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〔8〕

〔8〕


 和さんが何者かに恨みをかい、執拗な嫌がらせを受けるなんて信じられない私は、悪口を言う花屋のホームページや、和さんの店のホームページを丹念に読んで見た。

 そして、休みの日には教科書を持って和さんの店の見える喫茶店で様子を伺ったりしたが、どうしても、和さんが言うようなことが起こっているとは思えなかった。

 店のホームページにエッチなサイトから書き込みがあるのも、珍しいことではなく、単に客を呼び込むための悪質な宣伝文句にしか読めず、それが、和さんへの悪口には思えなかった。悪口を書いているという花屋のホームページは、いたって普通で、和さんに関する内容など見当たらない。

 店の前を通る人も、花を覗いたりはしていたが、不審な人物と思える人などいなかった。

 兄も私と同じように和さんの言ったことを調べては、首を傾げるばかりだ。

 そして、私はある疑問に辿り着いた。

【総合失調症】。

 私が勤める精神内科には、多くの患者がその病気で訪れる。心の病というと鬱病が有名だが、実は総合失調症で苦しむ人も少なくない。その症状は様々で、和さんの場合は【被害妄想】に似た症状に思えた。

「兄ちゃん、一度和さんを病院に連れてきた方いいよ」

 和さんのことで、兄ちゃんまで痩せてきたが、私は逆に太った。

「うん、言ってみるよ」

 私の説明に納得した兄ちゃんは、溜息をつきながらそう言ったが、やはり精神内科に和さんを連れて行くのは気が進まないようだった。

 まだまだ、精神内科に対する偏見や誤解は多く、行くことを拒む人や家族は多い。私だって、病院で仕事をするまでは、抵抗があった。

 兄ちゃんは和さんに「一度病院に行って話を聞いて貰おう」と何度も説得したが、和さんは「本当に誰かに狙われているんだから、病院に行っても仕方ない」と言い張るばかりで、私の話も、兄ちゃんの話しも聞こうとしない。

 確かに、円ちゃんの学校の話や、兄の仕事の話し、それに店の仕入れの話などをするときの和さんは以前と変らない気がする。

 しかし、私が和さんの病気を確信したのは、夕食時に和さんが雑誌を持って飛び込んできた時だった。

「見て、ここに私のことが書いてあるの」

 和さんが開いたページは、働く女性の性に関する記事だった。そこには、和さんに関連する内容などなにもなく、ただ、談話として乗せていた匿名の女性が、和さんと同じ年というだけだ。

 兄ちゃんは「お前のことなんか誰も気にしちゃいねえよ」と、その雑誌を床に叩きつけた。

 兄ちゃんは悔しかったのだ。自分の話を聞いてくれない和さんに、悔しくて悔しくて仕方がなかったのだ。

 でも、それが病気なのだから仕方がないのだが、兄ちゃんにはそんなことで納得出来るはずがない。

「和さん、和さんの言っていることが本当でも、和さんの心は凄く疲れてるから、一度、うちの病院に行こう。ねっ」

 雑誌を拾いながら泣きじゃくる和さんの姿は、私が知っている元気で明るい和さんとは別人にさえ思えた。

 結局、和さんは病院に来ることもなく、私や兄ちゃんを避けるようになったが、私にはそれ以上何も出来なかった。ただ、避けられても円ちゃんのことを心配し続ける兄ちゃんの気持ちが切なかった。

 和さんが倒れたのを知らせて来たのは、大工の川田さんだった。

 川田さんは大学の建築科を中退して、鵜飼さんの会社に入った。直接本人から聞いたわけではなかったが、お父さんが長く入院してして、学費を払えなくなったらしい。

 兄ちゃんとは年齢も同じだったので、ときおり仕事が終わると二人で飲みに行っていた。

 朝食を食べているところに現れた川田さんは、兄ちゃんを責めるように言った。

「和さんが入院したらしいぞ、知ってるのか」

 もちろん、そんなことなど知らない兄ちゃんは、箸を持ったまま川田さんに聞き返した。

「本当か。いつだ」

「一昨日、店で倒れて救急車で運ばれたらしい。救急車を呼んでくれたうどん屋の婆さんは、『すごく痩せたらから、危ないと思ったんだよ』って言ってたぞ」

 和さんが倒れるまで何もしなかった兄ちゃんを、川田さんは何も知らずに責めた。川田さんも、和さんのことが好きなのは、女の私にはなんとなく分かってしまった。

 兄ちゃんは川田さんの軽トラックに乗ると、そのまま病院に行ってしまい。私は心配しながらも自分が勤める病院に向かった。

 私は精神内科の看護助手でありながら、憔悴して倒れることまで予想しなかった自分を責めた。誰にも理解されず、部屋の中で見えない影に怯える和さんのことを思うと、申し訳なくて涙が止まらなかった。

 兄ちゃんも私も、和さんのことが大好きだったのに、何もすることが出来ず、ただ、和さんが元の和さんになるのを待ってるばかりだった。

 和さんが入院したのは精神内科のない病院で、点滴と安静をさせただけで退院させてしまった。

 しかし、退院の時に来た和さんのご両親は、和さんと円ちゃんのことを心配して、九州の故郷に連れて帰ることにしたのだ。

 兄ちゃんは、ご両親に何度も「すいません」と頭を下げたが、ご両親は兄ちゃんに優しい言葉を返してはくれなかった。

 和さんが九州に帰る前日に、私はお好み焼きを食べながら兄ちゃんと話をした。

「止めなくていいの」

 病気になってしまった和さんにとって、何が一番良い方法なのかは分からない。

「あっちは、海がきれいなんだってな。和が良く言ってたよ。いつか、俺に本当の海を見せてくれるってさ。

 この辺の海は本物じゃないらしいぜ。きっと、本物の海を見たら、元気になるよな。円ちゃんも、真っ黒に日焼けしてさ」

 兄ちゃんは青海苔を歯に付けたまま、笑ったのは、昨日も一昨日も私に隠れて泣いたからだと思う。

 泣いて、泣いて、涙がなくなるまで泣いたのだと思う。

 兄ちゃんのことだから、何も気づかず、何も出来なかった自分を責めて自分の拳で自分の頬を殴ったりもしたと思う。

「安心できる場所で生活するのも、いい治療なんだよ。きっと、治ったら、帰ってくるよ」

 私も青海苔のついた歯を見せて笑った。

 


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