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団地の屋上

作者: 不出水
掲載日:2026/02/19

取り壊しが決まった古い団地の記録写真を撮る仕事を請け負った。住人はほとんど退去しており、がらんとした廊下に自分の足音だけが響いた。最上階まで上がり、屋上への扉を開ける。

取り壊しが決まった建物の写真を撮る、という仕事がこの世にはある。


言ってしまえば遺影だ。人間の遺影は故人の生前の姿を残すために撮るが、建物の遺影は死の直前に撮る。まだ建っている。まだ形がある。でもあと数ヶ月で重機が入り、コンクリートの塊に分解され、産業廃棄物としてトラックの荷台に乗せられる。その「まだ」のうちに、かつてここに建物があったという証拠を記録しておく。それが僕の今日の仕事だった。


市の外郭団体からの依頼である。報酬は五万円。交通費込み。安い。フリーランスのカメラマンとしては相場を大幅に割り込んでいるが、僕のようにポートフォリオが薄く実績に乏しい人間に仕事を選ぶ権利はない。写真学校を出て三年、やっと「カメラマン」を名乗れるようになったとはいえ、名乗れることと食えることのあいだには日本海溝より深い断絶がある。去年の年収は百九十万円だった。確定申告のとき税理士に「経費を引くと生活保護の基準を下回りますが」と言われた。芸術とは困窮の別名である。ルネサンスの画家だってパトロンがいなければ飢え死にしていた。僕にはパトロンがいないので、団地の遺影を五万円で引き受ける。


現場は東京郊外の、丘の上に建つ団地だった。


正式名称は「ときヶ丘第三住宅」。一九七一年竣工。鉄筋コンクリート造、五階建て、全四棟、総戸数二百四十。高度経済成長期の申し子みたいな建物だ。どの棟も同じ形をしている。直方体。装飾性ゼロ。「人間を格納する」という目的に対して最もコスト効率の高い解を求めた結果がこの形なのだろう。ル・コルビュジエが言うところの「住むための機械」。もっともコルビュジエが想定した機械はもう少し格好よかったはずだが。


住人はほとんど退去済みだった。駐車場に車はなく、集合ポストは全てテープで封がされていた。かつてはベランダに洗濯物が翻り、子供が走り回り、夕方になれば台所の窓に明かりが灯ったのだろう。今は何もない。五十年間ぶんの生活の痕跡が、すでにほとんど消えている。


管理事務所で鍵を受け取った。「自由に撮っていただいて結構です。ただし最上階の屋上は柵が老朽化しているので気をつけてください」と管理人のおじさんに言われた。了解した旨を伝えて、僕はカメラバッグを肩にかけ、一棟目に入った。



§



建物の中は静かだった。


僕のスニーカーがリノリウムの床を踏むたびに、ぺた、ぺた、と間抜けな音が廊下に反響した。この廊下をかつて何千人が歩いたのか。朝は通勤と通学の足音で溢れ、昼は主婦たちのスリッパのぱたぱたが行き交い、夜は酔った亭主のよろめく足取りが響いたのだろう。今は僕の間抜けなスニーカーだけだ。


各階を回りながら撮影した。外観、廊下、階段室、ベランダ側、エントランス。建物の構造がわかるように全体を押さえつつ、ディテールも拾っていく。壁のひび割れ。排水管の錆。手すりの塗装が剥がれて下地の鉄が見えているところ。五十年の歳月が建物に刻んだ皺のようなもので、こういうものに僕は自然とレンズを向けてしまう。誰に頼まれたわけでもなく。報告書に使われるのは全体が写った引きの写真で、手すりの錆の接写なんか誰も求めていないのだが、撮らずにはいられない。


三号棟に入ったとき、四階の廊下で足が止まった。


一つだけ、ドアに表札が残っている部屋があった。他の部屋はすべて表札が外されている――退去の際に持っていくか、管理側が撤去したのだろう――のに、この部屋だけ。白いプラスチックの表札。手書きの文字。


「上原」


マジックで書かれた文字はだいぶ薄れていたが、読めた。画数の少ない、丸みのある字だった。几帳面な人の字ではない。どちらかといえば大雑把な人の字だ。表札を書くときくらい丁寧に書けばいいのに、と思ったが、もしかしたらこの人にとってはこれが丁寧な字だったのかもしれない。精一杯丁寧に書いて、この字。そう思ったらなんだか妙に愛おしかった。


