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10話 涙の夏疾風



 ―― どどどどどどど ざざざざざ あ あ ざざああああ。


 秀二がぼんやりと覚えている「その光景」の映像は、ガラス窓を叩き付ける、凄まじい雨の怒号から始まる。




 ……―― 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 


 朗々と響く僧侶の読経と同時、薄暗い外界は飛沫を散らして力の限りに暴れ狂っていた。

ガラス越しに見上げた世界は曇天が覆い、灰色世界の住人達が我が世の春とばかりに高笑いを続けている。普段は原色に溢れ美しいとしか思わなかった世界は鉛色に濁りきり、秀二の目に映るのはだた牙を剥いた天の化け物だった。猶しも世に蔓延る悪意が具現化したような光景――それは、きっと人の表情が持つ色さえ奪ってしまったに違いない。


  度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 


  ぽく ぽく、ぽく ぽく。


 部屋には奇妙な、それでいて独特の臭気が充満していた。それは人の臭いなのか線香の臭いなのか、あるいは両方の混じった混和臭なのか、それは解らなかったけれども、どちらにせよ秀二の知った臭気では無かった。自分の家であるのに知らない人間と知らない臭いが充満するなど、何とも不思議で奇怪な事だ。そして何より怪異であるのが、ここにいる全員が異様に焦り急いでいるという事だ。読経する僧侶以外、誰一人として微動だにせず座っているというのに、人から発せられる気配はやたらと忙しなく、それでいて何かを恐れていた。

 まるで今にも見えない怪物が、窓を破って食い殺す想像に怯えているかのようだ。


  受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅


  ぽく、ぽく、ぽく ぽく。


 その奇妙な空間内で唯一穏やかで不変であったのが、一定の音階で繰り返される木魚と、頭の綺麗に禿げ上がった僧侶の経文歌だった。それはお祭りに響くお囃子のようであり、神に捧げる祝詞のようでもあった。

 しかしそれは、静が支配する真っ直ぐな水面に小石を放る役割も果たしてしまったらしい。

 一軒家の狭いリビングに経が響き渡るにつれ、弔問客の水面はすすり泣きの波紋を広げ、みるみるうちに部屋の中は悲嘆の声で埋め尽くされてしまった。さっきまでこっそりと笑いあっていた客の姿を確かに秀二は見ていたが、その姿など今は一つも見つけられず、それどころか皆が一様に沈痛な面持ちで背を丸めてしまっていた。――やはり、灰色世界は人の表情色を奪ってしまったのだ。

 秀二の見渡した世界は、人の服も色彩も、全てがモノクロームに浸食されていた。荒廃を住まわせた空間は瓦礫が形作った寄る辺なき廃墟であり、流れの止まった河川だった。秀二はオレンジやブルーの明るい色彩を好んでいたので、何故皆一様に真っ黒になってしまったのかと不思議で、またそれが残念だった。

 そして自分が何故ここに混ざっているのか、それが一番理解できないことだった。


 ぽく。ぽく。ぽく、ぽく。


 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 


  その時祖父は前方で朗々と経を謳い上げる僧侶の側に居り、秀二はリビングの角に膝を抱えて座っていた。父と二人で住んでいた小さな家は三つの部屋しか存在せず、しかも座敷と呼べる部屋はその家に存在していなかった。しかしながら客の少ない家に座布団が多くあるはずもなく、黒い服を着た集団はフローリングの床に仰々しく正座をしていた。――正座をするにはあまりに不適切な床であるのに。

 秀二は床に正座すると痛いことを知っていたので、その大人たちの光景は酷く異様で不可解だった。座布団の数は全部で三枚、僧侶と祖父と、あと誰だか知らない人が使っていた。

