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〔7〕

〔7〕


 季節はあっという間に、春から夏になり、秋が終って冬がまた来た。そして、一年は繰り返し、また春になる。

 病院を辞めた山内さんからは、夏頃から連絡をしなくなり「さよなら」も言わないままに終ってしまった。

 特に恋に懲りた訳ではなかったが、私はなんとなく誰も好きになることもなく、看護助手の仕事と四月から入学することになった定時制の看護学校のことで気忙しく毎日を過ごしていた。

 兄ちゃんと和さんは、いつ結婚するのだろうと周りは気にしていたが、本人たちは「しばらくは、円ちゃんと二人の暮らしがいいのさ」と急ぐ気配も焦る気配もない。

 でも、兄ちゃんが円ちゃんの父親になるのを嫌がっているのでも、心配してるのでもなく、和さんがしたいようにさせているようだった。

 子供がいて年上の和さんは、ときどき兄ちゃんに「私じゃなくても」と、本心から言っていた。

 最初は真剣に怒って「そんなこと、俺が決めるんだ」って言っていたが、最後は笑って聞き流していた。

 きっと、時間はかかっても二人はいつか自然に暮らし始めるのだろうと、私はぼんやりと予感していた。

 しかし、感の悪い私の予感は、簡単には当たらない。

 私は小児病棟から精神内科に異動になり、カルテを運んだりする仕事は変らなかったが、患者さんの対応には戸惑うことばかりだった。

 どちからと言えば、楽天的な私は、こんなにも心を病んだ人が居ることにビックリしたり、色んな症状や病名があることにも驚いた。

 病院は薬物療法から、カウンセリングを主体にする治療に変ろうとしていて、医師も今までとは違う対応に戸惑い、看護師や私のような看護助手に苛立ちをぶつける人もいた。

 最初に配属されたのが小児科だった私は、将来も小児科の看護師になりたいと思っていたので、症状の見えない患者さんと、苛立つ医師に、めげていた。

 せっかく入った学校でも、昼間のことが頭から離れず、本当に辞めてしまおうかと悩んだ。

 そのことを思い切って兄ちゃんに相談したのは、夏の終わりだった。

 私の作った夕食を食べ終わり、興味なさそうにテレビを見ていた兄ちゃんに言った。

「全然、勉強についていけないんだよね。仕事も難しくなったしさ」

 どう考えても面白くないお笑い番組を見ていた兄ちゃんは、タバコに火をつけて、

「難しい仕事だもんな。俺は勉強が嫌いだから、学校なんて行く気にならねえよ」

 と、珍しく私の相談を上の空で答えた。

「私だって勉強は嫌いだな。やっぱり辞めようかな」

 本当に私には根性が無い。

 そんな根性のない私が、どうにか生きてこれたのは、全部兄ちゃんのお陰だ。

 母親が亡くなり、寂しくて仕方がない夜も、兄ちゃんは部屋の外から話をしてくれた。昆虫の話や犬の話し、それにかなり適当な昔話も聞かせてくれた。

 私が「こっちでお話して」と部屋の中から呼んでも、兄ちゃんは絶対に私の部屋には入らず、廊下から話をしてくれた。

 お父さんが死んでも、生活のことを心配しないですんだのも、兄ちゃんが家にいたからだ。

 面倒なことは全部兄ちゃんがしてくれて、私はお父さんが居た頃と変らず。ご飯だけ作っていればよかった。

 もしも、十七歳の私が一人で生きろと言われたら、きっと泣いてばかりで、死んでしまったのではないかとさえ思っている。

「最近、和さん来ないね」

 私は話題を変えた。和さんだったら上手に作れる肉ジャガが、私が作ると、何か美味しくない。

「来たくないみたいだ」

 私は自分のことばかりで、兄ちゃんの変化にまったく気づかなかった。

「どうしてよ」

 私はテレビのスイッチを切って、兄ちゃんを問い詰めた。私は、いつだって兄ちゃんを頼っている。どうにもならないことでも、気がつくと兄ちゃんに話をしていた。

 それなのに、兄ちゃんは和さんのことさえ、何も話してくれないなんて、酷すぎる。

 急にテレビを切られた兄ちゃんは、それでも黒くなった画面から目を離そうとはせず、「わかんねえんだよ」と、頭を掻いた。

「分かんないって、ちゃんと聞いたの」

 兄ちゃんは何も聞かない人だ。私が高校の時に先輩に苛められて部活を辞めた時も「そっか」としか言わなかった。

 就職が決まらずに焦って「私なんて何も出来ないんだよ」と怒鳴ってしまった時も、ただ笑っているだけだった。

 それが兄ちゃんの優しさなのは分かっている。でも、和さんのことは別だと思う。

 私なんかがした恋とは比べものにならないほど、兄ちゃんは和さんを愛していたはずだ。だったら、何も聞かないで笑っているなんて、そんな優しさなんていらない。

「仕方ないだろう。嫌われたんだから」

 兄ちゃんは、自分がなんで嫌われたのか、他に誰か好きになったのかさえも、知ろうとしなかった。知っても仕方がないことだから知らないで、兄ちゃんの気が済んでも、私の納得出来ない。

