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   言葉の力-2



 職員が帰った大学事務室。その閑散とした空間が破られたのは、定時を二十分ほど過ぎた時刻だった。

 一人静かにレポートを見ていた直人は、廊下を走る騒がしい音に顔を上げた。

 窓の外を見ると陽が僅かに傾き、間延びするようになった日暮れもあと数時間で訪れることを物語っている。直人は一日の短さに息を落とし、よっこらしょと立ち上がり―― そこでがらり、と白い引き戸が横に開いた。


「――わ、悪ィ!先生ちょっと遅れた!」

 息を切らせて現れた顔は、真っ赤に火照りあがっていた。

 どうやら校門から走ってきたようで、後ろに軽く撫でつけた茶髪が乱れている。

 額に浮かぶ汗を見つけ、ゆっくりでいいと言ったのにねぇと、直人は苦笑を浮かべた。

「お疲れさん。他の仕事は片づいた?」

「勿論!先生のおかげで全件完了!あとはここだけ――先生は?」

「俺はあと少しあるけど…ま、十分もありゃ終わるよ」

 机の上に乗る未採点のレポートは、あと二人を残して片づいている。凝り固まった両手をぐぐ、と上に持ち上げ、ばきばきと鳴った骨に溜息をついた。―― これだから講師など引き受けたくはなかったのだ。

 直人は秀二の息が平常に戻ったのを確認すると、じゃあ行こうかと扉に向かう。秀二がきょとんとしていた。

「先生も来んの?」

「うん、俺ハーティー機は携わってないけど参考までにと思って―― 邪魔なら止めるけど」

 廊下に出て振り返り言うと、秀二が慌てて手を振った。

「いやいや!逆に有り難い!相談する相手が居た方が助かるし!」

「おーし、じゃあいいな。さ、行こう」

 満足げに頷いた直人は、その反応に面食らう秀二を余所に、笑みすら浮かべて足を速めた。

 足取りが妙に軽いのは、久々に機械を相手取るのが嬉しいからだ。講師業が嫌いという訳でもなかったが、いい加減書類ばかりを相手にするのは飽きていた。


 研究棟を出て講義棟に入ると、既に生徒の帰ったそこはがらんとしていた。部屋の隅に設置された自販機だけがぶぅうんと音を鳴らし、少し陰ったそこを煌々と照らしている。

「アレか」

「そう、アレ。先週入れたばっかみてーだけどな」

 二人して自販機に近づきながら見れば、確かにその外観の立派さは新品特有のものだ。白い外箱は艶やかに光り、そこかしこに開発者の苦労が伺える。

 秀二が受け取った鍵で自販機を開け、「よいしょ」と言いながらその扉を開けた。うぅぅうん、と冷却ユニットの音が少し大きくなった。―― 直人が眉を寄せた。

「…コンプレッサーだな」

「―― へ?」

 しゃがんでユニット部屋を覗こうとした秀二が、目を点にして顔を上げた。

「音がおかしい。コンプレッサーで冷媒の圧縮が上手く行ってないんだ。秀二、ちょっとそっち持って」

「へ?あ、はい!」

 直人は秀二の横にしゃがむと、ユニット部屋の仕切りを開ける。うううう、と音を鳴らし、震えるコンプレッサーが姿を表した。秀二は何故か恐縮している。

 ―― 冷媒とは、気体、液体の状態を繰り返して気化熱、凝縮熱を運ぶ物質のことであるが、それはコンプレッサーと呼ばれる圧縮機で圧縮され、高温高圧のガス冷媒に変化する。その後にコンデンサー(凝縮器)で放熱しながら液化し、キャピラリチューブという毛細管で気化しやすいように減圧される。そうして最終的に冷却器で気化し、周囲から熱を奪うことで自動販売機の飲料は冷やされているのだ。

