ以外に在るわけがない。
けれど、六月という月に師の息子である秀二に会うなど、偶然にしては巧すぎる気がするのだ。自分はフェータリストではないけれど、何か大きな意思が働いているような巡り合わせだと。そう思えてならない。
「先生、」
栗色の瞳が直人を見つめる。
会ったばかりの頃、笑顔を浮かべる秀二の瞳に浮かんでいた闇は酷く暗かった。触れることの一切を拒む、抉れた傷口のようであり、怒りとも悲しみともつかぬ複雑な色を浮かべていた。
そして多分、自分も似たようなものであっただろう。
苦いのか恥なのか解らない感情に、肩を竦めて目を細めた。
「俺のバイト先、朝倉電機だったんだ。技術課室長・名取秀隆。それが上司の名前」
秀二の目が大きく瞬いた。
「――父ちゃん、朝倉電機だったの!?」
「そ。名物技師だったよ。"何しでかすか解らない天才"って」
「…それナントカと天才は紙一重ってヤツじゃ…」
一瞬固まって呟いた秀二に深く考えるなと肩を叩くと、素直に沈黙した。それを苦笑して見下ろし、「頭のいい人だったよ」と呟いた。
――"死にたい"。
父が死んですぐ、項垂れてそう言った直人に、師は静かに言葉を紡いだ。
『直人君。人は死んでも何の役にも立ちゃしないよ。だいたい生きる理由が解らないなら死ぬこともないでしょう。人生は苦労して捨てるほどの価値なんかありゃしないんだから』
柔らかいテノールが、さりげない口調で豪快に笑った。
『だから捨てるより拾おうよ。せっかく自分のために生まれてきたものが沢山目の前にあるのに、自分のものにもせずに全部放り捨てるなんて、とんでもない贅沢者じゃないか』
「"現実ってのは残虐性ばかり目立つが、目立たない場所にそれと相殺し得るだけの宝物があるものだ。どうせ死ぬならそれを見つけてから死になさい、もったいない"…お前の父親はそう言って俺を一蹴したんだ。あんまり軽く言うから、もう言われたこっちは呆気に取られてぽかーん、だったよ」
「え、えぇー…」
苦笑いでそう言うと、己の中の父親像と結びつかないのか、秀二が困ったように目をしばたいた。
六つの頃に亡くなったと言うなら、その幼さであの父親を理解するのは難しいだろう。記憶の中にある技師は、とにかく何を考えているのかさっぱり解らない人間だったから。
「…何か、俺の覚えてる父ちゃんと全く違うような…」
眉を寄せて考え込んでしまった秀二に苦笑し、そんなもんだろうと頭に手を乗せた。
「死んだ人ってのは記憶が唯一だろ。もうそれ以上どうしようもないから違和感はいつまでも消えない。だから死者は永遠で、無限なんだ」
「…生きる者は有限だから?」
「そう。――だから」
直人を見上げる秀二の目は、目尻が少し赤く腫れていた。その瞳は迷子のように揺れ、いつかの構内で「大丈夫だから」と苦笑した瞳と重なって見えた。
「俺もお前も、ここで立ち止まってる場合じゃないわけだ。ほら早く帰らなきゃ、まだお前の家まで十分は歩かなきゃいけないんだし」
時間は有限だぞ。そう言って笑うと、秀二が一瞬ぽかんとした。が、一つ瞬くと口をぐっと一直線にし、何かを飲み込むように視線を逸らした。
目の端に溜まった滴は見えない振りをしてやるほうがいいだろう。
「―――帰ろう、秀二」
横で握りしめられていた秀二の手を取ると、少し驚いたような顔をしたがふっと笑って再び砂利音を響かせて歩き出した。
始まりとなった交差点を曲がり、アパートに続くなだらかな坂道を静かに歩く。
夏虫と足音、そして月の静かな光。
――過ぎた時間と死者は似ている。
直人は軽くなった空気を吸い込み、ぼんやり光る月に思う。
過ぎた時間は懐かしむものであり、死者はその生を悼むもの。二つとも今そこに在るものではなく、過ぎ去ったものである。
(生きている者は、過去にも未来にも苦しむ。でも本当は、見つめるものは一つでいい)
現在だけに立ち向かい、そして見つめていればいい。時に思い返し、反省する事は大切でも、それは決して囚われてはならない。
(必要ないんだ)
過去はもうここに存在しないし、未来はまだ存在してないのだから。いらぬ心配は、するだけ無駄だ。
「ま、屁理屈と言えばそうなんだけどね」
「え?何か言った?」
「いーえ、何も」
アパートの扉の前、ガチャガチャと鍵を回す秀二に、直人は肩を竦めて月を仰いだ。
墨空に光る天の川が、ゆぅるりと眩しく流れていた。




