表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

第7章 伊勢の森に吹く風

実家に戻った千佳子は、空白の時間を埋めるかのように働いた。

印刷所の仕事も、実家の家事も、アパートの管理も。

朝は誰よりも早く出勤し、前の道路や駐車場まで掃除をして、伝票を整理し、請求書を作り、電話を取り、来客対応をする。


「さすがは千佳子」

「おかげで助かる」

そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなるような気がした。


仕事を覚えた千佳子は、妊娠した兄嫁に代わって、営業にも出るようになった。

前職で面倒を見た卒業生が、注文に来てくれることもある。

風通しのよくなった家は、居心地がよかった。

母は要件を言葉にするようになり、相変わらず無口な父は、時折お茶を入れてくれる。

兄は社長として忙しそうだったが、以前よりずっと穏やかだった。

千佳子は前を向いているつもりだった。

けれど、兄夫婦や両親の、仲の良い様子を見るたびに、ツキンと胸の奥が傷んだ。

その痛みをかき消すように、

「離婚はもう終わったことだ、私の人生はまだまだこれから、私の居場所はここにある」

そう言い聞かせるように、毎日を忙しさで埋めていた。


ある夜遅く、事務所から徒歩30秒にあるアパートの自分の部屋に戻ると、何もする気が起きなかった。電気もつけず、床に座り込んで、しばらく動けずにいた。

「明日も早いんだから…」重い体を引きずって、何とかベッドに入ったけれど眠れなかった。


翌朝、兄嫁は千佳子の顔を一目見て言った。

「千佳ちゃん、昨日ちゃんと寝てないでしょう」

「大丈夫です」

「千佳ちゃん、答えはYESかNOだよ」

「その顔は大丈夫じゃないから。今日は有給ね」

「えっ、でも」戸惑う千佳子に封筒を差し出す。

「これは専務命令です。千佳ちゃんはこの半年働きすぎだから、今日は有給をとって、ここへ行ってきて」


封筒の中には、一組のチケットが入っていた。

「日帰りでも一泊でも、伊勢神宮へ行っておいで」

こんなに寝不足では仕事にならないし、部屋に戻っても眠れるような気がしない。

だから千佳子は、そのチケットを、ありがたく使わせてもらうことにした。

「正式参拝するなら、パンプスとスーツを持っていかなきゃだめよ」

という兄嫁の言葉を背中で聞きながら、一旦自分の部屋に戻る。

そして、荷物を手に、駅へと向かった。


電車の揺れで心地よく眠りを誘われて、気が付けば伊勢に到着していた。

外宮、内宮と、正式参拝をさせていただく。

伊勢の森を吹く風に、心が洗われていくようで。

悠久の時を超えてそこにある社殿。

失敗だった、自分はダメだと、どこかで自分のことを断罪し、封印していたその蓋が取れたように、溢れてくる様々な思いが、風にのって流れていくようだった。

過去から未来へ、すべてがつながっているように思えた。

無駄だったと切り捨ててきた出来事も、まだ名前がついていないだけかもしれない。

「そうか、私はよく頑張ったんだ。えらいぞ自分」

その時々の自分は、その時々の精一杯で、最善を選んでいたのだ。

内宮のご正殿で手をあわせていると、「ありがたい」という気持ちが自然と湧き上がってきた。

伊勢の森の風がもたらしてくれた優しさを、もう少し自分にも向けてみよう。

毎日を、もう少し丁寧に大切に生きよう。


これまでにないすっきりした気分になった千佳子は、おかげ横丁の真珠専門店で、自分のためにピアスを購入した。

学校でも職場でも、ピアスが禁止されていたけれど、千佳子はもう自由だ。

明日、近所の医院にピアッシングに行こう。

そう思いながら、千佳子は赤福餅を手に、帰路についた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