 私は裏切られた気持ちでいっぱいになり、兄ちゃんに箸を投げつけていた。

「危ないだろう」

 兄ちゃんは目を赤くしても笑っていた。

 翌日、仕事が終わった私は花屋さんを訪ねたが、もう店は閉まっていた。

 店の前に立ち、和さんの携帯に電話をしたが呼出がなり留守番電話になってしまう。

 何度が電話してみたが、やっぱり電話に和さんは出なかった。

 それから、毎日、仕事帰りに花屋さんに寄ったが、和さんに会えたのは、秋も終わり冬になっていた。

 店先の花を片付けている和さんの顔色は、ちょっとの間に青白く不健康そうになっていた。

「こんにちは」

 あんなに文句を言ってやろうと思っていた私は、和さんの顔を見た途端に、怒りよりも不安になってしまった。

「あ、萌ちゃん。元気だった」

 私の健康を気遣う必要なんてないぐらい、和さんは痩せていた。

「和さん、どこか悪いんですか」

 力なく笑う和さんに、私は笑顔さえ忘れてしまった。

「大丈夫、ちょっとここじゃ」

 小声になった和さんは、私を駅前のコーヒーショップで待っているように言うと、店の片付けを続けた。

 コーヒーショップで待っていると、和さんは、キャップを目深に被り、辺りを気にするように入って来た。

「ごめんね、店も見張られているし、尾行もされているから」

 思いもよらない告白に、私は混乱して店の中を見渡したが、風体の悪い人は見当たらず、買い物帰りの主婦と仕事帰りのサラリーマンが数人いるだけだった。

「なんで、そんなことになったんですか」

 和さんに釣られ、私も小声で尋ねた。

「分からないの。前の旦那から電話があってから、変なことが続いて、調べてみたの」

 和さんの目は完全に怯えていた。

 和さんの前のご主人は、円ちゃんの誕生日に何かプレゼントしたいと言って電話をしてきたそうだ。

 今までは定職にもつかずバイトや派遣をしていて余裕がなかったが、やっと仕事が落ち着いたから、今までの分まで何かしたいという申し出だった。

「せっかく円も忘れてるのに、今更ね」

 和さんは、その申出を「気持ちだけ頂くは」と言って断ったそうだ。すると、元旦那さんは、和さんとの復縁まで匂わすようなことを言い、勿論、和さんは笑って断った。

 すると、翌日にお店のホームページに、いやらしい書き込みがあり、クリックするとエロサイトに繋がるように仕組まれていたそうだ。

 最初は、ただの悪戯か、サイト業者の宣伝だと思ったのだが、その後すぐに元旦那からメールが来て「和が幸せなら邪魔はしないよ」と意味ありげに言ってきたそうだ。

 それから、元旦那からはメールも電話もないのだが、ホームページへの書き込みは無くならず、店を出ると、三人組みの男に後をつけられたりするようになったらしい。

 そして、ふと見た別の花屋のホームページに自分の悪口が書かれているのを発見してしまった。

 もしも、円ちゃんに危害でも及んだらと心配になった和さんは、思い切って元旦那に、そのことを相談したそうだ。

「最初は彼を疑っていたから」

 和さんはコーヒーカップをいじりながら、一口も飲もうとしない。

 しかし、元旦那は和さんのことを心配するどころか、「そんな訳ないだろう」と笑うばかりだった。

 私は和さんの話を鳥肌を立てながら聞き終わると、問い詰めるように尋ねた。

「なんで、兄ちゃんに相談しなかったの。兄ちゃんを疑ったの」

 和さんは私の問いに大きく首を振り、

「剛さんを疑ったことなんかないわ。ただ、私の問題に剛さんを巻き込みたくなかったの」

 そう言った言葉も小声だった。

 家に帰った私は、迷った挙句に兄ちゃんにそのことを伝えた。

「いったい何が起こったんだ。ちゃんと説明しろよ」

 兄ちゃんは私の肩を掴んで問い詰めるが、私だって何がなんだか分からない。

「ちょっと、行ってくる」

 兄ちゃんは、怒りながら家を出て行った。

 その日、兄ちゃんの帰りを眠らずに待っていたが、兄ちゃんは帰ってこなかった。もしかしたら、このまま帰って来ないのじゃないかと心配になり、何度も携帯を手にしたが、返って来なくても、兄ちゃんが幸せになるなら仕方ないんだと、自分に言い聞かせて朝を迎えた。

 いつもと同じように兄ちゃんの朝ご飯とお弁当を準備してると、兄ちゃんが帰って来た。

 ポケットに手を入れて丸めた背中は、疲れきっていた。

「どうだった」

 私はお味噌汁をテーブルに乗せると、座り込む兄ちゃんに尋ねた。

「駄目だ。なんで、あんなにボロボロになるまで何も言ってくれなかたんだ」

 悔しそうに悲しそうに背中を震わす兄ちゃんを見たのは初めてだった。どんなに辛いことがあっても、兄ちゃんは平気な顔をしていた。

 涙を流しても決して下を向いたりしなかった。でも、その時だけは、下を向いたまま兄ちゃんは涙を流した。



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