シャッターを切った。


表札の写真は報告書には絶対に使われない。個人情報だ。使えるわけがない。でも撮った。僕のカメラの中にだけ、「上原」さんの表札が残る。この建物が壊されたら、この表札も瓦礫と一緒に処分される。そのとき、この表札が存在したことを証明できるのは僕のSDカードだけになる。


――こういうことを考え始めるから、フリーランスのカメラマンの年収は百九十万円なのだ。求められていない写真を撮り、求められていない感傷に浸り、求められていない意味を見出す。需要と供給の不一致。経済学の初歩である。



§



四棟すべての内部を撮り終え、最後に屋上を残していた。四号棟、つまり丘の最も高い位置に建つ棟の屋上。管理人によれば、ここからの眺望がこの団地の唯一の自慢だったらしい。「西側が開けてましてね。夕日がきれいなんですよ。住人さんたちはよく屋上で夕日を見てました。今は鍵かけてますけど」と言っていた。


階段を上がった。最上階の、さらに上。屋上に通じる鉄の扉。管理人から預かった鍵で開ける。蝶番が悲鳴のような音を立てた。何年も開けられていなかった音だ。


扉の向こうに出た。


空が、広かった。


五階建ての団地の屋上。大した高さではない。タワーマンションの住人が見たら鼻で笑うような標高だ。だがこの団地は丘の上に建っている。丘の高さと建物の高さが足し合わされて、西側の視界が大きく開けていた。住宅街の屋根が低く連なり、その向こうに雑木林の緑があり、さらに向こうに遠くの山並みがうっすらと見える。空が広い。東京郊外の、さして特別でもない風景だが、この高さから見ると不思議な解放感があった。


カメラを構えた。


もうすぐ夕方だ。二月の太陽は傾くのが早い。西の空が黄色みを帯び始めていた。この時間帯の光は写真に向いている。斜光。建物の凹凸を浮かび上がらせ、影が長く伸びて、構造物に表情を与える。まさにこの光を狙って午後遅くに来たのだ。僕のようなフリーランスは腕ではなく段取りで勝負するしかない。


屋上を一周しながら、各方位を撮った。東西南北。引きで全景を収め、次にフェンス際に寄って俯瞰のアングルを試す。フェンスの金網にカメラのレンズを差し入れると、五階分の高さの下に団地の中庭が見えた。雑草が伸び放題になっている。砂場の砂がカチカチに固まっている。ブランコの鎖が錆びて、風が吹いても動かなくなっている。


この砂場で遊んだ子供はもう大人になっている。このブランコを押した親はもう老いている。あるいは、もういない。


――またやっている。求められていない感傷。五万円の仕事に感傷は含まれていない。さっさと撮って帰れ。帰ってRAW現像して、来週中に納品して、請求書を出す。それが仕事だ。


西側のフェンス際まで歩いた。ここがいちばん眺めがいい。太陽が山並みの上にかかっていた。もう少しで沈む。あと三十分もすれば黄金色の時間帯が来る。


カメラの設定を確認していたとき、背後で鉄の扉が軋む音がした。


振り返った。



§



女性が立っていた。


屋上の扉を開けて、一歩だけ踏み出したところで止まっている。僕と目が合って、向こうも止まった。


一瞬、身構えた。管理事務所の鍵で入ったこの屋上に、自分以外の人間がいるはずがない。住人はほぼ退去している。不法侵入か、あるいは――屋上、フェンス、一人の人間、という組み合わせから最悪のシナリオが脳裏をよぎった。


だが彼女の様子にそういう切迫感はなかった。ダウンジャケットにジーンズ、スニーカー。肩にトートバッグ。片手にコンビニのビニール袋。身投げする人間がコンビニ袋を持っているとは考えにくい。


「あ、すみません」


驚いているが、声は落ち着いていた。


「いえ――こちらこそ。私は撮影で入ってるんですが……」

「あ、はい。管理人さんに聞いたら、カメラマンの人がおるやろから最後やし見てきぃて」


関西弁だった。彼女は扉を閉めて、屋上に出てきた。三十歳前後。長い髪を一つに結んでいる。目の下にうっすらとくまがある。疲れているのか、泣いたあとなのか、あるいはそういう顔立ちなのか。初対面の人間の顔を読むのは危険だ。カメラマンは被写体を観察するのが仕事だが、観察と推測は違う。推測は大抵間違う。


