〔3〕
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兄ちゃんとその人が、どんな別れ方をしたかしらないけど、冬になっても、兄ちゃんは携帯を片ときも手放さなかった。
何しろ、防水でもないのに風呂まで持って行き、直ぐに買い換えたくらい、兄ちゃんは鵜飼さんが言ったように未練を背負ってた。
そんな兄ちゃんを見ているのは辛かったけど、そんなに兄ちゃんに想ってもらえるその人に、ちょっと憎らしい感情もあった。
私の方はというと、サンドイッチ屋さんでのバイトが決まり、朝早くから自転車で商店街に向かい、サンドイッチを作っていた。
朝寝坊な私が自転車に飛び乗ると、必ず兄ちゃんは「慌てて転ぶなよ」と声をかける。
いまだに、小学生六年生の時にガードレールにぶつかったことを気にしているのだ。
私の脛には、今でも薄く傷が残っている。言わなきゃ、ほとんど気づく人がいないほど薄い傷なのだが、兄ちゃんは、その傷跡を見るたびに、「ごめんな」と、本当に申し訳なさそうに謝る。
この傷が出来たのは小学六年生の時で、兄ちゃんにゲームを買ってもらいに行く途中のことだった。
自転車を漕ぐ私の横を、兄ちゃんは息も切らさず走ってくれた。兄ちゃんが嬉しそうに走るので、調子に乗った私は、運動神経が良い訳じゃないのに、前も見ないで緩い坂道を立ち漕ぎで下り、ガードレールに見事激突。
幸い、車通りの少ない裏道だったので、脛から血を流すだけで済んだのだが、私は大泣きをした。
痛いのとビックリしたので、兄ちゃんの心配する顔が滲んで歪むほど涙を流して泣いた。
兄ちゃんは首から下げていたタオルを私の脛に巻くと、私をおぶって家まで走った。私はその間、泣きながらも「ゲームは」と、ちゃっかりしたことを言っていたそうだが、それは記憶に無い。
それから、近所の診療所で手当てを受けた私に、兄ちゃんは何度も「ごめんな」と自分のせいでもないのに謝り、その姿を面白がった父さんは、「傷物にしたんだから、責任とって嫁にもらえよ」と兄ちゃんをからかった。
父さんの言った「嫁にもらえよ」に兄ちゃんがなんて答えたのかも、残念ながら記憶にない。
そんな風にして出来た傷を、ときおり触っては、あの時の答えを思い出そうとするのだが、やっぱり、痛かったことしか思い出せない。
それ以来、兄ちゃんは、私が自転車に乗るたびに「慌てるなよ」と声をかける。
私は兄ちゃんの声を背中で聞きながら「分かった」と叫び返すのだが、ちょっと転んでみようかなと悪戯心がうずくのだ。
そうして通うサンドイッチ屋で、私は初めて恋をした。
同級生や先輩にほのかな恋心を抱いたことはあったが、告白なんて考えたこともない。
そんな恋愛音痴な私が好きになったは、バイト先の店長だった。
店長なのに遅刻はするし、居眠りをするようなチャランポランな人で、顔だって、それほど良いくはない。
そんな人をなんで好きになったのか、自分でも良く分からないのだが、なにしろ好きになったのだ。
ヨレヨレのジーンズしか持っていなかった私が、久しぶりに買ったジーンズは、お尻の形がクッキリと分かる流行のスタイル。
作業場にある大きな鏡をみながら「これは、ないかな」と呟く私の後ろに、困った顔の兄ちゃんが映っていた。
「似合わないよね」
お尻を隠すように振り返る私。
「いいんじゃねえか」
下を向いてポケットに手を入れる兄ちゃん。
「じゃあ、バイトに行くね」
私がパツパツのお尻にムズムズとするのを感じながら、作業場を出ると、やっぱり、後ろから「慌てて転ぶなよ」と声が聞こえた。
どうしょうもない二十六歳の男に恋をした私は、居眠りをする彼の分まで、食パンの耳を切ってサンドイッチを作った。
彼が考えた【小倉フルーツサンド】は、私たちバイトの不評に反して、良く売れた。彼の突飛なアイデアが、いったい何処からくるのか、新しいことを考えるのが苦手な私は、不思議でならない。
飲食店の店長なのに、無精髭を生やしていた彼に、告白のチャンスは突然現れた。
その時は、私と店長だけでラストをすることになった。店の片付けをしていた私に、大量にパンの耳が入った袋をかざした店長は、満面の笑みで言ったのだ。
「お腹減ってないか?」
お腹は減っていたが、パンの耳を貪るほどに減っていた訳ではない。なんて答えようか困っていた私に、店長は「油で揚げると美味しいんだぞ」と、せっかく洗ったプライヤーに油を入れて、パンの耳を放り込んだ。
「学生の頃、前の店長が作って貰ったんだ。カリカリに揚げたパンの耳に、砂糖とか塩とかつけて食べると、すごく旨いんだ」
彼はお金がなかった学生の頃のことを話しながら、手際よくパンの耳を揚げると、砂糖をまぶして私の口に差し込んだ。
驚いた私は、思わず「店長が好きです」とパンの耳を咥えたまま、告白したのだ。
言った私も驚いたが、言われた店長は揚げたてのパンを掴んで、火傷をするぐらいに驚いた。
告白をしたものの、その後にどうしたら良いか分からない私が、パンの耳を咥えたまま目を丸くしている様子は、今考えても顔が赤くなるほど滑稽だったと思う。
そんな私に店長は、「特製ラスク、持ってかえりなよ」と、聞こえない振りをしてくれた。
自転車篭いっぱいの【パンの耳ラスク】を持って帰った私は、作業場で明日の支度をしていた兄ちゃんに、パンの耳を見せた。
「バイト先で貰った」
全身の力が抜けた私の言葉に、兄ちゃんは何かを感づいたようで、いつもなら食べない甘いラスクを「美味そうだな」と、ムシャムシャ食べてくれた。
「いい人だな。パンの耳を大切にするなんて」
しみじみとした口調で言うと、私の口に店長と同じようにパンの耳をねじ込んだ。
ねじ込まれたパンの耳は、砂糖が固まっていて甘いはずなのに、泣き虫な私は涙が零れた。
「兄ちゃん、人を好きになるのって、なんでなんだろうね」
恋愛のことを、兄ちゃんに聞いても無駄なことは分かってる。
「分かんねえな。考えても分かんねえから、きっと、頭じゃねえんだろう」
兄ちゃんは笑って教えてくれた。
「そうだよね、頭で好きになるんじゃないから、考えても仕方ないね」
なんだか、ほっとした。
恋愛初心者の私は、どうして店長が好きなのか何度も考えてぬ眠れなかったり、いったい、自分がどうしたいのか答えが知りたくて悩んだ。
でも、好きになるのは、頭ではなくて心なのだから、考えても答えなんか出ない。
心には考えることなんか出来なくて、感じることしかできないんだから。ドキドキするのも、ワクワクするのも頭じゃなくて心だと思う。
私が突然、予告も無く告白したのも、兄ちゃんが、あの人を好きになったのも、心が勝手にワクワクドキドキしたからで、頭で悔やんだりしても仕方が無い。
「ビール飲む?」
私が、頑張ってパンの耳を齧る兄ちゃんに言うと、兄ちゃんは嬉しそうに笑って「つまみにはならないな」と、また、私の口にパンの耳をねじ込んだ。