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 結婚式は正看護師の試験が終ったあと、小さなレストランで親しい人だけで遣りたいと私は思っていた。

 最初は、「試験に合格してから」と川田さんと決めていたが、兄ちゃんが、「不合格なら、今度は二人で頑張ればいいだろう」と川田さんを説得し、川田さんも、「そうだな、俺も協力したいしな」と、試験を受ける前から不合格が決まっているような言い方をしてたのは気に食わなかったが(そんなに協力したいなら、させてあげるわよ)と意地悪な気持ちで了承した。

 そうして、私の結婚式は看護学校を卒業した後の四月に決まった。

 周りの友達がそうしたように、私も小さく温かい結婚式を望んだのだが、兄ちゃんは「せめて式場でしろよ」と私ではなく川田さんを責めたものだから、川田さんは、私と兄ちゃんの板挟みにあい、本当に大変そうだった

 結婚式の話をするたびに、溜息をつく川田さんが可哀想になった私は、仕方なく小さな式場で、披露宴だけをすることにした。

 特に信じている神様もいない私は、角隠しもウエデイングロードも興味はなかった。

 試験勉強も大詰めの二月には、式のことを全て川田さんと兄ちゃんに任せ、私は【絶対合格】のハチマキをしめて勉強に邁進するつもりだったが、ハチマキをすると眠くなる体質だったようで、気がつくとノートに涎をたらして寝ていた。

 試験の日も、空には厚い雲がかかり、大雪が降りそうだった。

「弁当を忘れるなよ」

 兄ちゃんは、そう言って私を笑顔で送り出すと、自分も自動車に乗って仕事に向かった。

 まったく兄ちゃんはいつまでも小学校の遠足のことを憶えているものだと感心した。

 小学校五年の遠足で、トンマな私はお父さんが作ってくれたお弁当を玄関に忘れるという失態を演じた。

 お弁当の時間になって、そのことに気がついた私は、仲の良かった麗菜ちゃんのお弁当を分けて貰ったのだが、小食な麗菜ちゃんのお弁当をつまむだけでは、お腹が満たされることはなく、なんともひもじい思いをしたものだ。