 そういえば。

 ふと気がついた。


 故知般若波羅蜜多呪 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪


 父は何処へ行ったのだろう。


  ぽくぽくぽくぽく。


 ぼんやりとしていた視線をふらふらと彷徨わせ、秀二は黒い背中から部屋の内部へと焦点を変えた。いつも秀二を見つけると笑いかけ、大きな両手で抱き上げてくれる父。

 父は一体どこへいったのだっただろうか。


 『秀二、いい子にしてた?』


  ぽく ぽく ぽくく ぽ。


 巡らせたモノクロ世界に父の色彩は無かった。光を弾く綺麗な茶髪と、秋の実りのような二つの栗色――父の持つそれは、秀二が好きな鮮やかさが住む世界で一番大好きな色彩だ。秀二の瞳は成長しきった栗の濃い色をしていたが、父の瞳は少し淡い若栗の色をしていた。太陽が振りまいた射光がその若栗を射抜くと、瞳の色は更にその色を明るくし稲穂のような色になる。それが晴天下で秀二を見て柔らかく弧を描く瞬間、何故だかとっても誇らしい気持ちになった。

 父は手先も器用な人だ。棚だって椅子だって何でも作る事が出来て、壊れた玩具もあっという間に直してくれる魔法使い。秀二に母は居なかったが、父はとても優しいしお弁当だってちょっと変わった飾りつけではあるけど作ってくれるから、寂いとは思わなかった。思わないようにしていた。

 確かに仕事をする平日は帰ってくるのが遅かった。けれど幼心に生活の大変さは何となく理解していたので、不満などあっても出さないように明るく父を出迎えた。それが唯一秀二に出来る仕事だと思っていたし、実際、そうすると父はとても喜んでいたから。

 秀二はそんな父が大好きで唯一だった。けれど、その父が居ない。


 ぽく ぽく ぽく。


  能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪


 ぽくぽくぽくぽく、ぽくぽくくく、ぽくぽく。


 黒い背中たちは皆一様に小さく丸まり、壇上の華の中で笑う父の写真を恨めしげに見ていた。恨めしいのはきっとあの悪趣味な華のせいなのだろうと秀二は思い、あれなら父の作るお弁当の、理解できない彩りのほうが断然上だとはっきり思った。

 秀二は父の姿を探した。開け放たれたカーテンから、鉛色の空を見上げる。

 ざざざざ、ざぁざぁ。

 どどどどどど。

 天が唸り猛って、ひどい雨を投げつけていた。雨はいけない。


 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦


 くぽくぽくぽくぽ、くぽくぽくくくくくくぽ


 雨雨、雨だ。

 雨はよろしくない。 雨。ざざざざあ。雨が降る。


  波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経―…。


 雨。雨は氷のような手になるのだ。あの優しい瞳を開けなくなって、秀二を見なくなるのだ。

 よろしくない。電話が鳴るのだ。氷になるのだ。そして。


『む、息子さん…?』


 控えめで、とても優しい女性の声を聞いた。

ぎょっとして視線を窓から前方へ戻せば、黒い着物を着た初老の婦人が沈痛な面持ちで秀二を見詰めていた。見たことなど一度も無い人だったが、視線を部屋に巡らせると、黒く蹲っていた集団は既にちらほらと立ち上がっていた。皆は祖父に頭を下げながら何事か一人一人話していたが、祖父もそれに答えて頭を下げていた。

 良く解らない変な集会は、いつのまにか終わりを迎えていたらしいと知った。

『ごめんなさい』

 女性がひび割れたようなしゃがれ声で呟き、深く頭を下げた。

 唐突の事にきょとんとし、床に下がった白髪交じりの頭を黙って見詰めた。

『ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…っ』

 秀二が黙っていると、女性は床に額を擦り付けんばかりに頭を下げ、壊れたレコードのように悲痛な声で繰り返した。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――私が、私さえあんなところに居なければ。

 何を言っているのか解らなかったが、解る必要はなかった。解ってはならないことだからだ。

『ごめんなさいごめんなさいお父様が――』

 ――とうちゃん。

 女性の言葉で思い出し、秀二はすくっと立ち上がる。思い出した、父はあの壇の前にある箱の中で寝ている。一昨日からずっと眠ったままだ。きっと寝すぎたから手があんなに冷たくなったのだ。はやく起こさなければ、きっと氷になってしまうに違いない。

