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 兄ちゃんと和さんの交際は、仕事仲間の間でも評判になり、私の耳にも「本当の親子みたいに公園にいたぜ」とか、「あんなに幸せそうな剛さんをみたのは初めてだ」なんて聞こえてきた。

 いつか二人は結婚するんだろうなと、私も覚悟を決めた。

 そして、私の得意料理であるカレーをお代わりする兄ちゃんに、私が思い切って言ったのは、大学三年の夏のことだった。

「兄ちゃん、私、家を出て独りで暮そうと思うんだ」

 突然のことに、兄ちゃんはカレーを口に入れたまま固まってしまった。

「ここは萌の家なんだ。俺は十歳の時からずっと居候させてもらってる。だから、お前が家を出るなら、俺もこの家にはいられない。

 いつか、お前が結婚して、この家に旦那さんと住むのが筋だからな」

兄ちゃんの『居候』という言葉が、私は無性に頭に来た。

「兄ちゃんは、居候さんなの? 十歳の時からずっと、そう思ってたの」

 悔しくて、また泣いた。初めて兄ちゃんを男らしくないと思った。

「おっさんや、萌は家族だと思ってる。俺を捨てたクソ親父なんてなんとも思ってない。でも、やっぱり、この家は神楽の家で、俺は下平だから」

 兄ちゃんの言いたい事は、私にだって分かる。分かるけど、そんなのは男らしくない。

「じゃあ、兄ちゃんが出て行って和さんと暮らしなよ。私はここで一人で暮らすから」

 そんなこと出来ないのは分かっている。ここには作業場もあり、古い一軒家に私が一人で住めるはずなんてないのだ。

 私は無茶苦茶なことを言いながら、無茶苦茶に泣いた。

 そんな私を、兄ちゃんは困った顔でただ見ているだけだった。

 いつものことだが、無茶苦茶に泣くとすっかり忘れてしまう私は、翌日には残ったカレーを食べて大学の進路指導の相談に行く。そのまた翌日も行くが、私が希望する仕事はなかなか見つからない。

 周りの友達は手当たり次第に企業を訪問してはリクルートスーツに汗を滲み込ませていたが、私はなんとしても、楽しいと思える仕事を探したかった。

 友達は、「そんなこと言っていられないよ」と、私の意見を笑っていたが、兄ちゃんや和さんを見ていると、どうしても負けたくなかったのだ。

 結局、私の一人暮らし計画はなかったことのように時間は過ぎ、ついに大学四年になってしまった。

 和さんは、ときどき円ちゃんを連れて家に遊びに来ては、美味しい料理を作ってくれた。最初は自分の居場所がなくなるような不安があったが、円ちゃんの嬉しそうな顔を見ていたら、そんな自分が恥かしくなった。

 まるで、赤ちゃんにお母さんをとられると心配する姉のようだ。

 和さんは、コーヒーを飲みながら、よく私の相談に乗ってくれた。

「私は萌ちゃんの歳にはもう円がいたから、何になりたいなんて考える余裕なんてなかったけど、考える余裕があるのも大変だよね」

 私と九歳しか違わないのに、和さんの言葉は素直に私の耳から心に伝わった。もちろん「そうかな」と思うときもあって、反発もする気持ちにもなるけど、それでも、真剣に私のことを考えてくれている人の言葉は、自然と心に残るものだ。

 もしも、私に母親がいたが、きっと喧嘩して、やっぱり泣いて、それでもお母さんに言われたことは忘れないんだと思う。

 そんな忘れない言葉が、私の隣でほうじ茶を飲む円ちゃんにはいっぱいあって、私の引出には空っぽなんだと思うと、円ちゃんの心の中から少し分けて欲しいと思ってしまう。

 インターネットやリクルート誌を眺めているうちに時間はどんどん過ぎて行く。そして、気がついたら何処にも面接に行かないまま私は遂に大学を卒業してしまった。

 兄ちゃんが行かせてくれた大学で、私は何を学んだんだろう。

 卒業式の帰りに和さんの花屋によって、そんなことを言うと、和さんは私の卒業証書を幸せそうな顔で、隣にいた円ちゃんにも見せた。

「このペラペラの紙をもらうだけで、兄ちゃんに、ずいぶんお金を使わせちゃったな」

 私は「なんて書いてあるの」と尋ねる円ちゃんの髪に飾ったリボンを触りながら呟いた。

 そのリボンは、花束に使うためのリボンで、和さんは、よくそのリボンを使って円ちゃんと遊んでいた。

 髪を飾ったり、動物を作ったり、本当に和さんは器用な人だった。

「このペラペラの紙を、私も円にプレゼントしたいな。円にとってなんの価値もなくてもね。

 だから、卒業証書を持って嬉しそうに帰ってあげてね。きっと待ってるから」

 和さんの言葉に押し出されて、私は家までの道で笑顔の練習をした。このペラペラの紙を待っていてくれる兄ちゃんに、どんな顔でお礼を言おう。そんなことを考えながら。

 家に着いた私を、兄ちゃんは作業場で仕事をしながら待っていてくれた。

「卒業おめでとう」

 兄ちゃんは、やっぱりポケットに手を入れて下を向いたまま早口でお祝いの言葉をいい、私は、そんな兄ちゃんの顔を見たら、涙が零れて、「ごめんね」と思ってもいなかった言葉が口から飛び出した。