「写真ですか」

「はい。取り壊しの前に記録を残す仕事で」

「ああ――遺影みたいなもんですね」


僕が頭の中で使っていた言葉と同じものが、この人の口から出てきた。少しだけ驚いた。


「そうですね。遺影、だと思います」

「ほな邪魔せんように端っこにおりますわ。気にせんでやってください」


彼女はフェンス際まで歩いていき、西側の景色のほうを向いて立った。コンビニ袋から缶コーヒーを出して、プルタブを開けた。カシュ、という音が屋上の広い空間に吸い込まれた。


僕は撮影を続けた。続けようとした。だが、意識がどうしても彼女のほうに引っ張られた。夕日を受けて立っている後ろ姿。髪を束ねたうなじに西日が当たっている。長い影が足元からコンクリートの屋上を横切って伸びていた。


――ファインダーが彼女を欲しがっていた。


これは比喩ではあるのだが、比喩でしか言えない感覚だ。カメラを構えていると、たまにこういうことが起きる。風景の中に「撮るべきもの」が突然現れる。光の加減と被写体の位置と空間の構成が、ある一点で完璧に合致する。そのとき、ファインダーが――あるいは僕の目が――吸い寄せられるように被写体を捉えようとする。意志ではなく、もっと手前の、反射に近い衝動。


だが相手は建物ではなく人間だ。勝手にレンズを向けるわけにはいかない。肖像権とかプライバシーとかいう法的な話もあるが、それ以前に、人を撮るということは相手の時間の一瞬を奪うことだ。許可なく奪うのは泥棒と同じである。


「あの、すみません」

「はい」


彼女が振り返った。缶コーヒーを両手で包むように持っていた。


「カメラを向けてもいいですか。建物と一緒に――この場所に人がいた、という記録として」


我ながら苦しい言い訳だった。「この場所に人がいた、という記録」。嘘ではないが、嘘の親戚くらいの距離にはある。正確に言えば「あなたを撮りたい」だ。夕光を受けたあなたの後ろ姿を撮りたい。でもそう言うとナンパになるので言えない。建物の記録という大義名分を間に挟む。卑怯だが、卑怯でなければ僕はシャッターを切ることすらできない。


彼女は少し考えた。三秒ほど。缶コーヒーの縁を親指でなぞりながら。


「……顔は写ります?」

「いえ、逆光のシルエットになると思います。誰だかわからない感じの」

「ほな、ええですよ」


頷いて、また西のほうを向いた。フェンスに軽く手をかけて、夕日を見ている。


僕はカメラを構えた。ファインダーを覗いた。


二月の夕日が西の空を焼いていた。山並みのシルエットが黒く横たわり、その上に橙から紅へのグラデーションが広がっている。空の色が刻一刻と変わっていく。フェンスの金網が逆光で細い線の集積になり、その手前に彼女の輪郭がある。ダウンジャケットの肩のライン。うなじから後頭部にかけてのカーブ。一本に束ねた髪の先端が、わずかな風に揺れている。


シャッターを切った。一枚。もう一枚。三枚目で、彼女が少し首を傾けた。何かを思い出しているような、あるいは思い出すのをやめたような、そういう角度の変化だった。四枚目。五枚目。連写はしなかった。一枚一枚、間を取って撮った。この瞬間は連写で消費していい瞬間ではないと思った。


