第7章 伊勢の森に吹く風
実家に戻った千佳子は、空白の時間を埋めるかのように働いた。
印刷所の仕事も、実家の家事も、アパートの管理も。
朝は誰よりも早く出勤し、前の道路や駐車場まで掃除をして、伝票を整理し、請求書を作り、電話を取り、来客対応をする。
「さすがは千佳子」
「おかげで助かる」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなるような気がした。
仕事を覚えた千佳子は、妊娠した兄嫁に代わって、営業にも出るようになった。
前職で面倒を見た卒業生が、注文に来てくれることもある。
風通しのよくなった家は、居心地がよかった。
母は要件を言葉にするようになり、相変わらず無口な父は、時折お茶を入れてくれる。
兄は社長として忙しそうだったが、以前よりずっと穏やかだった。
千佳子は前を向いているつもりだった。
けれど、兄夫婦や両親の、仲の良い様子を見るたびに、ツキンと胸の奥が傷んだ。
その痛みをかき消すように、
「離婚はもう終わったことだ、私の人生はまだまだこれから、私の居場所はここにある」
そう言い聞かせるように、毎日を忙しさで埋めていた。
ある夜遅く、事務所から徒歩30秒にあるアパートの自分の部屋に戻ると、何もする気が起きなかった。電気もつけず、床に座り込んで、しばらく動けずにいた。
「明日も早いんだから…」重い体を引きずって、何とかベッドに入ったけれど眠れなかった。
翌朝、兄嫁は千佳子の顔を一目見て言った。
「千佳ちゃん、昨日ちゃんと寝てないでしょう」
「大丈夫です」
「千佳ちゃん、答えはYESかNOだよ」
「その顔は大丈夫じゃないから。今日は有給ね」
「えっ、でも」戸惑う千佳子に封筒を差し出す。
「これは専務命令です。千佳ちゃんはこの半年働きすぎだから、今日は有給をとって、ここへ行ってきて」
封筒の中には、一組のチケットが入っていた。
「日帰りでも一泊でも、伊勢神宮へ行っておいで」
こんなに寝不足では仕事にならないし、部屋に戻っても眠れるような気がしない。
だから千佳子は、そのチケットを、ありがたく使わせてもらうことにした。
「正式参拝するなら、パンプスとスーツを持っていかなきゃだめよ」
という兄嫁の言葉を背中で聞きながら、一旦自分の部屋に戻る。
そして、荷物を手に、駅へと向かった。
電車の揺れで心地よく眠りを誘われて、気が付けば伊勢に到着していた。
外宮、内宮と、正式参拝をさせていただく。
伊勢の森を吹く風に、心が洗われていくようで。
悠久の時を超えてそこにある社殿。
失敗だった、自分はダメだと、どこかで自分のことを断罪し、封印していたその蓋が取れたように、溢れてくる様々な思いが、風にのって流れていくようだった。
過去から未来へ、すべてがつながっているように思えた。
無駄だったと切り捨ててきた出来事も、まだ名前がついていないだけかもしれない。
「そうか、私はよく頑張ったんだ。えらいぞ自分」
その時々の自分は、その時々の精一杯で、最善を選んでいたのだ。
内宮のご正殿で手をあわせていると、「ありがたい」という気持ちが自然と湧き上がってきた。
伊勢の森の風がもたらしてくれた優しさを、もう少し自分にも向けてみよう。
毎日を、もう少し丁寧に大切に生きよう。
これまでにないすっきりした気分になった千佳子は、おかげ横丁の真珠専門店で、自分のためにピアスを購入した。
学校でも職場でも、ピアスが禁止されていたけれど、千佳子はもう自由だ。
明日、近所の医院にピアッシングに行こう。
そう思いながら、千佳子は赤福餅を手に、帰路についた。




