愛せよ、不完全!
完全無欠なものというのはこの世にないでしょう。
完全無欠と言えば永久機関があります。
私は物理の人間ではありませんが、これは不可能と見るのが妥当でしょう。
熱湯がさめるように、エントロピーは増大するものだからです。
それでは人間は完全無欠と言えるでしょうか。
これは残念ながらNoと言うしかありません。
そして、これをひとまとめに証明する手立てを私にはありません。
不完全性は個々人によって違うものだからです。
私も不完全な人間です。
才能もなく、そして下調べもなく事物に手を出す。
行動ばかりが先に出てしまって、どれも中途半端な出来になってしまう。
反対に、才能があったり、下調べばかりをする人も居るでしょう。
そして決して事物に手を出さず、行動を起こせない。
これはどちらも相応に欠点があると思います。
私のような動的な欠点と、反対な静的な欠点。
最近になって私はキーボードという楽器を始めました。
色々な理由があるのですが、最たるものはやはり興味でした。
しかし、以前からやっている楽器もあります。
ギターであるとか、ベースであるとかです。
反対を向きます。
世の中には音楽が好きで、音楽をやりたいという意思があってやらない人がいます。
これには勿論お金の問題や、種々多様な理由があるでしょう。
けれど、これらは慎重さ、理想の高さ、挑戦への恐れ、様々な理由が隠れていることに思います。
ところで、静的な欠点に三つの要素を見出しました。
慎重さ、理想、恐れ。
これらを一例としたように、同種の欠点の中にも枝分かれがあることが分かります。
すると、反対側の動的な欠点はどうでしょうか。
飽き性、過信……。
これも同様の枝分かれがあることが分かります。
このように、人間は数えきれない種類の欠点がそれぞれに存在しているといえます。
幾つかの種類が同じ人間に重なっていることもあって、これを明確に分類することはきっと出来ないだろうと思います。
人間というのはやはり不完全なものです。
だからこそ、私はその不完全性を愛すべきだと思います。
朝食を食べなかったとしましょう。
しかし、それがどうしたことでしょうか。
朝食を食べていたら今日お腹を壊したかもしれませんし、違うかもしれません。
私には朝食を食べたifなんて観測しようもありません。
もしかしたら、並行世界なんてものがあるかもしれませんし、ないかも知れません。
ですが、観測も干渉もできない存在に、どうして頭を悩ませる必要があるでしょうか。
前の例に戻しましょう。
楽器を始めなかったからこそ、整備費が掛からなかった。
色々な楽器を始めたからこそ、多様な楽器の話ができた。
不完全な選択で、今の現実が成立しています。
私たちの認識した中でもっとも無謬に近い世界とはどこでしょう?
これはきっと今です。
今以外の無謬性をどうして証明できるでしょう。そもそも確定していない世界なのです。
そして、無謬に近い世界を作ったのはだれでしょうか?
これは不完全な私の選択です。
永久機関という言葉を回収しましょう。
これは大変に心惹かれるもので、永久性、いわば完全性に憧れるものです。
しかし、それに近しいものを形作った我々の不完全性は、愛するに足るべき存在でしょう。