 そして、ひもじさよりも、麗菜ちゃんのお母さんが作る色とりどりで可愛いお弁当が羨ましさと悲しさで、お腹は減っても、なんだか胸が苦しくなったのを憶えている。

 父さんが一生懸命作ってくれるお弁当は美味しかったが、地味で大きなお弁当だった。

「どうだ、美味そうだろう」

 父さんは出来上がったお弁当を、自慢げに兄ちゃんに見せて、兄ちゃんは「美味そうだね」とそんなお弁当さえ羨ましそうに笑っていた。

 結局、私が忘れた弁当は冷蔵庫で冷たくなり、兄ちゃんの夜ご飯になった。

 試験が終わり会場を出ると、大雪の中を川田さんが怖い顔をして待っていた。

 試験の出来が悪かった私は、川田さんに恐る恐る近づくと、「ごめん」と頭を下げたのだが、川田さんは何も言わず、車まで私の手をひいて急ぎ足で歩いた。

 他の受験生の手前、男性と手を繋いで歩くのは躊躇われたが、川田さんは、そんな私のことなど気にもとめず、ズンズンと降り積もった雪の中を早足で私を引っ張った。

 車に乗ると、試験のことを報告しようとする私の言葉を遮り、前を向いたまま早口で兄ちゃんの事故のことを言い出した。

「剛が怪我をした。今からすぐに病院に行くから」

 何を言っているのか直ぐには理解出来なかった私は、「えっ」と小さく声を出すのが精一杯だった。

「現場に置いてあった資材が雪に濡れないようにシートを被せていたら、ガス屋忘れたパイプが頭に落ちたんだ」

 川田さんは悔しそうに何度も「くそっ」と舌打ちをして、何度もハンドルを叩いた。

 病院に着くと、もう兄ちゃんは息を引き取っていた。包帯をグルグル巻きにされた兄ちゃんは、静かに目を閉じて何も言ってくれない。

 試験の出来が悪かったことも、途中でお腹が痛くなったことも、前の席で試験を受けていたのが年配の女性だったことも、兄ちゃんは聞いてくれない。

 話したいことが、次から次へと出てくるのに、兄ちゃんの耳には、もう私の声は聞こえないのだ。

 母が亡くなったときは、私はまだ子供だった。お父さんの死は、覚悟しながら迎えた。

 でも、兄ちゃんが死ぬことなんて考えたこともなかった。

三十五歳。

 私は泣くこともなく、冷や汗が流れ全身の血が下がるのを感じながら、その場に倒れた。

 その日から、私の頭の中は結婚どろこではなく、試験のことさえ忘れていた。気を抜くと、いつも目の前には兄ちゃんの姿があり、自然と涙が零れてた。

 結婚を延期しようと川田さんは言ってくれたが、鵜飼さんの言葉で、私は式を早めることにした。

「人間はな、死んでから四十九日間はこの世に魂があるんだぜ。今までお世話になった人たちに、お別れを告げるために、仏さんがくれたのが四十九に間だ。

 きっと、剛は萌ちゃんの花嫁姿を見ないと、成仏できねえんじゃねえかな」

 結婚式の前の私と川田さん、そして鵜飼さんで兄ちゃんのお骨の前で食事をした。

「最初に剛にお祝いしないとな」

 鵜飼さんは、誰も座っていない席に置かれたコップにビールを注ぎ、「いよいよ明日だぜ」と兄ちゃんのコップに自分のコップを合わせた。

「剛、萌ちゃんと結婚して、お前が俺の兄ちゃんになるんだな」

 川田さんは口元に笑みを浮かべ「おにいさん」と兄ちゃんをからかった。

「兄ちゃん、笑ってるかな」

 私は川田さんの「おにいさん」にきっと、何も答えないだろう兄ちゃんのことを考えた。

 母親を亡くし、父親の手からお父さんの手に渡された十歳の兄ちゃん。

 それから二十五年、兄ちゃんが幸せだと思ったときはあったのだろうか。

「剛はさ、本当に萌の父ちゃんが好きだったんだぜ。ヤツが死んでから、本当のオヤジが現れてさ、剛に一緒に住まないかって言ったんだよ」

 鵜飼さんの話は始めて聞いた。

「親父さんも、生活が安定して余裕が出来ると、息子のことが気になったんだろうな。まあ、あいつにも親の心があったってことだ。

 でも、剛はきっぱりと断ったよ。今更、世話にはなりたくないってな。

 その話を聞いた俺は、なんだか、剛もヤツの切なくなったよ。『ちょっとは、甘えてやれよ』なんて説教しちまった。

 剛は「ガキじゃあるまいし」って怒ってたけど、考えたんだろうな、萌ちゃんの大学に行く金を銀行から借りるのに、ヤツに保証人を頼んだのさ。最初は俺に頼んできて、俺も快く引き受けたんだけどな」

 私がなんとなく通っていた大学には、そんなことがあったのだと思うと、なんでもっとあの頃を大切にしなかったのだろうと、悔いが大きくなった。

「ええ、その話をしてる剛は、ちょっと照れ臭そうでした」

 川田さんも知っていた。

「剛が保証人を頼みに言ったら、親父さんは二つ返事で了承したどころか、その金は全部自分が出したいって申し出てくれたらしいですよ。『くそったれ親父と思ってたけどな』剛はそんな風に言って嬉しそうでした」

