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和さんが九州に帰ってから、ときどき、ボンヤリと携帯を眺めていることはあったが、兄ちゃんは変わらず仕事に励んだ。
そして、私は二年間の専門学校をなんとか卒業して、准看護婦の資格をとることが出来た。
准看護師としても二年が過ぎ、二十八歳になった私はついに正看護師の資格をとろうと決意し専門学校に通うことになった。
精神内科から、外科に移り救急の呼び出しも増えた私を心配した兄ちゃんは、「正看護師になるなら、病院を一度辞めて昼間に通え」と強行に主張したが、私は准看護師の時と同じように働きながら勉強することに決めていた。
昔の私なら、兄ちゃんが言うように楽な方法を、兄ちゃんを頼って選んだと思う。
変ったのは何か劇的なことがあったからではなく、ただ、普通に他の人と同じように働いてるだけで、少し大人になれたのだと思う。
私より苦労して頑張っている人は、いくらでもいる。私は、ただ、普通にみんなと働いているだけなのだ。きっと、そんな当たり前のことでも、私は成長出来た。
兄ちゃんはきっと、私よりも何倍も何倍も成長して、今では水道施設工事組合の理事まで遣らされるようになった。
人前に立つのが苦手な兄ちゃんは、理事長から話が来たときは即座に断ったのだが、ついには、鵜飼さんまで出てきて説得されたものだから、本当に嫌々引き受けた。
十歳のときから兄ちゃんを見ている私は、すっかり立派になった三十二歳の兄ちゃんを、みんなに見せたかった。
色々なことがあって、今でも兄ちゃんは大変だけど、この頃の兄ちゃんは、とても輝いていた。
学歴やお金のことを気にする人にはなんか分からなくても、兄ちゃんは、とてもカッコいいのだ。だから、いつまでも和さんの思い出を取り出しては、思い出に恋をしていないで、新しい恋をして欲しい。
兄ちゃんはメールアドレスさえ変えてしまった和さんが送ってくれたメールを、今でも大切に保存して夜中に読んでいるのを、私は知っていた。
笑ったり、泣きべそをかいたりしながらビールを飲む兄ちゃんの顔を見てると、イライラして背中を蹴りたくなる。
和さんが忘れられないなら、九州まで探しに行けばいいんだ。九州のどこか分からなければ、端から端まで探せばいいんだ。
それが出来ないなら、メールを全部消して忘れた方がいい。
兄ちゃんは、病気に気づいてあげられなかったことを後悔していた。そして、何も出来ない自分を責めていた。
そんな兄ちゃんを見ていると、恋なんて後始末がやっかいなご馳走のような気がしてならない。
美味しければ美味しいほど、食べ終わった食器や、使ったフライパンを片付けるのは大変なのだ。
兄ちゃんの恋は、いつだってお鍋についた焦げをとるのが大変で、洗う手さえも傷だらけになってしまう。
面倒臭がりの私には、とうてい出来ることじゃない。
だから、結婚なんてしないで一生兄ちゃんと暮らすのだろうと勝手に決めていた。
そんな私が思いもよらず恋をしたのは、看護学校の二年の時だった。
大雪で仕事が休みになってしまった兄ちゃんが、川田さんを連れて来たのだ。
「お誕生日おめでとう」
作業着を雪だらけにした川田さんは、大事そうにお腹にしまっていた小さな包みを取り出すと、恥かしそうに私の目の前に差し出した。
「どうしたんですか」
昔から知っている川田さんからの初めての誕生日プレゼントに、私は驚いてしまった。二十五歳のときも、二十九歳のときも何もくれなかったのに、三十歳の今年だけくれたのだ。
「まあ、たいしたもんじゃないから」
川田さんは雪で凍えた手をストーブに翳すと、照れ臭そうに私の顔も兄ちゃんの顔も見ない。
川田さんと兄ちゃんは、本当に良く似ている。照れ屋で仕事熱心で、お酒が大好き。
そんな二人がときおり家でお酒を飲んでいると、別人のようによく喋った。そのほとんどが仕事のことだが、ときおり女性の話もしていた。
川田さんは背の高い美人が好きで、兄ちゃんは気の強い女性が好きだと言っては、大笑いしていた。
背も大きくなく、ちょっと太めでノンビリタイプの私は、二人の好みのどちらにも当てはまらない。だから、二人が飲んで話しているのを聞いていると、少しだけ寂しい気持ちになり、お腹の肉を摘んだり、目に力をいれてみたりした。
プレゼントを渡しなれてないと見えて、川田さんはストーブの前から離れようとせず、ただ、「寒いね」とだけ言った。
そんな川田さんの背中を、拳で叩いた兄ちゃんは、
「川田がさ、お前に渡して欲しいって、大雪が降る中で俺に渡すんだぜ。こっちは現場の資材に必死でシートを被せているのにさ」
と面白そうに川田さんをからかう。
その姿が、和さんのことをからかわれていた兄ちゃんに似ていたから、昔のことを思い出して涙が出そうになった。
「どうしたんだよ」
川田さんから貰った包みを抱きしめて泣き出した私に、兄ちゃんも川田さんもビックリしてしまい、川田さんは「迷惑だった」と私から包みを取り返そうとした。
オロオロする川田さんと兄ちゃんの優しさが、泣き虫な私をもっと泣かせ、わんわん泣きながら包みを力いっぱい抱きしめた。
川田さんがくれたのは、私の小指には似合いそうもない細いピンキーリングだった。本当は薬指にするつもりで買ったのかもしれないけど、私の小指のサイズにぴったりだった。