「ここから見る夕日がもう見られへんなると思て。来たんです」


彼女がフェンスのほうを向いたまま言った。独り言のような声量だった。僕に聞かせるためというより、この場所に向かって言っているようだった。


「この団地で育ったんですか」

「生まれてから十八まで。四号棟の四〇三。ちょうどこの棟の四階です」


四号棟四〇三号室。さっき撮影した階だ。四階の廊下。あそこに表札が残っていた部屋があった――「上原」。


「上原さん?」


言ってから、しまった、と思った。唐突すぎる。なんで名前を知っているんだという話になる。


彼女が振り返った。目が少し大きくなっていた。


「なんで――」

「四階に、表札がひとつだけ残ってたんです。手書きの。撮影中に見つけて」

「ああ――」


彼女は少し笑った。困ったような、懐かしいような、判別のつかない笑い。


「お母さん、外すの忘れたんかな。それか、わざと残したんか。あの人のことやからどっちもありえるな」


缶コーヒーをひと口飲んだ。視線は西の空に戻っている。


「上原です。あ、今は名字変わってますけど。ここに住んでたときは、上原」

「三好です。写真の」

「三好さん。写真の仕事って、こういうのが多いんですか。壊される建物の」

「いえ、今回が初めてです。普段は――普段は、あんまり仕事がないので、来たものは基本全部受けます」


正直に言いすぎた。「フリーランスなので幅広くやってます」くらいの言い方にしておけばよかったのに、口が勝手に事実を喋った。年収百九十万円のカメラマンの悲哀が滲み出ている。滲ませるな。


「ふふ。正直な人ですね」

「正直というか、嘘が下手なだけです」

「それを正直言うんちゃいます?」


返す言葉がなかった。缶コーヒーを飲もうとして、自分は何も持っていないことに気づいた。飲み物がないと手持ち無沙汰になる。カメラを持っているから手自体は埋まっているのだが、心理的な手持ち無沙汰というものがある。


上原さんはコンビニ袋からもう一本、缶コーヒーを取り出した。微糖。


「よかったらどうぞ。二本買ってしもてて」

「いいんですか」

「屋上で一人で二本飲む人のほうが心配されるやろ」


受け取った。ぬるかった。コンビニ袋の中でしばらく経っていたのだろう。冬の屋上で飲むぬるい缶コーヒーは、美味いとも不味いとも言いがたい微妙な温度だった。だがその微妙さが、この場には合っていた。熱すぎず冷たすぎず、ちょうどいい中途半端さ。


「上原さんは、いつまでここに住んでたんですか」

「十八まで。高校卒業して、大阪に行きました。大学が大阪やったんで。そっからずっと大阪で――今日だけ、こっち来てます」

「わざわざ」

「わざわざ。夕日見るためだけに。あほみたいやけど」


あほみたいなことではないと思った。思ったが言わなかった。初対面の人間に「あほみたいなことじゃないですよ」と言うと、何様だお前は、という話になる。代わりに「いい夕日ですね」と言った。月並みにもほどがあるが、月並みなことしか言えないときは月並みなことを言うしかない。


「ここからの夕日、団地の自慢やったんです。子供のころ、お父さんとよう見に来た。屋上は本当は勝手に入ったらあかんかったんですけど、お父さんが鍵の開け方知っててね。針金でがちゃがちゃやるとすぐ開くねん、て。不法侵入の英才教育ですわ」


僕は笑った。声に出して笑うつもりはなかったのに、出てしまった。不法侵入の英才教育。この人の言葉の選び方が好きだ――と思ってから、「好きだ」という単語が脳内に出現したことに自分で驚いた。言葉の選び方が好き。表現の話だ。人格全体の話ではない。落ち着け。


「お父さんは」

「八年前に亡くなりました」


さらっと言った。感情を排除しているのではなく、もう十分に通過したあとの声だった。八年という時間が、事実をただの事実にしている。


「そうでしたか」

「ここから夕日見ると、お父さんと来たときのこと思い出すんです。べつに大した話はしてなくて。学校どうやとか、給食なに出たとか。しょうもない話ばっかり。でもその――しょうもなさが、よかったんやと思う。今思えば」


上原さんは缶コーヒーを飲み干して、空き缶を両手で包んだ。アルミの缶が小さな音を立てた。


「取り壊されたら、この景色もなくなりますね」


僕は言った。言ってから、当たり前のことを言ってしまったと思った。取り壊しの記録を撮りに来ている人間が「取り壊されたらなくなりますね」と言うのは、医者が「人間はいつか死にますね」と言うのと同じくらい無意味だ。


だが上原さんは頷いた。


「なくなります。ここも、四〇三の部屋も、お母さんの表札も。全部」


西の空が、橙から紅に変わりつつあった。太陽の下端が山並みに触れていた。あと数分で沈む。


「三好さん」

「はい」

「さっき撮ってくれた写真て、どうなるんですか」

「報告書に添付されて、市の記録として保管されます。たぶん誰も見ない棚に」

「誰も見ぃひん棚に」

「はい」


上原さんはまた少し笑った。さっきと同じ、困ったような懐かしいような笑い。


「それでも、残るんですね。写真は」

「残ります。紙がもつ限りは。データがもつ限りは。建物よりは長く」


言いながら、自分がこの仕事を引き受けた本当の理由が、五万円ではなかったことに気づいていた。五万円は理由の表面で、その下にあったのは――消えるものを記録するという行為そのものへの、たぶん執着だ。美しいものが消えることに耐えられないのではなく、消えることを記録することで何かが残ると信じたい。信じたいだけで、実際には誰も見ない棚に眠るだけかもしれないが、それでも撮る。撮らないよりましだと思いたい。百九十万円の人間の、百九十万円ぶんの矜持。