 自販機の冷却装置と一般家庭に置かれる冷蔵庫、その仕組みに大差は無い。


 直人はじっと目を皿のようにして見つめる秀二を見やり、中のパイプを指さした。

「そこ見てみろ、コンプレッサーの下の方。解る?」

「えと――あ、パイプが歪んでる!何だよ、不良品!?」

 ぎょっとする秀二に、直人が頷く。

「そのとーり。この型式ので同じ依頼来てると言ってたな?対策になるぞコレ」

 ぎゃああと頭を抱えた秀二に、直人が笑いながらご苦労さんと肩を叩いた。

「まぁとりあえずここは交換しなくていいよ。ハンダ持ってる?」

「は?えと、持ってるけど…」

 貸してという直人に、秀二が傍らの工具箱を漁る。その間に直人は自販機の電源を落とした。煌々と点いていた電気が消え、そして支配していた唸り声も消えた。

 秀二が不思議そうな顔でハンダを手渡す。

「何すんだ?交換必要ないって・・・」

「まぁ見てなさい。開発課の腕をなめるなよー」

 にぃ。

 綺麗に形の整った口角を上げそう言うと、直人は作業を開始した。



 * *



 ―― 時間にして凡そ二十分。


 窓から覗く世界が少し薄暗さが増した頃、秀二は目を点にして自販機を見つめていた。

「す…っげぇ」

 見つめる先の冷えてなかった自販機は、正常通りに中の飲料の冷却を開始した。

 直人は額にかいた汗を拭い、ハンダを工具箱に片づけながら言う。

「かなり荒技だけどね、パイプの歪み程度ならやり方次第で修正できるんだよ。…と言っても中の冷媒に妙なモノ混じらせる訳にもいかないし、まず交換した方が賢明と言えば賢明」

「先生」

 秀二が真剣な顔で直人を見つめ、ん?と微笑む直人の手をぐっと握った。

「結婚してくれ」

「――何故そうなる」

 目を点にした直人の手を握ったまま、秀二が「だって!」と興奮して叫ぶ。

「俺冷却ユニットその場で直した人初めて見た!スゲーよ!神様だよ!もう先生信じらんねぇッ、俺もう嫁ぐ!先生ンとこ嫁ぐ!つーか弟子にしてくれー!!」

「…あーハイハイ、嫁でも弟子でも何でもいーから・・・落ち着きなさいよ」

 目を輝かせて捲し立てる秀二におざなりな返事をし、直人はふと廊下を見て――

 掴む秀二の手を、軽く握った。きょとんとした栗色の瞳に前を見ろと目配せする。

 秀二は視線を廊下にやり、…すぐに手を離して小さく頭を下げた。顔が少し、硬化していた。


「あれ、工藤先生じゃありませんか。どうしたんです?お、名取君久しぶりだね」

 少し暗さを纏った廊下からそう言って現れたのは、小太りの初老にさしかかった男―― 桐蔭電機工科大学の学長だった。こんな時間に、というよりも本校の学長が構内を闊歩している姿は珍しい。

 直人はむしろどうしたんですかは貴方の方ではと思ったが、薄く愛想笑いを浮かべて「ちょっと通りかかって」と言った。修理を手伝ったなどと言えば、秀二の立場が悪くなると思ったのだ。

 ところが学長は、「いや解ってますよ」と微笑んだ。「お手伝いされていたのでしょう?先生がいらっしゃったのなら安心ですから、いいんですよ」―― そう言って、秀二をちらりと見ると申し訳なさそうな顔をする。つられて見た秀二は、視線を床に落として…何故か硬化したロボットのような笑みを浮かべていた。

 さっぱり状況が解らない。

「学歴は信用と同等ですからな」

 学長の声が優しく、そして気遣わしげな音で響く。

 直人は意味が解らず、困惑して首を傾げた。学長があぁそうかと言った。

「工藤先生はご存知ありませんでしたかね。名取君は高校も大学も出ていないんですよ。しっかりして見えますが…ご両親もいらっしゃらないそうですし。ですから常識的に考えて、その…少しばかりね」

「――はぁ」

 直人は絶句して学長を見つめた。

 何か聞き違いでもしたかと、二、三度瞬きして「どういう意味で…?」と声を漏らす。

 学長は肥えた腹を揺すり、「仕方の無いこととは存じてますとも」と困ったように笑った。

「ええ、ですから私も心配してね、何度か我が校に聴講生でもいいからいらっしゃいと言っているんですが。なかなか彼にも事情があるようで―― どうだね名取君、そろそろ決心はついたかな?」

(――決心?)