 剛さんのお葬式は、そのお父さんが、私に喪主をするように頼んできた。

「いまさら父親面は出来ません。萌ちゃんには申し訳ないけど、きっと剛も私が喪主なんて許してくれませんよ」

 そう、言って何度も頭を下げた。

 その時、兄ちゃんは、死ぬまで父親のことを恨んでいたんだろうと思い、兄ちゃんが可哀想で、目の前にいる父親を蹴ってやろうかと思ったほどだった。

 でも、兄ちゃんは父親を許すことが出来たのだ。兄ちゃんが甘えることで、兄ちゃんは父親を許すことが出来たのだ。

 そして、兄ちゃんが許したとしても、兄ちゃんの手を離した父親は、自分を許すことは一生ないのだろう。

「剛が死んだのを、和さんは知ってるのか」

 鵜飼さんはビールから日本酒に変えて、川田さんに尋ねた。

「もう、連絡もつきませんから」

 川田さんは、兄ちゃんの前にも日本酒を置いて、私の顔をチラリと見た。

「兄ちゃん、心残りだろうね」

 兄ちゃんは、これからいっぱい幸せになるはずだった。そうでなきゃ不公平過ぎる。

「それでいいんじゃねえか、心に残したままで」

 鵜飼さんは、紅くなった顔を皺くちゃにして私に笑いかけたが、私には言いわけがなかった。

 兄ちゃんは、ずっと和さんから連絡が来るのを待っていたのだ。建築資材会社の蓉子さんが、バレンタインにチョコとくれたって、兄ちゃんは待っていたのだ。

 私には、そうとしか思えなかった。

 しかし、私の考えと川田さんの思いは違っていた。

「剛は和さんと過ごした思い出だけで、十分楽しかったんだと思うよ。飲んでる時も、よく円ちゃんのことや和さんのことを思い出して笑ってた。

 俺が『いつまで未練をもってんだよ』って説教してたら、あいつ『未練も悪くないぜ』なんて強がっていたからな」

 私には川田さんの言っていることが全然理解出来ない。

 私が不満そうな顔をしていると、紅い顔をした鵜飼さんが、

「未練も持てないヤツだっている。剛は、未練をたくさんもって死んでったんだから、幸せなんだ」

 私の顔を覗きこんで、言ったが、私にはどおしても、兄ちゃんが幸せだったとは思えない。

 そんなモヤモヤした気持ちのまま、夜更けまで私たち三人は兄ちゃんの思い出を話して、結婚前夜を過ごした。

 翌朝、ちょっと腫れぼったい顔の私に、結婚式場の人はずいぶん化粧に困ったようだが、もともと、スッキリとした美人ではないので、どう化粧しても、それほど変るわけではない。

 そして、控室で真っ白なドレスを着て座っていると、親戚のおじちゃんに連れられるように兄ちゃんが入ってきた。

 いつもの洗いざらしの作業着を着た兄ちゃんは、ポケットに手を入れたまま、背中を見せて、「きれいだな」と言ってくれた。

「兄ちゃんのお陰だよ。兄ちゃんが、私のために貯金してくれたお金で、このドレスも借りたんだよ」

 私にしか見えない兄ちゃんに話しかける様子に、おじちゃんは驚いていたが、何も言わなかった。

「兄ちゃん、萌は兄ちゃんが大好きだよ。本当は兄ちゃんのお嫁さんになりたかったけど、兄ちゃんが私のことをずっと大切な妹だと思ってくれてから、言えなかったよ。

 でもね、今は川田さんが大好きだから、兄ちゃんは天国で好きな人をさがしなよ。

 和さんが来るまで、待ってちゃだめだよ」

 兄ちゃんは、私の方を振り向くとニコリと笑い、ポケットに手を入れたまま控室から出て行った。

 式の間、兄ちゃんは入口の扉の横に立って、嬉しそうに私と川田さんを見ていてくれた。私は何度も兄ちゃんに向かって笑いかけると、自然と涙が頬を伝い、そのたびに川田さんは心配そうに私の顔を見てくれた。

 私は兄ちゃんの照れ臭そうに笑う顔が大好きだ。だから、兄ちゃんを思い出すときは、いつも、そんな兄ちゃんの顔を思い出そうと思う。

 もしも、私が川田さんより先に死んだら、川田さんには私の笑った顔を思い出して欲しいと思うから。

 兄ちゃん、天国で会うときまで、ずっと笑っていてね。


最後までお付き合い頂き有難うございます。「読んだよ」の一言でも結構ですので、感想やメッセージを頂ければ嬉しいです。

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