第6章 宮本活版印刷所
千佳子の夫にとっては、まさしく青天の霹靂のような離婚。
千佳子が彼の本心を察して、先回りして差し出し続けてきたから、彼から見れば、何も言わなくても整う快適な家庭生活だったのだ。
突然、よそよそしくなった千佳子に戸惑いながらも、彼は最終的に離婚に合意してくれた。子どももいなかったし、共働きだったから、財産分与も何もない。
ただ、同じ職場で働き続けるのは難しく、千佳子は退職することになった。
無職では部屋を借りることもままならず、千佳子は、両親と宮本印刷所を継いだ兄に頭を下げた。
実家では、三階を改装して、兄夫婦が同居していた。
兄と兄嫁は広告代理店の同僚で、職場恋愛。
三年前、「活版印刷の価値が、見直される時がくる」そういったのは兄嫁だった。
二人は退職し、同業者が次々廃業していく中、そろそろうちもと考えていた両親から、宮本印刷所を引き継いだのだ。
兄嫁は、よくも悪くも全く空気を読まない人だった。
帰国子女で、大学で心理学を専攻していたという。
「私は他人なので、言葉にされなければ分かりません」
それを文字通り実践する人だった。
「お母さんのご希望は、○○という理解であっていますか?」
「今の言い方だと、私は○○と受け取りましたが、違いますか?」
母の顔色を気にせず、淡々と問い返す。
「お聞きしていなかったので、知りませんでした」
そう言って引かない。
兄夫婦が両親と同居し始めた当初、千佳子は心配になって聞いたことがある。
「うちのお母さんと大丈夫?やっていけそう?」
兄嫁は少し考えてから、あっさり答えた。
「取引先の営業相手だと思えば、問題ないですよ。言語化がネゴシエーションの基本ですから」
思いがけない返答に、千佳子には返す言葉がなかった。
気付けば、母も変わっていった。要求を、はっきりと言葉にするようになっていた。
久しぶりに戻った実家は、空気がまるで違っていた。
「家族だからこそ、話し合いが大事だからね」と母が、家族全員を会議室に集めた。
「千佳子が帰ってきたいって言うの、真美ちゃんはどう思う?」と母は兄嫁に話を振った。
兄嫁の呼び方が、いつの間にか“真美さん”から“真美ちゃん”に変わっていた。
「即戦力の千佳ちゃんが来てくれたら助かります」
「ちょうど営業を強化しようと思っていたので。事務と経理をお願いできたら、私は外に出られます」
「千佳子が入ってくれたら、お父さんと旅行に行けるわ」と母が珍しく楽しそうに言った。
無口な父は何も言わないけれど、口元がほころんでいた。
「じゃあ、決まりだな」現社長の兄が言う。
「裏のアパートに一室空きがある。今夜から住める」
「おかえりなさい、千佳ちゃん。よろしくね」
兄嫁が、家に新しい風を吹かせてくれたのだ。
そうして千佳子は実家に戻った。




