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〔2〕

[2]

 父さんの入院で、我家の経済は逼迫していた。小さな水道施設会社に来る仕事は、それほど利益はなく、兄ちゃんが休みなく働いても余裕など出来なかった。

 それでも、兄ちゃんは、高校三年の夏に、私に大学に行けと言い始めた。

 今まで、私の進路について何も言わなかった兄ちゃんが、急に「大学に行け」と言い出したのにはビックリした。

それほど勉強が好きじゃなかったから、どちらでも良かったのだけど、兄ちゃんは、「絶対に大学に行け」と言ってきかなかった。

 血が繋がってないのに、兄ちゃんは、父さんに似て頑固だった。

 珍しく私に命令口調で進学を薦める兄ちゃんに、ちょっと腹が立って聞いてみた。

「なんで、そんなに私の世話を焼くの?」

 兄ちゃんはビックリした顔をして、「妹だから」と、言い難そうに言ってくれた。

 家に来てから、一度だって私を妹なんて言ったことがないのに、兄ちゃんは、そう言ってくれた。それも、申し訳なさそうに。

 私は意外な答えに、なんて言って良いのか分からなくなり、なんとなく頷くしかなかった。

「父さんへの恩返しだ」と言われたら、きっと、「私には関係ない」と言い返したと思う。

 兄ちゃんの言葉を聞いた私は、今まで、兄ちゃんを恥かしいと感じていた自分が恥かしくなり、兄ちゃんのために、猛勉強をすることにした。

遅ればせながら受験勉強を始めた私は、蝉の鳴き声を聞きながら、クーラーのない部屋で必死に参考書を読んだ。

汗がポタポタと垂れて、ノートを汚す度に、「兄ちゃんは、もっと暑いんだ」と声を出してへこたれる自分を励ます。

指がかじかんだ時には、「兄ちゃんは、こんな日でも水と戦ってるんだぞ」と自分の頬を叩いた。

今までに、こんなに頑張ったことがないほど勉強した私は、無事に志望校に合格し、兄ちゃんを喜ばすことが出来た。

入学式の日、私は兄ちゃんを「一緒に来ない。父兄なんだから」と勇気を出して誘ったが、兄ちゃんは「馬鹿」とだけ言った。

でも、その顔は、今まで見た中で一番嬉しそうだった。私は、その顔を見られただけで、勇気を出した甲斐があると嬉しかった。

大学に入学した私に、兄ちゃんはお小遣いを増やしてくれると言い出した。

高校の時の五千円から一気に三万円にすると言うのだ。銀行から借りた私の学費の返済だけでも大変なのに、なんで、そんなことを言い出したのか、私には分からなかった。

「新しい靴とか欲しいだろう。デートだってさ」

 兄ちゃんは、玄関に脱ぎ捨てられた私のスニーカーを見て、何故か不憫に感じたようだ。

 お世辞にも美人でもなく、可愛い訳じゃない私は、オシャレにも恋愛にもあまり興味はなかった。

 だから、スニーカーも一足が壊れない限り買い換えたいとは思わなかったし、面倒なコンタクトレンズもしようとは思わなかった。

 それに、赤いセル縁のメガネも似合っていると、自分では思っている。

「いいよ、私もバイトするから」

 兄ちゃんにばかり苦労をかけたくないと思っていた私は、大学に入ってすぐにバイト先を探していた。

 しかし、授業の都合でなかなか良いバイト先が見つからないまま、夏休みになってしまったのだ。

「バイトも悪くないけど、勉強は大丈夫か」

 兄ちゃんは「バイトする」と言うと、ちょっと顔を曇らせた。

「社会勉強は大事でしょう」

 少しは家にお金を入れたいなんて言ったら、きっと兄ちゃんは、今よりも無理をして働くに決まってる。今だって、他の会社が遣りたがらない仕事を引き受けて、休みもなく働いてる。

 元請の工事会社の人も、あまりに働く兄ちゃんを心配するぐらいだった。そんなに、心配してくれるなら、無理な仕事を回さないで欲しいと、内心思っていたが、兄ちゃんは、「仕事をしないと、腕が上がりませんから」とお礼を言うばかりだ。