太陽が半分沈んだ。


「もう少しだけ、撮ってもいいですか」

「ええですよ」


上原さんはフェンスに背中を預けて、夕日を見ていた。さっきとは向きが変わっていた。フェンスに手をかけて外を見ていたのが、今はフェンスにもたれて、屋上のコンクリートの床と、その向こうの扉のほうを見ている。


「どっち向いたらいいですか」

「そのままで。今のままが――いいです」


ファインダーを覗いた。彼女の背後に夕日がある。半分沈んだ太陽が、空を紅く燃やしている。逆光。彼女の表情は影になって見えない。シルエットだけが、濃い輪郭線になって夕空に切り取られている。


シャッターを切った。


液晶モニターで確認した。黒いシルエット。フェンスの金網。紅い空。腕を組んで屋上の床を見ている女性の輪郭。顔はわからない。誰なのかもわからない。でも、この場所に確かに人がいて、確かにこの夕日の中に立っていた――その事実だけが焼きついている。


いい写真だった。報告書には使えない。使えないが、いい写真だった。


「撮れました?」

「はい」

「見せてもらっても」


カメラの液晶を見せた。上原さんは画面を覗き込んで、数秒間じっと見ていた。


「……きれいやなぁ」


呟くように言った。夕日のことを言っているのか、写真のことを言っているのか、あるいはここから見えるすべてのことを言っているのか、わからなかった。


「よかったら、この写真、送りますよ。連絡先を教えてもらえれば」

「ほんまに? ええんですか」

「もちろん。これは報告書には使わないので。僕のカメラの中にあるだけの写真です」


上原さんはトートバッグからスマートフォンを出しかけて、止まった。


「あ――先にこっちやらせてください。降りましょう。暗くなる前に」


太陽が完全に沈んでいた。空にはまだ残照があったが、屋上は急速に暗くなりつつあった。二月の夕暮れは容赦がない。光が消えるのが早い。さっきまで紅かった空が、藍色に変わり始めていた。


「そうですね。足元が見えなくなる」


二人で扉に向かった。僕が先に扉を開け、階段室に入った。上原さんがあとに続いた。


「ここ、暗いですね」

「足元気をつけてください。非常灯しか点いてないので」


薄緑色の非常灯に照らされた階段を、二人で降り始めた。



§



五階。


階段を降りてフロアに出ると、上原さんが廊下の奥を見て立ち止まった。


「五〇一。ここ、田中のおばちゃんの部屋やった」


僕も立ち止まった。五〇一号室。ドアは閉まっている。表札はない。


「田中のおばちゃん、毎朝五時に起きてラジオ体操してはってん。屋上で。一人で。雨の日も。雪の日も。壁が薄いから、おばちゃんの目覚まし時計の音がうちの部屋まで聞こえてきて。お母さんがいっつも『田中さんの目覚ましで起こされるわ』って言うてた。でもある日おばちゃんの目覚ましが鳴らへん朝があって。お母さんが様子見に行ったら――」

「――」

「入院してはったんです。膝悪くしてね。ラジオ体操できひんなった。退院してからもう屋上には来ぃひんなって。そしたらお母さんが寝坊するようになってん。目覚まし代わりがなくなったから」


上原さんはふっと笑った。


「田中のおばちゃん、もう亡くなりました。おばちゃんの部屋からも夕日きれいやったんですよ」


僕は何も言えなかった。何も言えないまま、五〇一号室のドアにカメラを向けた。向けて――ファインダーを覗いて――シャッターを切った。何を撮ったのか、自分でもわからなかった。閉じたドアだ。それだけだ。でも今、上原さんの言葉を聴いたあとにこのドアを見ると、ただのドアではなくなっていた。目覚まし時計の音と、ラジオ体操と、膝の痛みと、もういない人の朝の気配が、このドアの向こうにあった。


