第10章 解体と再生
千佳子は、何もない部屋を見回す。
ここは、もともと祖父が建てた職人寮だった。
千佳子が生まれる前から、ずっとここにあった。
職人が居なくなったあとは、誰かの住まいになり、何もかもなくした千佳子を受け止めてくれた避難場所になった。
「ありがとう」そう呟いてそっと扉を閉める。
1年前から新規入居を停止し、先日、最後の一軒が退去したので、明日から解体が始まる。
工事の間、実家の客間を利用することも考えたけれど、千佳子は駅前のウイークリーマンションを選んだ。
最低限の家具だけがある、機能的な部屋だった。
ここでは誰の気配もしない。
ずっとそんな時間と空間を求めていたような気がしても、本当に求めていたものはこれなのだろうか?
答えは出なかった。
アパートは三階建てのテナントビルに生まれ変わった。
一階は、活版印刷の工房とカフェとギャラリー、二階はテナント用の貸室、三階は貸し会議室と千佳子の住まい。
千佳子は、両親と一緒に母屋に住むことになるのだと諦めていたけれど、真美さんが
「千佳ちゃんは、これから恋も結婚もするんです。プライバシーが必要です」と、
千佳子の住まいを母屋にすると主張していた母を、黙らせてくれたと後で聞いた。
建物の完成と入れ替わるように、今度は母屋の解体が始まった。
新しい工房に、印刷機械を移し、仕事が止まることのないようにする。
台所の食器類や調理道具はカフェスペースに運び、テナントビルの2階の各室に、両親、兄夫婦、子どもたちが、家財道具を運びこみ、母屋の完成まで仮住まいとすることになった。
「合宿みたい」
誰かが言って、皆が笑った。
食事は一階のカフェスペース。
兄嫁が中心になって、簡単な日替わりメニューで回していく。
時々、コンビニ弁当やデリバリーで済ませることもあった。
風呂は三階の千佳子の部屋。
時間をずらして、順番に入る。
「今日はお先にどうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」
そんなやりとりが日常になっていった。
母は、最初こそ落ち着かない様子だった。
「部屋が広すぎて眠れないから、千佳子の部屋に行きたい」
「コンクリートに囲まれて牢獄にいるみたい」
と、皆に聞こえるように不満を口にしていたが、
「眠れないなら、ばあばと一緒に寝てあげる」
という孫の言葉に、一気に機嫌を回復し、
「ばあば、牢獄ってどこ、いってみたい」
という孫の無邪気さに、反省して文句を言わなくなった。
台所がないこと、自分の裁量で家事の段取りを采配できないことにも、少しずつ慣れていったようだった。
千佳子は、その姿を、少し不思議な気持ちで見ていた。
母はもう、仕切っていない。でも不機嫌でもない。
ある夜、最後に風呂からあがってきた母が、千佳子の隣に腰をおろした。
「この合宿生活も、意外と悪くないね」
「皆が、自分で自分のことやってくれるから、私も楽できるし」
「私が回さなくても、みんなちゃんとできるのね」
母が少ししんみりとした口調で言うのに千佳子は笑顔で答えた。
「そりゃあ、あなたの夫と、娘と、息子と、嫁ですからね」
「そうだったわね」
その時、ドアがガチャリと開けられ、賑やかな声が飛び込んでくる。
「ばあば、絵本読んで!一緒に寝るの!!」
「はいはい、わかったわかった」
「千佳ちゃんも、一緒に寝る?」かわいい声で誘惑してくる。
「千佳ちゃんは、今度でいいよ」
「ばあばは、さびしんぼうだから。よろしくね」
「は~い」
孫たちに背中を押されるように、去っていく母の背中に「おやすみ」と声をかけた。
千佳子は窓を開けた。
母屋の建設も終盤だ。完成が待ち遠しいけれど、きっと、この賑やかな夜のことを、懐かしく思い出す日が来るのだろう。
本人は無意識なのだろうけれど、母は、ちゃんとした妻、ちゃんとした母親という役割を降りて、宮本孝子という一人の女性の生き方へとシフトしようとしている。
私も、ちゃんとした娘という役割を降りよう。
宮本千佳子という一人の女性としての生き方へシフトしよう。
「ちゃんと」という実体のないものに、もう二度と振り回されない。
まだ方法は分からないけれど、気付けたのだから、きっと大丈夫だ。
そう決意した千佳子の頬を、夏の気配を含んだ風が撫でていった。