『ど、どうし…』

 女性が真っ赤になった瞳で秀二を見た。

 秀二はどうして女性が泣くのか解らなかったが、首を傾げながら微笑んだ。

『とうちゃん、おこすの』

『――――っ、』

『つめたくなってるんだ』

 手が氷みたいだったから、きっと寒い。――そう言って首を傾げた秀二に、女性はわなわなと震えると、絶叫に近い声で床に突っ伏して泣いた。何かいけないことでも言ってしまったのかと秀二は思い、慌てて女性に「どっかいたい?」と声をかけた。女性はそれに答えず、あああああ、と酷い声で号泣していた。

 ――なんで泣くのだろう。

『秀二』

 秀二が困惑していると、ふわりと頭に手が乗せられた。

 感触で見上げた視界に祖父を見つけ、秀二は安堵し黒い着物の裾を握った。

『じぃちゃん、この人どっかいたいの?』

 秀二は優しく頭を撫でてくれる祖父を見上げ、泣いているのだと女性を指差した。秀二が涙を零すときというのは、どうにもならない痛みを抱えた時だったため、この女性もそうなのだろうと思ったのだ。

 祖父は頷き、微笑んで秀二の金髪を撫でた。

『私はこの方とちょっとお話するから、お前はジュースでも飲んでなさい』

『とうちゃん牛乳しかかわないよ』

『…あぁ、そうだったか』

 祖父は泣き笑いのような笑みを浮かべ、秀二を撫でながら「牛乳だったな」と呟いた。

 そうしてふっと吐息を落とすと、軽く目を閉じて秀二の背をポンと押した。

『さぁ、あちらに行ってなさい』

『うん。ねーじいちゃん、とうちゃん起こしていい?』

 裾を引っ張って問うと、祖父は一瞬瞠目した。

 薄茶色の瞳が秀二を真っ直ぐと見下ろし、皺の刻まれた唇が戦慄くように揺れる。だが、やがて静かな笑みを浮かべると、祖父は『いいや』と首を振った。

『寝かせてやりなさい』

 秀二は首を傾げて不可解だと訴えた。

『夜に、じいちゃんとゆっくり話そう』

 祖父は辛そうに首を振り、そう言って秀二の背を押した。

 意味は解らないし自分だけが仲間はずれと言うのは楽しいことではなかったが、何か大事な話があるのだというのは何となく理解した。

 女性はがっくりと肩を落として嗚咽を零し、小さな声で「ごめんなさい」と繰り返していた。どうしてそんなに謝っているのか全くもって不可解であったが、自分ではどうしようもない事が解っていたので、秀二は祖父を残してその場を離れた。

『ごめんなさい、ごめんなさい――…!』

 部屋を出る直前、女性が壊れた様に叫んだ。

 そっと振り返ると、背を丸めた祖父が突っ伏す女性に静かに何事か話しかけていた。


 その数時間後、父の入った箱はどこかへ運ばれてしまった。

 秀二はその様を呆然と見つめ、車に乗るよう言った黒い人に留守番をすると首を振った。

 黒い人は気遣わしげにこちらを見ていたが、父が帰ってくるのを待つのだ言うと、溜息を零して哀しそうな顔を浮かべた。


『君のお父さんは、もう帰ってこないよ』


 秀二は無表情にその黒い人を見上げた。


 ――じりりりりりりぃいいいぃいぃん


 唐突に電話のベルが鳴り響き、黒い人は一瞬部屋の奥に視線をやった。家の中は既に誰も居なかったので、ベルは鳴りっぱなしで人気の無い部屋にりんりんと無邪気に木霊している。

