〔6〕
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「看護師になろうと思うんだ」
私はギブスがとれた日に兄ちゃんに宣言した。兄ちゃんは予想以上に私の宣言を喜んでくれて、すぐに「どうすればいいんだ」と、何も調べていない私にいろいろと尋ねる。
「私も分かんないから、明日、病院に行って聞いてみるよ」
インターネットでも調べることは出来たんだろうけど、私は、あの看護婦さんに聞きたかった。私の気持ちを聞いて欲しかった。
翌日、リハビリを終えた私は、待合室で忙しそうな看護婦さんを見つけ、「私も看護師になりたんです」と、早口で言った。
看護婦さんは貴重な休憩時間に私にいろんな話をしてくれた。勤務時間の不規則なことや、神経をすり減らす薬のこと。
そして、最後に「本当にやる気があるなら、看護助手から始めなさい」と教えてくれた。
その話を兄ちゃんにすると、ちょっと顔を曇らせて「それでいいのか」と不満そうだった。
兄ちゃんは、私を看護学校に入れるつもりでお金のことまで考えていたようだ。
でも、私は今度は自分の力だけで看護師になれる道が見つかったことがとても嬉しかった。
春から看護助手として働き始めた私の毎日は、目が回るほど忙しいとはこのことだと思うほど充実していた。もちろん、嫌なことや辛いことは居酒屋の時と同じぐらいあるのだが、居酒屋の時と違うのは、看護師になるという夢があることだった。
挫けそうなほど、看護師という仕事は大変で、「本当に出来るかな」と毎日のように自分に問いかける。でも、夢があるだけで幸せだと思える。それが、楽しいのだ。
そんな忙しい日々は、あっという間に過ぎていき、まだまだ仕事には慣れないけど、冬の初めに私は恋をした。
恋にうつつを抜かしていられるほど、私に余裕などないはずなのに、私は人を好きになってしまう。
その人は私と同じ時期に入って来たレントゲン技師で、いくつもの病院を転々とするタイプの人だった。
「嫌なところで我慢して働くこともないしね」
二十九歳のその人は、当たり前のようにそう言っては、コーヒーを飲んで笑っていた。
「山内さんは、資格があるから」
私は、そんな風に言っていたが、簡単に職場を変える山内さんを内心軽蔑していたはずなのだ。
それが、急に好きだと思ってしまったのは、医療行為も出来ない看護助手から、早く看護師にならなければと焦っているときだった。
休憩室でコーヒーを飲んでいる山内さんに、
「来年には准看護師になるのに、定時制二年行くつもりなんですけど、こんなんじゃ、出来るかどうか不安です。やっぱり資格は必要だし」そんな弱音を吐いた。
すると、山内さんは「看護助手じゃだめなの」と、今までだれも言わなかった疑問を私に向けた。
「俺はレントゲンの仕事が好きだから資格をとったけど、看護助手の仕事が楽しければ、それでいいんじゃない。
看護助手が看護師になれない人の仕事ってわけじゃないでしょう。
俺は患者さんが喜ぶ顔が生き甲斐な訳じゃなくて、いいレントゲン写真をとるのが好きなんだ。
俺の写真で病気が見つかるか見つからないかが決まると思うと、緊張もするけど、楽しいんだよ」
山内さんの言っていることは、不謹慎な気もしないでもなかったけど、なんだかとても気持ちが楽になった。
そう思って山内さんの話を聞いていると、兄ちゃんとは違う暖かさが山内さんにはあるような気がした。
例えるなら、兄ちゃんの心の中が燃える暖炉なら、山内さんの心の中は足湯のような暖かさだ。
最初のデートに誘ったのは私だった。デート自体経験が少ない上に、自分から誘うのなんて初めてだった。
二十四歳の女性がデートに誘うなら、いったいどこがいいのだろう。本屋に行き、インターネットで検索した結果、私は思い切って洒落たフレンチレストランに山内さんを誘った。
「友達がとても美味しいって言うから、一度行ってみたいんですよ。良かったら一緒に行きませんか」
もちろん洒落たフレンチに行く友人などいない。そんな私の努力を山内さんはあっさりと断った。
「似合わないだろう、フレンチなんて。だったら、ラーメンが美味しい居酒屋に行こうよ」
そして、私と山内さんは居酒屋で〆のラーメンを食べて、ホテルに入った。
居酒屋でラーメンを食べるのも初めてだったが、ホテルに入るのも初めてで、男性に抱かれるのも初めてという、初物づくしの夜に私は、やっぱり泣いた。
二十四歳の女に泣かれた山内さんは、困り果てて何も言えなくなっていた。
それから、私は今まで以上に病院に行くのが楽しくて、楽しくて浮かれまくった。いい加減で適当だが、山内さんは優しくしてくれた。
暇さえあれば山内さんとホテルに行き、いろんな話をした。仕事の話や子供の頃の話し、そして、看護師の夢。
こんなに人に自分のことを話したのは初めてだった。
でも、愉快なことは続かない。
半年が過ぎた春に、山内さんは病院を辞めてしまった。
ホテルの天井を見ながら、私に相談もしないで病院を辞めることにした山内さんが、急に遠い人に感じた。
「何があったの」
私は責める口調にならないように出来るだけ落ち着いて尋ねた。
「なんか違うんだよね。あの病院」
山内さんは、それだけ答えると、また私の上に重なって大きくない胸に顔を埋めた。
一ヵ月後に山内さんは誰にも声をかけて貰えずに病院を去り、それから、私との連絡も少なくなった。
私は山内さんからのメールばかりが気になって、仕事も疎かになり、私を病院に入れてくれた看護婦さんからも、何度も叱られ、病院を辞めようと悩んだ。
そんな私の様子に兄ちゃんは、心配そうな顔で「なんかあったか」と何回も聞いてきたが、山内さんのことは、兄ちゃんに言いたくなかった。
きっと、兄ちゃんは、山内さんを悪く言うと思っていたから。
「兄ちゃん、兄ちゃんは、和さんのどこが好き」
私はビールを飲みながらニュースを見ていた兄ちゃんに聞いてみた。
「どこが好きななんて忘れたな」
兄ちゃんはテレビから眼を逸らさずに、照れた。
「和さんは、美人だし性格もいいし、頑張り屋だし、料理も上手だから、好きなとこだらけだね」
私は寝転びながら、山内さんのことを考えた。
「別に、そんなんで好きになったんじゃないと思う。前に好きになった人は我侭で自分勝手で子供っぽくて、頼りない人だったけど、たまらなく好きだったんだから」
兄ちゃんの言った前に好きだった人が恵さんなのはすぐに分かった。
「そんな人を好きになって後悔しなかった」
「後悔してもしかたないだろう、好きになったもんを。それに、あの人がいたから、和をもっと愛せるようになったと思ってんだ。
人を愛するのも、経験がないと上手く愛せないんじゃないかなってさ」
兄ちゃんは顔を真っ赤にしながらも、私のために一生懸命話をしてくれた。
「そうなんだ」
「そうなんだと思う。だから、誰を好きになってもいいんじゃねえか」
恋愛経験も少ないくせに、兄ちゃんは偉そうに言うものだから、私まで恥かしくなってしまった。