 兄ちゃんの目標は、死んだお父さんなのだが、私の目から見れば、お酒を飲むこと以外は、もう父さんを超えている。

 結局、私と兄ちゃんは話し合いの結果、お小遣いを一万円として、私はバイトを探すことになった。

 でも、探す、探すと言いながら、兄ちゃんのお弁当を作って現場に持って行く夏休みを過ごしていた。

 夏休みの終わりに、兄ちゃんの現場に行くと、年上の女の人と話をしていた。

 照れ屋の兄ちゃんは、女の人と話す時はいつも以上に怖い顔になり、私はそれを見ているだけでハラハラするのだが、その日はちょっと違った。

 他の人にはその違いは分かりづらいかもしれないけど、兄ちゃんは、ちょっと笑っていた。

 さりげなく、兄ちゃんの傍で聞き耳を立てると、その人は、建てている家の奥さんで、奥さんは、キッチンの位置について兄ちゃんに相談していたのだ。

「設計変更は難しいかもしれませんよ」

 設計図を描いたり、直したりは水道屋さんの仕事じゃないから、兄ちゃんは、ちょっと困っていた。

「そうですよね、でも、主人が『水道屋さんに聞いてみろ』って言うんです」

 奥さんの顔を良く見ると、目が真っ赤に充血して、それが白い肌に尚更痛々しく映った。

 兄ちゃんも、そんな奥さんの様子に何かを感じたようで、自分では何も出来ないのに、熱心に相談に乗っている様子なのだが、その顔が、何故か満更迷惑そうでもないのが、私にはなんだか、納得できない気持ちだった。

 兄ちゃんの説明に納得した奥さんが、深々とお辞儀をして現場から離れると、その後ろ姿を見ている兄ちゃんに私は聞いた。

「美人だね」

 私の存在にすら気づいていなかった兄ちゃんは、不意に声をかけられて、「美人だな」と、つい本音を言って、すぐに「別に」と訂正したのだ。

 その後、暇な私が現場をウロウロしていると、兄ちゃんの様子がちょっと違った。

 怒っているのかと思うほどの勢いで仕事をするのが常の兄ちゃんの動きが遅いのだ。

 配管をするパイプを持っては、何か考え事をするように首を傾げる。そして、一度繋いだパイプを切っては、また首を傾げる。

 兄ちゃんの様子が変なのに気づいたのは私だけではなく、春から一緒に仕事を始めた十五歳の俊之くんにも分かったようで、いつも以上に怯えて、私に「何かあったんですか」と尋ねるほどだった。