 黒い人は秀二を哀しげに一瞥した。

 電話は鳴り止まず、いつまでも楽しげに哀しげに歌い声を上げていた。

 黒い人は溜息を落とし、玄関の扉をがちゃりと開けた。生暖かい空気と湿気た臭い、鉛色の濁った空が顔を出し、豪雨の雑音が響き渡った。


『お父さんは、死んだんだよ』


 扉を開けたまま、黒い人は外へと姿を消した。

 電話のベルと、雨の音、湿気た空気が延々と秀二の耳を劈いて、唸る。


 ―― お父さんは、死んだんだよ。


 電話のベルは鳴り止まない。

 秀二は亡羊と表情を消したまま、扉の形に切り取られた梅雨空を見上げ。

 耳を塞いで、低く呟いた。



 ―― 「そんなこと、しっている」、と。




 * * *



 次の場面も、世界は豪雨にまみれていた。


『笹山総合病院の住吉と申します』


 秀二が中学から帰った途端に鳴った電話は、男の声でそう言った。

 住吉と名乗った男は己が病院の医師であることを告げ、祖父の名前を出して秀二に誰か家族はと――父親か母親は居ないかと尋ねた。

『居ません。家族は俺だけです』

 秀二は鉛色に濁りきった窓を眺めながら、言い慣れた言葉を口にした。

『父も母も、死にました』

 医師は一瞬言葉に詰まり、次いで静かな声で祖父が転倒したと説明した。

『雨で滑りやすかったのでしょう、先程病院に運ばれました。――処置は、しておりますが…』

『――祖父の、意識は』

 体が異様なほど冷たくなっていた。真冬に氷風呂へ入ったように、足が静かに震え出した。

 灰色世界の空、豪雨、書置き、電話。

 ――かえってこない。

『意識はありません』

 秀二は息を止めた。視線を落とし、テーブルに乗った祖父の書置きを呆と見詰めた。

 達筆な祖父の字が、窓を流れる雨を映してゆらゆらと波打っていた。


 ――すぐかえるすぐかえるすぐかえるすぐかえる――


 世界は、全てがモノクロームに溶けていった。


 秀二はずっしりと重たくなった腕を握り、解りましたと呟いた。

『直ぐに向かいます。部屋を教えてください』

 答えた声は己でも驚くほど平坦で、人らしい感情の色がごっそりと抜け落ちていた。

 ――灰色世界の住人は、また人の色彩を奪ってしまったのだ。

 

 使い慣れないタクシーを使い、秀二は病院へと駆け込んだ。

 体は冷や汗だか雨だかさっぱり解らない水分でずっしり重くなり、切り損ねて伸びた茶髪がべったり頬や額に張り付いていた。病院は真っ白で、指示された病室に立つ人々も皆が真っ白な服で祖父を取り囲んでいた。――父が氷になったのも、これと同じ光景だったなと思い出した。


