序章
父親が死んだのは俺が小学校に上がる前だった。
あの日は特に雨が酷くて、リビングの大きな窓は殴りつけられているような音を立てていた。梅雨に入ったばかり、六月の始め。例年より激しい雨だとテレビのニュースキャスターが言った通り、その日はその年一番の最高雨量を観測した。雨が酷く、外に出ることも適わなかった俺は不貞腐れてソファで眠っていて、父は俺にタオルケットをかけて買い物へ出かけた。不貞寝の割にぐっすり寝入っていた俺が、起きて最初に見たのは父の書置き。
【ちょっとかいものにいってきます。すぐかえるからいいこにしてなさいね】
外は大粒の雨を落とす曇天、寝起きでぼんやりとした視界にも部屋は冷たく薄暗かった。
カーテンを開け放ったガラス窓の景色はゆらゆらと波打って、流れる雨はまるで滝のようだった。りぃん、と電話が鳴った。
取った受話器、知らない男の声が名取さんの息子さんかと聞いた。
きょとりとして、肯定の言葉をつむげば男は「落ち着いて聞きなさい」と。
―――お父さんが―・・・
沢山の人が来た。そして連れて行かれた病院で聞いたのは、父の運転していた車が雨でスリップして川へ転落したとの事で、医者は直接の死因は溺死だと言っていた。まだやっと六歳になったばかりの俺には、彼らの言うことなど半分も理解できなくて、けれど薄暗い部屋で横たわる父の顔は違う人のように思えた。触れた手は氷のように冷たかった。
母は体が悪く、俺を産んですぐに死んでおり、親といえば俺には父しか居なかった。父は一人息子で母親は既に他界、父の父、つまりは俺の祖父は健在だったが高齢だった。それでも祖父は俺を引き取ると言ってくれ、近所の人に手伝って貰って葬式は滞りなく済んだ。壇上に飾られた父の写真は無機質に光っていた。
その間ずっと、雨が降り止むことは無かった。
祖父に引き取られてから小学校に入学し、高齢の祖父に代わって家事一切を俺が引き受けた。父の保険金と祖父の年金で当分は何とかなるはずだったが、俺が中学校へ入学し、そろそろ進路の話が始まるかという14の歳。家に帰ると祖父が居なかった。テーブルを見ると書き置きがみつかり、病院にいくからすぐ帰るとの旨が記されてあった。部屋が暗かった為電気を点けようと鞄を下ろすと、唐突にりぃんと電話が鳴った。
薄暗い部屋の中、振り仰いだ窓ガラスは雨が波打ち、ゆらゆらと、揺れて、いて。
――りぃん りぃぃん―――・・・
足を、滑らせたのだと。
白いベットで静かに眠る祖父の病室、眺めた窓に映るのは大粒の雨。その日は父が死んだ八年前と同じ、梅雨に入ったばかりの六月だった。
触れた祖父の手は、氷のように冷たかった。
『すぐ帰る』、そう書き置かれた約束は、この先一生決して守られることは無い。何故なら彼らは死に、俺は生きているからだ。生者と死者が交わる事は無く、二度と彼らと会うことは無い。
けれどどうやら俺は、それを現実だと思わなかったらしい。まだ会える、帰ってくるとどうしてか思ってしまって、通夜も葬式もまるで夢でも見ているような現実感のなさで通り過ぎ、気付けば泣くタイミングを逃してしまった。
タイミングというものは存外に大切だ。機会を失った俺は祖父が亡くなってから四年が過ぎた今でさえ、未だ彼らのために涙を流せずにいた。