第8章 千佳と真美
伊勢から帰った日の夜、珍しく兄嫁の真美が、千佳子のアパートの部屋を訪ねてきた。
千佳子の部屋には、二人掛けのカウチソファーしかないから、並んで座る。
「ごめんね。夜遅くに」
「いえ、中へどうぞ。今ちょうどお茶を入れていたところだから」
千佳子は、買ってきたばかりの伊勢茶と岩戸餅を並べる。
「あっ!岩戸餅。赤福もいいけれど、これもいいよね。さすがは千佳ちゃん、お目が高い。いただきます」
真美が早速手を伸ばす。そして伊勢茶を口にする。
「やっぱりこれよねぇ。あぁ美味しい」
真美のくつろいだ口調に、思わず千佳子も和む。
並んで座って前を向いたまま、真美が千佳子に語りかける。
「千佳ちゃん、ずっと頑張ってたもんね」
「はい、だから今日はゆっくりできて、たっぷり充電してきましたから。
明日から、またバリバリ働きますね。
私は出戻りだから、皆の役に立たないと」
「そうじゃなくて、千佳ちゃんは子どもの頃からずっと頑張ってきたんだよ」
真美のその言葉に、千佳子は言葉を失う。
真美は、千佳子の膝にそっと手をのせて、言葉を続けた。
「あのお母さんの娘を、ずっとやってきたのって、相当大変だったと思うの。
幼稚園児ぐらいの頃から、すごく頑張ってきたんだと思う」
千佳子は、胸が詰まり、涙があふれてきた。
「もちろん、お義母さんは、悪い人じゃないわよ。
でも善意だから、反発できなくてしんどいこともあるのよ」
子どもの頃の母との光景が、千佳子の胸をよぎる。
本当はブルーを選びたかったのに、女の子なんだからと、何も聞かずにピンクを渡されたこと。
勿体ないからと兄のおさがりの男児用のカーディガンを着せられたこと。
千佳子にはこれが似合う、千佳子はこれが好きよね…そんな母の声が蘇る。
「お義母さんのご両親も明治生まれの厳しい方だっただろうし、苦労されたんだと思うの。
特に戦争中の物の無い、“欲しがりません。勝つまでは”の時代を体験されているから、私たちの世代とは、価値観が全然違うし」
「でも、超能力者じゃないんだから、お互いに、言葉にして表現して、思いを確認していかないとね」
「千佳ちゃん、 嫌なことは“NO”、“嫌だ”って、少なくともこの家族の中ではどんどん言っていいからね。
先回りして、応えなくていいから。優しさって我慢強さじゃないからね。そのことを忘れないでね」
「真美さん…どうして…」
「私は浩一さんと、いっぱい喧嘩もして、言い合いもしてきた。
でも大好きだったから、とことんやりあって、乗り越えてきたんだ。
浩一さんとだから出来たんだと思う」
兄は、いい人と結婚したんだなと素直にうらやましく思えた。
「私も、いつか誰かと二人みたいになれるかな」
「千佳ちゃんが、自分自身の本音を表現すればするほど、その表現に惹かれる人との出会いの機会が増えるから。きっと大丈夫」
その夜、千佳子は久しぶりに朝までぐっすりと眠ることができた。