 呆れてものも言えぬとは、まさにこのことか。

 直人はもはや突っ込む気すら失い、優しげな笑みを広げる学長を眺めた。本当にメロンパンに似ている。

 ―― 学長はつまり、秀二の持つ経歴が「学長が言うところの常識」において気に食わぬから、大学で学べと言っているのだ。アホか、とあきれ返る。

 一体何を基にした常識なのかは知らないが、プロの自販機整備士に向かっていう事ではない。馬鹿も休み休み言えというものだ。―― まったく無知とは恐ろしい。

「学・・・」

「学長。お話は有り難いのですが」


 思わず口を開きかけた直人を制したのは、秀二だった。

 驚いて隣を見ると、秀二が微笑んで首を振る。


「実を申しますと、先日資格全て取ってしまったんです。もう学ぶ事は現場だけですし、今の俺が大学へ行ったところで何も得られず、学長を落胆させてしまうでしょうから」

 だから、済みません。

 控えめにそういった声はひどく丁寧で、しかしその抑揚はどうしようもなく硬質なものだった。そのどこか底冷えする平坦さは奇妙で、直人はその口を完全に噤んだ。

 秀二は何故怒らないのか。直人はその行動を理解しかねた。怒るべき場所のはずであろうに。


「そうですか、残念です」

 学長は肩をすくめ、憐れむような視線を投げた。それは正直カチンとくるものだったが、しかしそれで、秀二の行動の理由が理解できた。―― なるほど。

 確かに「この環境」で怒る事は難しい。


「さてと、それじゃあ私はこれで失礼しますよ。ちょっと書類を取りに来ただけなのでね。名取君、来たくなったらいつでも声をかけなさい。学校というのは誰にでもその門を開き信用を得られる場所ですからね」


 そう言って微笑み、直人に会釈を送ると、学長は来たときと同様に薄暗さを纏った廊下に消えていった。

 あとに落ちたのは、自販機のユニット稼働音だけだ。


「…工藤常務」

 苦々しい顔で学長の背を見送っていた直人に、声がかかった。

 廊下を向いていた体を秀二に向けると、困ったような顔が笑っていた。

「いいんだって。学長に悪気無ぇの、解っただろ?」

 ―― そう。

 学長に悪意は無い。彼は全くの親切で言っているからだ。

 あぁもう、と直人は嘆息する。

 善意から来る言葉に、純然とした怒りをぶつけることはなかなか難しい。

 善意の善人、それほど始末に困るものは無いのだ。


「…秀二、」

「俺慣れてるし平気だって。あの人くるといつもああだぜ?最高技術者の工藤常務は俺をプロとして見てくれてるだろ、実力あるってことで俺はそれで充分。―― 何ともねーよこれくらい」

「―――」

「大丈夫だって」

 浮かべる笑みを、人は苦笑というのか不敵というのか。


 ―― 直人には、涙を堪える迷子の子供のように見えた。


「―― それは慣れるものじゃないよ、秀二」

「…ぉわっ!?」


 唐突に引っ張られ、腕の中に閉じ込められて秀二が裏返った声を上げた。

しかし直人は抱き寄せた腕を緩ますことなく、逆にその力を強くした。収まった体は細く、けれど確実に青年としての逞しさを持っていた。

 だから余計に赦せない。

「く、工藤常、――」

「常務じゃない」

 低い声で呟くと、秀二が口を噤んだ。

 同時にじたばたしていた体も動きを止め、静かになる。

「何で無理して笑う」

「、っ……」

 呟くと、小さく息を詰める音が聞こえた。

 それに構わず、溜息混じりに言葉を続ける。

「見てるこっちが辛くなる。無理して笑うな。言っただろ?肩の力を抜きなさいと」

 秀二の細い肩がぴくりと揺れる。

 直人は背に回した手をぽんぽんと跳ねさせると、言い含めるように言を紡いだ。

「…あのさ、悔しいならそう言いなさいよ。言っていいんだ。お前は現実としてプロじゃないか。確かに笑って受け流すってのは客相手に対する姿勢として褒められるべきものだと思うけどね、それって限度があるでしょう。さっきの学長の言葉は口にしていい範疇を超えていたと思うよ俺は。単なる侮辱にしか聞こえなかった。……そこに悪気が無いから、善意からの言葉だから何なのよ?お前が屈辱を感じた、それは即ち怒るべき事じゃないのか?」