「すみません。変な話して」

「いえ。聞かせてください」


階段を降りた。



§



四階。


上原さんの家があったフロアだ。


「四〇三。ここです」


表札が残っている部屋の前で、上原さんが立ち止まった。「上原」の手書きの表札を見上げて、指先で軽く触れた。


「お母さんの字。相変わらず下手やなぁ」


愛おしそうだった。文字を見る目が、文字の向こうにいる人を見ていた。


「ここで十八年。六畳二間の2DK。家族三人にはちょっと狭かったけど、お父さんが日曜大工で棚作ってくれて。本棚。私が本好きやったから。壁一面の本棚。荷重のこと何にも考えへんで作るから、お母さんに『床抜けるで』って怒られて。結局抜けへんかったけど」


四〇三号室のドアの前で、上原さんはしばらく黙った。ドアノブに手を伸ばしかけて、やめた。鍵がかかっていることを知っているのか、あるいは開けてしまうのが怖いのか。


「開けたら何もないんやろな。当たり前やけど。家具も全部持っていったし。お父さんの本棚も、もうない。でも――壁にビスの穴は残ってるかもしれへん。本棚を固定した穴。お父さんがドリルで開けた穴」


僕はまたシャッターを切っていた。ドアの表札。上原さんの指先。報告書には使えない写真がまた増えた。


「降りましょか」


上原さんが歩き出した。僕はもう一度だけ四〇三号室のドアを振り返り、それから彼女のあとを追った。



§



三階。


「三〇七。ここは吉田くんの家」

「吉田くん」

「小学校のときの同級生。ここで初めて好きな人ができたんです」


上原さんの声が、少しだけ明るくなった。


「好きて言うても小学三年やから、もうほんまにしょうもないですよ。吉田くんが給食のプリン私にくれたんです。自分のぶん。『俺プリン嫌いやから』て。あとから別の子に聞いたら、吉田くん、プリン大好きやったんですけどね」


笑った。笑いながら三〇七号室のドアの前を通り過ぎた。


「吉田くん、中学で引っ越して。それっきり。あのプリンの味だけ覚えてます。いや、味は覚えてない。味は給食のプリンやからそないに美味ないに決まってる。覚えてるのは――渡されたときの吉田くんの手が震えてたこと」


三階の廊下をゆっくり歩いた。非常灯の薄い光の中で、閉ざされたドアが等間隔に並んでいた。全部閉まっている。全部、中にはもう誰もいない。でも上原さんの言葉の中では、まだ住人たちが暮らしている。プリンを差し出す手が震えている。目覚まし時計が鳴っている。壁一面の本棚に本が並んでいる。


「三好さん、写真て、建物の何を撮るんですか」


階段の踊り場で、上原さんが聞いた。


「構造ですかね。壁とか天井とか配管とか。建物の物理的な状態を記録する――のが、依頼としては」

「依頼としては。ほな、依頼以外では?」


鋭い質問だった。僕は一瞬詰まって、それから正直に答えた。嘘が下手なので。


「……人の気配、だと思います。壁のひび割れとか、手すりの錆とか、ドアの傷とか。何十年もかけて人が使った痕跡。それを撮りたいんだと思います。依頼にはないんですけど」

「撮ってるんですか。そういうのも」

「はい」

「見せてもらってもいいですか。あとで」

「いいですよ。報告書には使えない写真ばかりですけど」

「報告書に使えへん写真のほうが、見たいです」



§



二階。


「二一〇。山田さんの部屋。おじいちゃん一人で住んでて、毎晩ベランダで煙草吸ってはった。うちのベランダと近いから、煙がこっちに来て、お母さんが洗濯物に匂いつくって怒ってたけど――でも山田さんが入院してから、ベランダに煙草の匂いがせぇへんくなったとき、お母さん泣いてた。洗濯物が匂わへんなったのが寂しいて。変な話やけど」


変な話ではなかった。匂いも気配の一つだ。人がいた証拠は、視覚だけではない。匂い。音。温度。それらは写真には写らない。写らないけれど、上原さんの言葉を通じて、僕の中に確かに像を結んでいた。レンズを通さない写真。言葉でできた写真。