「なんだ、卒業出来なかったのか」

 私の「ごめんね」を勘違いした兄ちゃんは、びっくりして私の肩を掴んだ。

「ううん、違うよ。せっかく兄ちゃんが大学に行かせてくれたのに、全然勉強もしなかったし、就職も出来なかった。ごめんね」

 私は卒業証書を兄ちゃんに渡すと、そのまま兄ちゃんの胸で泣いた。

「楽しいこともあったか、大学は」

 兄ちゃんは遠慮がちに私の背中を叩きながら、そんなことを聞いたと思う。

「友達も出来たし、楽しかったよ」

 本当にそう思っている。勉強はしなかったが、大学で知り合った友達は、とてもいい人ばかりで、友達の家でお酒を飲んで話したり、みんなでドライブにも行った。

 恋人は出来なかったけど、合コンも楽しかった。

 楽しくて笑っていると、ときおり、兄ちゃんのことを思い出して悲しくもなったりした。

「だったら、良かったじゃないか。楽しかったんだろう」

 兄ちゃんは、まだ泣いている私から離れると、改めて卒業証書を見つめ、「良かったな」と上を向いて言ってくれた。

 あの時、兄ちゃんが上を向いていたのは涙が零れないようにだと思っていたけど、もしかしたら、天国のお父さんやお母さん、そして兄ちゃんのお母さんに報告していたのかもしれない。

 大学を卒業した私は、居酒屋でバイトを始めた。

 兄ちゃんは予想通り大反対だった。

 和さんも花屋で働くことを勧めてくれたが、二人とまったく違うことをしたいと思った。

 夕方の四時から深夜の二時まで、私はクタクタになって働いた。居酒屋で働こうと思ったのは、人見知りな私への挑戦でもあり、クタクタに働くことへの憧れでもあった。

 でも、そんな小娘の憧れで務まるほど、仕事は甘くない。

 お客に文句を言われ、先輩に怒られ、店長を困らせる毎日は、本当に死にたくなるほど大変だった。

 休みの日に、兄ちゃんにそんな泣き言いうと、兄ちゃんは、

「楽しくないのか」と、おかしな聞き方をする。

 それは、和さんと出会ってからの兄ちゃんの口癖だ。

 和さんに出会うまでの兄ちゃんは、きっと楽しいとか、楽しくないとか考えたこともなくて、奥歯を噛み締めて生きてきたんだと思う。それが、生きることなのだと無意識に信じていた。

 不良だったときも、兄ちゃんは決して楽しそうじゃなかった。

 恵さんと、悲しい恋をしていたときの兄ちゃんは、本当に生きているのが辛そうだった。

「兄ちゃんは、仕事楽しいの」

 寒い冬も、暑い夏も外で仕事をして、ろくに休みもない兄ちゃんに反対に聞いてみた。

「そうだな、嫌いじゃないな。俺は頭も悪いから、身体を使っている方がいいんだ」

 兄ちゃんは真剣に考えて、私にそう教えてくれた。

 結局、私は居酒屋を半年で辞めてしまい、兄ちゃんに恥かしいと思ったが、兄ちゃんは「そっか」と叱ることも、慰めることもしなかった。

 きっと、あの時「根性がない」とか、「向いてなかったんだよ」なんて言われていたら、私は何も仕事をしなかったと思う。

「そっか」としか言ってもらえなかったから、私は自分で考えるしかなかったんだ。一生懸命、楽しいことを探さなきゃならなくなったんだと思う。

 間抜けな私は、どうしたら自分が楽しいと思える仕事が見つかるのだろうと、街を歩いた。

 街を歩いて働いている人の顔を観察した。きっと、楽しい仕事をしている人の顔は、そんな顔をしているに違いないと思ったのだ。

 いろんな顔があった。怒ってる顔、笑ってる顔、泣きそうな顔、困った顔。本当にいろんな顔があった。

 その中で一番印象に残ったのは、【してない顔】だった。

 笑っても、怒っても、泣いてもいない、何もしてない顔。そして自分の顔を駅のトイレで確認した。

「大丈夫、まだ、してない顔じゃない」

 鏡に向かって自分に言うと、とにかく走りたくなってトイレから階段を駆け上がる途中で、私は転んだ。

 足を挫いて家に帰った私を、免許をとった俊之くんが病院まで運んでくれた。

「折れてないといいですね。入院とかしたら大変っすよ」

 十五歳で兄ちゃんの処に来た俊之くんも、二十歳になり、来年には結婚すると言うのだ。

自分だけがちっとも成長していないようで、足の痛みが増した気がした。

 私の足は太いだけで、頑丈ではなく、靭帯が切れていた。入院まではいかなかったが、ギブスをして松葉杖をつくはめになった。

 松葉杖をもって病院の待合室で、私は「いったいなにしてるんだ」と自分に呆れてしまった。

 そんな私に看護婦さんは「大丈夫ですよ。すぐに良くなって元気に走れますから」とか、「ギブスがとれたらリハビリよ」なんて励ましたり、怒ったりしながら、必死で病院の中を走り回っていた。

 そんな看護婦さんの中でも、一番怖そうな中年の看護婦さんに、

「楽しいですか」と恐る恐る聞いてみると、その人は「あなたもやってみる」と、今まで見たことのない笑顔で、私を誘ってくれたのだ。

「私でも出来ますか」

「それは、分からないわ。でも、やってみれば分かるは、楽しいか楽しくないか」

 その笑顔に私は「はい」と答えていた。


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