「なんか、いいんじゃないか」
女性を褒める言葉など持ち合わせていない兄ちゃんは、それでも精一杯のお世辞で私と川田さんを励ました。
「どう? 気に入らなければしなくていいよ」
小指にはめた指輪を眺める私に、川田さんは気を使って言ってくれたが、似合うか似合わないかは別として、小さなリボンの飾られた指輪を、私はとても好きになった。
「ありがとう。仕事にはしていけないけど、大切にします」
生まれて初めて貰った指輪。私が抱きかかえてクシャクシャになってしまった包装紙に包まれた私の指輪。
指輪にもピアスにもネックレスにも興味がない私が、こんなにも喜ぶとは、自分でも呆れてしまう。
「そうだ、ケーキも買って来たから」
兄ちゃんは現場に行ったトラックの中に置いてあったケーキを取りに言った。
兄ちゃんは何かお祝いがあると、必ず駅前のケーキ屋さんで大きなデコレーションケーキを買ってくる。食べきれないほどのケーキは、あの時の同じイチゴのケーキに決まっていた。
和さんと円ちゃん、そして、私と兄ちゃんの四人で初めて食べたクリスマスケーキだ。
口いっぱいにクリームのついたイチゴをほうばり、目を細めて喜ぶ円ちゃんの笑顔を、兄ちゃんも忘れることが出来ないのだと思う。
だから、私の誕生日にも、入学祝にもイチゴのケーキを買ってくる。
誕生日のケーキを食べた日から、川田さんのことが気になり始めた私は、いままで、気にもしなかったことを、兄ちゃんに尋ねた。
夕食の茶碗を出しながら、食後のお茶を注ぎながら、テレビのチャンネルを変える時に、それとなく川田さんのことを尋ねるのだが、どう考えても、その聞き方は不自然だと思うのだが、兄ちゃんは、そんなことを気にせず、丁寧に答えてくれた。
川田さんが生まれたのは、ここから二時間ほどの地方都市で、大きな企業とその下請けで働く人がほとんだだった。
川田さんのご両親も、下請け企業でコツコツと働き川田さんと、五歳下の弟を育ててくれた。裕福ではなかったが、ご両親は大学に行きたいという川田さんを、喜んで送り出してくれたのだが、大学に入学するとすぐに、川田さんのお父さんは癌になり高額な治療の甲斐なく亡くなってしまった。
学費を払えないだけではなく、治療のために借りたお金を返すために川田さんは、大学を辞めて大工さんになったのだ。
そんな川田さんのことを、兄ちゃんは淡々と話してくれた。特に同情するでも、褒めるでもなく、あるがままに話してくれた。
「川田はさ、家を建てたくて建築科に行ってたから、大工になれたんだから、大学を出れなかったのは、そんなに後悔してないって言ってたよ。
ただ、田舎で弟と住んでる母親が、帰るたびに『大学も出してやれなくて』って言うのを聞くのが辛いらしいぜ」
そんなことを兄ちゃんは教えてくれた。
でも、その時はまだ、川田さんが好きだとは自分では気づいていなかった。
大雪の誕生日以来、川田さんは前よりも兄ちゃんを飲みに誘うことが増えて、私もときどき兄ちゃんのお供をした。
大学でも、あまりお酒が飲めなかった私は、きっとお酒が弱いのだろうと思っていたが、兄ちゃんや川田さんと飲むようになってから、案外、お酒が好きなことに気がついた。
ビールやチューハイは美味しいと思わないのに、日本酒と焼酎のお湯割りは美味しく飲める。美味し過ぎて、いつも兄ちゃんに迷惑をかけていた。
居酒屋のカウンターでは、いつも私を真中に座らせするの、話をするのは仕事のことばかりだ。あまり良く分からない話が目の前を飛び交うのも、気楽で落ち着けた。
そんな風にして三人で飲むようになってから、暫くしたクリスマスイブに夜勤中だった私に川田さんからメールが入った。
【メリークリスマス 俺、萌ちゃんのことが好きなんだ】
なんとなく感じてはいたが、あまりに真っ直ぐな告白に、ナースセンターの私は携帯を慌てて鞄の中に仕舞いなおしてしまった。
幸い、その日は急患もなく比較的穏やかな夜だったので、私はメールの文面を何度も頭の中で読み返し、なんて返信をしようか迷い続けた。
勤務が終わり、病院を出ても私はメールの返信が出来ずに家までの道を何度も携帯を開いては閉じた。
家に帰ると仕事に行く準備をしていた兄ちゃんが、いつもと変らぬ様子で「お帰り」と言ってくれたが、その日は「お帰り」さえ特別な言葉に聞こえてしまった。
今までの恋で、「好きだ」と告白されたことなんてなかった私には、本当に特別な日なのだ。
夜勤明けで眠たいはずなのに、私はベットに横にもならずに携帯を睨んでいた。
なんて返信すれば?
迷いに迷って、何度も打ち直して送信したのは、「私も好きです」という、川田さんに負けないほどの直球だった。
それからも、私たちは遠慮する兄ちゃんを誘って三人で飲んだり、カラオケに行ったりした。三人とも歌が苦手なのに、居酒屋の後にはカラオケに行く習慣が出来ていた、最初の歌はいつも私の【未来予想図】に決まっていた。
休みの日には二人でドライブをしたり映画も見に行った。そして、春には川田さんのお父さんのお墓の前で結婚することを報告した。
私と川田さんの結婚を、兄ちゃんは心から喜んでくれた。
「おめでとう。お前が選んだ相手なら、誰だって反対しないけど、川田なら大賛成だ」
兄ちゃんはポケットに手を入れたまま、私と川田さんの報告に頷いていた。