「上原さん」

「はい」

「この建物のこと、すごくよく覚えてますね」

「そら覚えてますよ。十八年おったんやから。覚えてるし、忘れたない」


少し間があった。


「忘れたないけど、忘れてくんです。田中のおばちゃんの目覚ましの音も、吉田くんの手の震えも、山田さんの煙草の匂いも。年々薄なってく。建物がなくなったら、もっと忘れる思う。場所がなくなると、そこに紐づいてた記憶も一緒にほどけてくから」


上原さんの声が、わずかに湿った。関西弁のイントネーションが少し崩れた。


「――せやから、見にきたんです。最後に。ここに立って、覚えてるうちに、もう一回」


階段を降りた。あと一階。



§



一階。


エントランスに出た。


集合ポストが並んでいる。全てテープで封がされている。かつてはここに新聞や手紙が届いた。ダイレクトメールが溢れ、年賀状が届き、たまに書留が来て不在票が入った。日常の、どうということのない循環。それがすべて止まっている。


上原さんがエントランスのドアの前で立ち止まった。ガラス扉の向こうに、団地の中庭が見えた。砂場。ブランコ。固まった砂と錆びた鎖。薄暮の中に沈んでいる。


「ここでよう遊んだ。この砂場で泥団子作って、あのブランコで立ち漕ぎして――」


声が途切れた。


上原さんは黙って中庭を見ていた。ガラス越しに。五秒。十秒。肩が小さく震えたのが見えた。泣いているのだと思った。確信はなかったが――確信がなくても、僕はカメラを下ろした。今この瞬間を撮ることはできなかった。撮るべきではなかった。


「すみません」


上原さんが目元を手の甲で拭った。さっきと同じ仕草。朗読――いや、屋上で缶コーヒーを飲んでいたときには見せなかった顔だった。


「ごめんなさい。泣くつもりなかったんですけど」

「いえ。泣いていい場所だと思います、ここは」


言ってから、柄にもないことを言ったと思った。しかし本心だった。五十年間、二百四十世帯が暮らした場所だ。生まれた人もいれば、死んだ人もいる。喧嘩した人も、仲直りした人もいる。プリンをくれた人も、煙草を吸った人も、ラジオ体操をした人もいる。その全部が消えようとしている。泣いていい。泣くべきだとすら思う。


上原さんは鼻を啜って、笑った。泣き笑い。


「三好さん、優しいですね」

「優しくはないです。嘘が下手なだけで」

「また言うてる。それ」



§



団地の外に出た。


空はほとんど暗くなっていた。西の端にだけ、かすかに橙色の残照がある。それももうすぐ消える。


駐車場の入口で立ち止まった。ここから先は、僕は駅のほうへ、上原さんはたぶんバス停のほうへ。別の方向だ。


「あの――連絡先」

「あ、そうでした。写真、送ってもらえるんでしたっけ」

「はい。屋上の写真と、それから――四〇三のお母さんの表札の写真も撮ったんです。よかったら」


上原さんがスマートフォンを取り出した。僕もスマートフォンを出した。連絡先を交換した。事務的な動作のはずだったが、僕の指がわずかに震えていた。気温のせいだと自分に言い聞かせた。二月の夕暮れは寒い。震えて当然だ。


「ありがとうございます。写真――楽しみにしてます」

「報告書に使えないやつばかりですけど」

「さっきも言いましたけど」


上原さんが笑った。今日何度目かの笑みだったが、これが一番よかった。泣いたあとの顔で、鼻が少し赤くて、目元がまだ湿っていて、でも笑っている。この笑顔を――撮りたい、と思った。思ったが、カメラはバッグの中だった。この笑顔は僕の目にだけ残る。レンズを通さない写真。


「報告書に使えへん写真のほうが、ええんです」


上原さんが歩き出した。バス停の方向へ。数歩進んで、振り返った。


「三好さん」

「はい」

「この団地の写真、全部撮り終わったら――見せてもらえますか。報告書に使うやつも使わへんやつも。全部」

「全部ですか」

「全部。手すりの錆も、壁のひび割れも、ドアの傷も。人の気配が写ってるやつ」


僕がさっき言った言葉を、彼女は正確に覚えていた。


「見せます。いくらでも」

「ほな、また連絡しますね」

「はい」


上原さんが手を振った。小さく。それからバス停のほうへ歩いていった。ダウンジャケットの背中がだんだん小さくなって、街灯の光の中に溶けていった。


僕は駐車場に立ったまま、しばらく動かなかった。


カメラバッグが肩に食い込んでいた。今日一日で何百枚撮ったかわからない。そのうち報告書に使えるのはせいぜい五十枚。残りは――残りは全部、誰にも求められていない写真だ。手すりの錆。壁のひび。表札の手書き文字。閉じたドア。屋上のシルエット。