 私はなんだか嫌な予感がしたが、そのことを、兄ちゃん尋ねることなどで出来はしない。

 翌日、私が弁当とお茶をもって現場行くと、兄ちゃんはネクタイに作業着を着た工務店の金田さん喧嘩をしていた。

 金田さんは、大手の建築会社を辞めて、今の工務店に入った。

「設計図面は完璧です。僕がこの会社にスカウトされたのも、この設計図面の力なんですから」

 そう言って、現場の言うことを聞き入れず、大工の棟梁や足場を組む鳶の人たちに、嫌われていた。

 そんな金田さんの悪口も、兄ちゃんは言ったことがない。

 元々不良だった兄ちゃんは、すっかり更正して、誰かと口喧嘩さえしていなかったのに、その日の兄ちゃんは、違っていた。

「ざけんなよ、金のためだけに仕事してんじゃねぇんだよ。ちょっとぐらい儲けが減ったって、施主さんが満足しないような仕事をしたくはねえだ」

 下から睨みつける様子は、二十年近く前の兄ちゃんの姿だった。

「しかしねえ、剛さん」

 いつもは横柄に兄ちゃんの仕事にケチをつけていた金田さんは、必死で強がっていたが、顔色はすっかり蒼くなり、今にも腰から落ちそうだった。

「いいか、この配管をここに動かして、発注してたキッチンを違うのに変えれば済むことだろうよ。何も基礎や梁をやりかえろって言っちゃいねんだ。

 ガス屋が文句を言うなら、俺が話をつけてやるよ。

 てめえは、施主さんの喜ぶ家になるように、図面を書き換えればいいんだよ。

 分かったか、徹夜してでも、明日まで書き直して持って来い」

 胸倉を突き飛ばす勢いで、金田さんを追い返した兄ちゃんに、恐々寄って来たのは、大工の棟梁だった。

 兄ちゃんより二十年先輩の棟梁も、兄ちゃんに負けないぐらいに不良だったと、父さんから聞いていたが、その棟梁でさえ、肩で息をする兄ちゃんにびびっている。

「剛、そんなに熱くなるなよ」

 兄ちゃんとの距離を測りながら、声を掛けるあたりは、さすがに棟梁も喧嘩の達人だと、感心した。

「あの馬鹿には、一度言ってやらなきゃなんなかったんです。

 俺は、棟梁と違って、水道しか出来ないけど、それでも、この家に住んでくれる人に喜んで貰いたいですから。

 水漏れなんてあったら、大金を使って家を買った人に申し訳ないじゃないですか。

 どんな小さな家だって、俺なんかじゃ手の届かない大金を使うんだ。ましてや、こんなに立派な家ともなれば、ちょっとの我侭だって言いたくなるでしょう。

 それを、あの馬鹿は、予算だ工期だって言うばっかりで、現場の言うことも、施主さんの言うことも聞きやしねえ。

 そんな仕事がしたいですか」

 怒りで真っ赤だった目から、涙が零れた。

 兄ちゃんの涙を見たのは、これが三回目だったと思う。

 一度目は、初めて家に来たときに、お父さんと三人でお風呂に入った時に泣いていた兄ちゃん。

 二度目は、お父さんの亡骸にしがみついて、謝ってた兄ちゃん。

 兄ちゃんは、寂しくて泣いたり、悲しくてないたりはしない。兄ちゃんが泣くのは、感謝している時だった。

 でも、今度の涙は違っていた。でも、その涙の訳が分かったのは、もう少し後になる。

 兄ちゃんの涙に押された棟梁は、結局、何も言わずに兄ちゃんの肩を叩いて仕事に戻った。

 その様子を見ていた私と俊之くんの傍に近づいてきた兄ちゃんは、照れ臭そうないつもの笑顔で、「早いけど、飯にするか」とだけ言った。

 そのまた翌日、私がいつもよりかなり早く弁当を持って現場に出掛けると、今度は工務店の社長の鵜飼さんと兄ちゃんが立ち話をしていた。

 七十過ぎの鵜飼さんは、お父さんの代からの付き合いで、お父さんを弟分のように可愛がってくれた。

 だから、父が朝帰りをした翌日は、必ず鵜飼さんから電話があり、

「遅くまで連れまわして済まなかったな」と子供だった私にもお詫びをしてくれた。

 そんな鵜飼さんからすれば、二十四歳の兄ちゃんは孫みたいなものだったのかもしれない。

 そんな生意気な孫の話を、鵜飼さんは余裕の笑顔で受け流している様子で、兄ちゃんの言うことに小さく頷いてはタバコを吸っていた。

 きっと昨日の話しだろうと思って近くまで言った私に、鵜飼さんは、「おう、萌ちゃん、いい女になったな。これじゃ、剛も頑張るはずだ」と的外れなことを言うが、私はちょっと嬉しかった。

 そんな鵜飼さんの冗談に慣れている兄ちゃんは、顔色も変えずに、私を目で追い払うと、また、鵜飼さんに熱心に話を始めた。

 炎天下に流れる汗も気にしない兄ちゃんの根気に負けたようで、鵜飼さんの顔はちょっと、呆れたようになり、兄ちゃんの頭をクシャクシャにして帰って行った。

 仕事の指示を待つ俊之くんと、お弁当を下げた私のところに来た兄ちゃんは、「ビールを二十本ぐらい買って来い」と言って俊之くんに財布を投げつけた。

 兄ちゃんの、その顔はとても嬉しそうだった。

 昼時に大工さんや左官屋さんにビールを配った兄ちゃんは、午後から新しく配管を引きなおしていた。

 どんな話が鵜飼さんと兄ちゃんの間にあったのかは、分からないけど、兄ちゃんが嬉しそうに仕事をしているのだから、きっと良いことなのだと私も嬉しくなった。

 そんな苦労した家が完成したのは、秋風が吹き始めた頃だった。学校の帰りに、遠回りをして完成した家を見に行くと、そこには、新品の作業服を着た兄ちゃんが、美人の奥さんと話をしていた。

 恋愛には疎い私にも、二人は水道屋さんと施主さんという感じには見えなかった。

 兄ちゃんに気づかれないように走って家に帰った私は、その日から兄ちゃんの顔をまともに見られなくなってしまった。

 そんな私の様子に気づかない兄ちゃんは、ちょっと浮かれた感じで、鼻歌なんか歌いながら仕事に行くようになり、今までは充電さえも忘れる携帯を、いつもポケットに入れている。