 祖父はもう、息をしていなかった。



 * * *



 ――ぽく ぽく ぽく ぽく・・・


 ……観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空


 白かった人が黒くなった。


 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 


 ぽく ぽく―― りりりぃいいいいいいんん


 電話のベルが鳴り響く。

 直ぐに帰ると書き置いて、父も祖父も氷になった。


 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 

 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 


 ―― りりりぃいいいいいいんんんなさいめんなさいごめんなさいぃいいい


 女性が泣いた。人が死んだと床に突っ伏して、秀二に縋って絶叫した。

 あなたの父が死にましたと。

 そう言って、留守番する秀二に理解を促す。死にました。死にました。

 けれど秀二は約束を守り続けなければならない。

 大丈夫だと笑い、すぐ帰るから待っててと、そういった父の約束を守らなければならない。


 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 


 雨の中は虚無だった。雨が降ると孤独だった。雨はぬくもりを連れて行った。

 黒い人は列を作り、抱えた棺に色彩を求めた。

 秀二はその様子を色無くして見つめ、絶望と名の付く心の渇きに沈黙の塩を与えた。

 カラカラに干上がった内側は亀裂ばかりが走り、しかしそれでも秀二は崩れなかった。

 否。――崩れることを赦されなかった。


 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

 以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 


 唯一だと思った宝物。それは掴んだ瞬間にいつも指の間から零れ落ちる。

 いつも秀二は取り残され、そしてただ笑って留守番をする以外もう術は持たない。

 右にも左にも、もう良いと守り続ける番人の終了を告げてくれる者は居ない。

 誰も帰ってこないのに、そんな事とっくの昔に夢だと知っているのに。

 それでも、秀二はもう良いと終了を知らせてくれるのを待っている。

 夢だと教えてくれる事を、誰かが微笑ってくれる時を、待っている。


 心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 


 ―― いつ終わる。


 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 


 辛い哀しいと訴えることは、いつまで待てば赦される。

 いつ、終わる。

 誰かが終わりを告げてくれない以上、崩れる赦しさえ得られない。


  是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 


 父は死んだ。祖父も死んだ。けれど約束が喪失の崩壊を拒否する。

 "秀二"。

 壊れられない。帰ってくると言ったから。帰るまで待てと、言ったから。

 笑っておかえりと言うのが自分の仕事であるのだから。

 夢が終わらない。夢と知っているのに覚めることが出来ない。

 夢と現と、その境目すら己を欺瞞して。

 自分は――…


 『肩の力を抜きなさい』


 ―――もう、


 もう、待ちたくないのだ。



 …――能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 

 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 

  波羅 

    僧、

       羯

              諦 ――・・・       





   もう 赦して。






「――秀二?」


 低い、優しい声が聞こえた。

 ぼんやりと映った真っ白い天井の中、漆黒の瞳が見下ろしている。

秀二、唇がそう動いて言った。

「声は聞こえる?ゆっくりでいい、解るなら瞬きして」

 霧がかかった思考の中で、声は穏やかに沁みて行った。ゆるりと目を瞬くと、優しい瞳は弧を描き、記憶の中の若栗が煌いて重なった。

 大好きで、大好きだった――二度と、見ることができない父の色。

「大丈夫だ。栗原社長には連絡したから。東京の会議に行ってるから来られないそうだが、無理しないで休めと言っていた。心配しなくていいから――大丈夫」

 言い聞かせるように、声はあくまで穏やかに紡がれる。

 そうっと伸ばされた手の平が、祖父のそれと重なり、目を細めると温かく髪を撫でて消えた。

「大丈夫」

 父親の瞳。

「大丈夫だから」

 祖父の手の平。

「もういいから」

 全ては消えた過去のもの。


「我慢するな」


「――――…、」


 ついえたもの。


 微笑んだ黒髪の白皙が、ぐにゃりと形を不鮮明に変えた。

 もう何年もの間忘れていた感覚が、熱を伴い目尻を零れる。

「せん、」

 力の入らない手を伸ばすと、それを大きな傷跡だらけの手の平が受け止めた。

 熱の波は後から後から生まれ続け、果てを知ることなく流れ落ちる。

「つかれた」

「うん」

「疲れたんだ」

「うん」

「とうちゃんと」

「…うん」

「じいちゃんが、」

「うん」

「待てって――帰るからって。帰らないのに」

「うん」


 …しゃぁああああん…。


「――も、やめたい」

「いいよ」


 低い声ははっきりと言い、ぼやく視界で目が優しげに弧を描いた。


「待たなくていい」


 大きな手が、秀二の手の平をぎゅっと握った。


「良く頑張った。―――終わったんだよ」



 欲しかったのは、きっとその一言だったのだ。



「…、――…っ、」



 声を詰まらせて伸ばした両腕、それは直人に引き寄せられ、力強い胸に抱き締められた。

 開きっぱなしの病室の窓から、夏を謳歌する蝉時雨が木霊する。

 しゃんしゃんと逞しい蝉歌の間、壊れた涙腺が雨を零し、下手な嗚咽が室内に落ちた。


 ――けれど、直人の背中越しに見た窓辺には、雨の欠片など微塵もなく盛夏溢れる緑葉が光を零しているのだ。煽る薫風がその葉一枚一枚を揺する度、光は四方八方へ輝きを零して天然のシャンデリアへと姿を変える。

 ――あぁそうだ。季節は既に、葉月の頃を迎えているのだ。



 長く長く、降り続いた梅雨空の夢。

 色を奪った鉛色の世界に、鮮やかな夏疾風がまぶしく吹いた。



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