 ロビーに落ちる声は低く、静か過ぎる空間に小さく反響する。

 秀二は黙ったまま動かない。直人は目を軽く伏せ、自嘲するように笑った。

「―― 秀二、悪意が無いから何でも言って良いなんて例外、世界の何処にもありゃしないよ。言葉は誰でもいくらでも、そりゃ自由に使う事ができる。だから、そんな例外は無い」

「――」


 人の発明した言葉は、使い方一つで命の行く末すら左右する。

 言葉を出すのはあまりに容易い、そして振り回されるそれは目に見えない。

 だから何かを紡ぎ出す以上、自由であるのと同等に人は責務を負うのだ。言葉が持つ威力がどれ程のものか、それは知らなかったで済むにはあまりに力を持ちすぎるのだから。


「俺、」

 掠れた声がロビーに落ちた。

 うん、と促すように相槌を打つと、小さく息が零れ落ちた。

「俺―― 別に学校出てないのが悪いとは思わねぇわけ」

 自販機のユニットがぶぅんと鳴り、廊下の奥に木霊して消える。

 そっと腕の戒めを解くが、秀二は動くことなく続けた。

「親が居ないのも別に悪いとは思わねぇの。そりゃ居た方がいいとは思うけど、居ないものは居ないんだし、別に悪いとは思わねぇんだ。悪く無いよな?」

「そうだな」、直人は頷く。「何も悪くない。」

 秀二は微かに頷くと、直人の肩に額を押しつけたまま続けた。

「信用ってのも学校行ったからとか親が居るからとかで得るもんじゃないと思うし、仕事して、んでそれで出た結果が信用になるんだと思ってんだ――けど」

 言葉を切り、吐き捨てるように言った。

「学長は結果を見てくれない」

 窓の外から落ちる日は、次第にその色を朱色に変えていく。

 もうすぐそれも、闇色に染まる。

「結果見ないで、ただ学歴無いから、親居ないからって、そればっか。そんで最後は可哀想にって目で俺のこと見る。…俺のどこが可哀想なんだよ!」


 やっと、その声が激昂した。

 ぶら下がっていた手が持ち上がり、直人のシャツを握りしめる。


「俺この大学の自販機、いちっども降参したことねぇよ!いっつも完璧に修理してんだ!ここの大学の生徒にラックの分解組み立て出来るかよ!?できねーだろやってみろよエラーコード全部解析できるかよできねーだろーが!人の上辺にある情報だけ見て判断すんな!俺がしてきた腕は技術は結果は全部無視かあのクソデブヅラタヌキーッ!!」

「…ヅラなんだ」

 がッと力強く直人のシャツを握りしめ、秀二は額を肩に埋めたまま、下向きにロビーに絶叫した。

 長年くすぶり続けていたらしい不満は凄まじい量の罵詈雑言に化け、うわぁあんとあたりに木霊する。


「すっきりした?」

 笑みを浮かべ、肩に埋まる茶髪にくしゃりと手を絡ませる。秀二はぜぇぜぇと肩で息をし、顔を上げることなく「少し」と言った。―― 声は、晴れた空のようだった。


 直人は暫くその髪を梳いていたが、やがて小さく「帰ろうか」と言った。

 途端秀二がぱっと顔を上げ、どこか必死な様子で直人を見つめる。

 そしてその口が先生、と開く前に、直人は「それでさぁ」―― そう言って。


「悪いけど、レポート採点するの待っててくれる?十分で終わるから」

 一緒にメシ食おう。

 そう言って微笑むと、秀二は一瞬ぽかんと目を丸くし。


 ―― 困ったような、嬉しいような…良く解らない笑みで「了解」と頷いた。



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