 今まで、兄ちゃんに恋人がいたのか、いないのか分からないが、不良時代の兄ちゃんの周りには、化粧が似合わない中学生が屯しては、ヘラヘラと笑っていたのを、私は気持ちが悪くなる思いで見ていた。

 不良で夜遊びばかりしていた兄ちゃんだが、私は兄ちゃんが実は二十四にもなって童貞ではないかと思っていた。

 そんな兄ちゃんが、どうみても十歳以上年上の人妻を好きにならなくてはいけないのか、私にはまったく理解できない。

 それは、鵜飼さんも同じだった。

冷たい雨がふる夜に、一升瓶と寿司を持った鵜飼さんが現れ作業場で酒を飲みながら、兄ちゃんに言い難そうに話を始めた。

大人が作業場で酒を飲んでる時は、子供は奥にいるものだと、亡くなった父さんに言われていた私は、二十歳の大人になっても、その言いつけを守り、覗き見をした。

「これは、現場で耳にした話だから、信じちゃいないがな」

 口に含んだ日本酒を喉に流し込んだ鵜飼さんは、「ううん」と更に言い難そうに唸る。

「まあ、与太話だとは思うが、お前が前に設計変更までしたお屋敷の奥さんと、いい仲になったって言うヤツがいてよ」

 奥さんの話を切り出された兄ちゃんは、顔を赤くして「そんなんじゃないんです」と、言うだけで、しばらく二人は黙ってしまった。

 また、口に含んだ日本酒をゴクリと飲んだ鵜飼さんは、

「野暮なことを言うつもりはねえ、男と女に、あれはいけねえ、これはいけねえなんてのは、通用しねえのは分かってるんだ。

 人さんの嫁だからって、顔を見ないわけにもいかねえんだからな。

 でもな、惚れるにも覚悟がいることもあるんだぜ」

 エロ話や面白くない冗談ばかり言う鵜飼さんの「覚悟」という言葉には、迫力があった。

 それは、生半可な覚悟じゃ許されない重い「覚悟」。

 黙って聞いていた兄ちゃんは、観念したように頭を下げて「すんませんでした」とあっさり、奥さんとの関係を認めたのだ。

「最初に会った時に、いい匂いがしたんです。いったい何のにおいだろうって、ずっと考えてたら、思い出したんですよ。

 母さんがつけてた化粧品の匂いに似てたんです。

 顔や声は、いっつも思い出すのに、匂いだけは思い出せなかった。それが、恵さんからしたんです。

 そしたら、この人の願いは絶対に聞いてやらなきゃいけないと思って、鵜飼さんにも無理を言いました。すいません」

 十歳で母親を亡くした兄ちゃんには、私よりも母親の記憶が多いことに、改めて溜息が出た。

 私の記憶にある母親の顔は、きっと、子供の頃に毎日のように見ていたアルバムの中の顔で、声も匂いもしない。

「まあ、あれは、先方さんも喜んでくれたんだからいいじゃねえか。おれも、あの方がキッチンとしちゃ明るくて使いやすいと思うぜ」

 鵜飼さんは、今では自分で現場を仕切ることはないが、昔は腕のいい職人だったと父さんは尊敬していた。

「それから、何度か恵さんとキッチンの仕様なんかで話をするようになって、つい」

 兄ちゃんは、作業場の冷たいコンクリートに土下座して鵜飼さんに謝った。

「おいおい、俺に謝ることじゃねえよ。それに、俺もあの人の旦那を知っているが、横柄で人を見下したような、嫌なヤツだったから、まあ、よくあんな男と結婚したもんだと思ってたぐらいだ」

 鵜飼さんが椅子に座れと促しても、兄ちゃんは地べたに正座したまま、何度も鵜飼さんに頭を下げ「なんだか、恵さんを泣かすヤツが許せなくて」と、拳を握り締めた。

「いいかい、剛。同情もいい、それも惚れたうちだ。でもな、命をかけて守る覚悟がなくちゃならねえんだぞ。そんなことを、その人が望んでるのか。きっと、望んじゃいねえよ。

 そんなことは、お前だって分かってんだろう。だったら、あんまり傷が深くならないうちに別れるのも、愛ってやつじゃねえか。

 いいか、明日行って、思い切り振られて来い。振られるのは、男の仕事だ。未練は、男が持ってやらなきゃな」

 鵜飼さんが、少し酔った足取りで作業場を出て行くと、兄ちゃんは四回目の涙を流した。


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