第11章 名も知らぬ花
なかなか入居者の定まらなかった宮本活版印刷所のテナントビルだが、五年目にしてようやく街並みに馴染んできた。
一階の活版カフェは、週末になると満席になることも増えた。
真美のレシピによる本場仕込みのスコーンが人気だ。
ギャラリーでは小さな展示が毎月開催されるようになった。
活版印刷の漢字の名刺が、外国人観光客にも受けている。
二階のテナントも入居待ちが出るようになった。
花屋、古着屋、アンティーク雑貨、焼き菓子の工房、美容室。
駅前でも路面店でもないこの場所を気に入ってくれたのは、癖があって個性的な、でも自分の「好き」という感覚を大切にする店主たちだ。
「宮本さん、この建物は不思議と居心地がいいですね」
そう言ったのは、花屋の店主だ。
年齢は千佳子より少し上だろうか?
いつも同じデニムと白いシャツに、グリーンのエプロン姿で、植物の話をするときだけ、声のトーンが変わった。花屋の立地としては致命的に不利な二階という場所を、なぜかいたく気にいってくれたのだ。
「風が通るからかもしれません。不思議ですよね。この建物だけ」千佳子が応えると、
「妖精が住んでいるってことにしておきましょう」そう言って彼は笑った。
以来、顔をあわせれば挨拶をするだけで、特別な会話をするわけではない。
それでも、前を通るたびに覗かずにはいられず、入荷したばかりの珍しい植物や新しい花を見せてもらい、売れ残ったからといって、小さな花束をもらうのが習慣になっていた。
だから、千佳子は気を使って、知り合いの誕生日や小さな祝い事のたびに、この花屋に配達を頼むようにしていた。
お互いに役割を降りた、母との関係も少しずつ変化している。
母は相変わらず世話焼きではあるけれど、自分の要望をストレートに伝えてくれるようになった。
だから千佳子も、「それはできない」「これならできる」と、選択することができるようになった。
千佳子が察して、先回りして母の期待に応える必要がなくなったのだ。
完ぺきではないから、ときどき昔のクセが顔をだして、身構えてしまい、反射的に反応してしまうこともある。
でも、以前のように飲み込んで、我慢して、なかったことにはしなくなった。
今は、それで十分だと、千佳子は思っている。
ある夕方、花屋の前で足を止める。
「この花の名前は?」
千佳子が指さしたのは、白と淡い緑の少し不思議な形をした花だった。
花というより小さな星が集まっているように見えた。
「あれ、何だっけ、すみません度忘れしました。すぐ調べます」
花屋は大慌てで帳面をめくるけれど、焦ってうまく見つけられずにいる。
「あなたでも、度忘れしちゃうことがあるんですね」
千佳子は可笑しくなった。
「名前を知らないこの花が気に入りました。買って帰ります。名前は明日でいいです」
「すみません」花屋は謝りながら、その名前の分からない花を包んでくれた。
「名前が分からないものにお金はもらえない」
という訳のわからない理屈をこねて、プレゼントだと、少し強引に千佳子の腕に押し付けてきたので、ありがたくもらって帰ることにした。
自分の部屋に戻り、窓を開けて、花瓶に買ってきた花を生ける。
夜の風が、静かに通り抜けていく。
ちゃんとした娘、いい娘。
役割を降りる、肩書を外す。それは一度きりの決断ではなく、毎日の選び直しかもしれない。
誰かの期待に応える人生から、自分自身を生きる人生へ。
風向きが変わり、窓辺に置いた名前を知らない星のような花がそっと揺れた。