でも今日、それを「見たい」と言った人がいた。


全部、と言った。報告書に使えない写真を見たい、と言った。この団地に五十年ぶんの生活が積もっていたように、僕のカメラにはこの一日ぶんの気配が積もっている。それを見たいと言ってくれた。


五万円の仕事だった。交通費込み。安い。


でも今、僕のスマートフォンの連絡先に「上原さん(団地)」という名前が一つ増えている。「(団地)」という注記が我ながらどうかと思うが、他に適切な識別子が思い浮かばなかった。「上原さん(屋上で会った)」「上原さん(缶コーヒーをくれた)」「上原さん(夕日のシルエットがきれいだった)」――どれも正しいが、どれも長すぎる。「(団地)」が最も簡潔で、最も多くを含んでいた。


帰りの電車で、今日撮った写真をカメラの液晶で見返した。


屋上のシルエットの写真で手が止まった。


紅い空。黒い輪郭。フェンスの金網。腕を組んで足元を見ている女性。顔はわからない。名前もわからない。この写真だけを見たら、この人が誰で、なぜここにいて、何を思っていたか、誰にもわからない。


でも僕は知っている。


この人は上原さんで、十八年間をこの団地で過ごして、お父さんと屋上で夕日を見て、田中のおばちゃんの目覚ましで朝が始まって、吉田くんにプリンをもらって、山田さんの煙草の匂いの中で洗濯物を干して――それら全部が消えることを知っていて、それでもここに来た。最後に、もう一回。


この写真は報告書には使えない。市の記録棚には収まらない。


でも僕のカメラの中に残る。僕のハードディスクに残る。そしていつか、上原さんに送る。上原さんのスマートフォンの中に残る。建物が壊されても、砂場がなくなっても、表札が瓦礫になっても――この写真の中に、あの夕日の中に立っていた人の輪郭は残る。


消えるものを記録するのが僕の仕事だ。年収百九十万円の、誰にも求められていない仕事。でも今日、一人だけ、求めてくれた人がいた。全部見たいと言った人がいた。


電車が駅に着いた。ホームに降りて、改札を出て、夜の道を歩いた。


スマートフォンに通知が来ていた。上原さんからだった。


《今日はありがとうございました。帰りのバスの中で思い出したんですけど、四〇三の部屋のベランダから見る夕日も、屋上とはまた違ってきれいやったんです。お父さんが「ここからの夕日は額縁に入っとるみたいやな」て言うてて。ベランダの窓枠が額縁みたいに見えるんです。もし撮影の日がまだあるなら、四〇三の中も撮ってもらえたりしますか。管理人さんに頼んでみます》


もう一通。


《あと、缶コーヒー、ごちそうさまでした。あ、ちゃうわ、あげたの私やった。ごちそうしたのこっちやった。まあええか。ほな》


僕は夜道の真ん中で立ち止まって、スマートフォンの画面を見た。「まあええか。ほな」の四文字が妙に温かかった。


返信を打った。


《四〇三のベランダからの夕日、ぜひ撮らせてください。額縁の夕日。いい写真になると思います。管理人さんへの連絡、よろしくお願いします》


送信した。少し迷ってからもう一通。


《缶コーヒーごちそうさまでした。次は僕が持っていきます》


既読がすぐについた。


《微糖でお願いします》

《了解です》

《あと》


三秒ほど間があった。


《報告書に使えへん写真、ほんまに楽しみにしてます》


僕はスマートフォンをポケットにしまって、歩き出した。


夜空を見上げた。星は見えなかった。東京の空だ。見えるわけがない。でも上原さんの団地の屋上からなら――五十年前なら――見えたのかもしれない。もう確かめようがないが。


確かめようがないものを想像すること。消えたものの気配を記録すること。そこに価値があると信じること。年収百九十万円のカメラマンにできるのは、それくらいだ。それくらいのことを、明日もやる。明後日もやる。そしていつか――たぶん近いうちに――四〇三号室のベランダから夕日を撮る。額縁の夕日を。上原さんのお父さんが見た景色を。


缶コーヒーを二本持って。

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