復讐のために、私はチェーンソーを手に取った
それは、誰の記憶にも残らないような、ただの晴れた日だった。
けれど私――マリエル・ジェイソンにとっては、すべてが“音”を立てて崩れ落ちた一日でもある。
「婚約、破棄するよ。君とじゃなくて、もっとかわいい子を見つけたんだ♡」
あっけらかんと、そして満面の笑みで言い放った男の名は――シグルド・ケイネス。
王立騎士団の若きエースであり、私の婚約者だったはずの男。
その隣には、無理に目を潤ませているようにしか見えない少女が立っていた。
名前は、マミ・トモエラ。平民出身だが“転生者”として神託を受け、最近王都で持て囃されている存在だ。
「だってさ、あたしのほうが“庶民の感性”があるし、運命って感じしません?」
そんな彼女の言葉に、貴族たちはクスクスと笑い、無難に拍手した。
私は、笑った。
唇の端を、無理やりに引き上げて。
「そう……おめでとうございます、シグルド様。どうか、お幸せに」
そう言って、優雅に頭を下げた。
爪が、手のひらに食い込む感触を噛み締めながら。
――そしてその夜。
私の屋敷の地下倉庫には、誰も知らない“封印”があった。
埃をかぶった金属製のケース。
古びたロックを外し、重たい蓋を開けると、そこにはあった。
チェーンソー。祖父の形見。軍の対抗魔物用に設計された、違法スレスレの一品。
そしてその隣には、白く無表情な仮面。
父が演劇好きだった頃、仮面舞踏会用に作らせたものだ。
私は仮面を手に取り、ゆっくりと顔に当てた。
目元に吸いつくような冷たい感触が、逆に心を落ち着かせる。
チェーンソーのグリップに手をかける。
……ドゥルン、ドゥルン、ギュィィィィィィィィィン!!
まだ完璧に整備されている。回転も滑らか。手に馴染む重さだ。
「愛を……挽き肉にしてやるわ……ッ!」
チェーンソーを持ち上げて、叫ぶ。
理性とか、世間体とか、涙とか。そんなものは全て切り捨てた。
代わりに残ったのは、“静かな怒り”と“無音の笑み”だった。
私は仮面をつけ、マントを羽織り、夜の闇へと溶け込む。
誰にも見つからず、誰にも止められず。
その翌日から、王都で“何か”が始まった。
***
王都・中央社交サロン。
今宵は月に一度の上級貴族限定の夜会の日だった。
壁には豪奢なカーテン、空中には香りの粒子をまぶした香水魔石が浮かび、音楽隊が弦を奏でている。
貴族たちがワインを片手に談笑し、甘く退屈な時間が流れていた。
そして、その中央。
一際注目を浴びていたのは、私の元婚約者・シグルドと、転生令嬢・マミ・トモエラの二人だった。
「ねぇシグルドさま〜♡ さっきのダンス、マミちゃん史上最高のくるくるだったでしょ?」
「もちろん。君の一挙手一投足、全てがまばゆいよ」
「も〜っ♡ そんなこと言ってたら、マミ、また恋しちゃう〜!」
イチャイチャ。
堂々とイチャイチャ。
それを囲む取り巻きの貴族たちも、媚びるように笑っている。
あの男の“若き騎士団エース”という肩書と、マミの“神の寵愛を受けた転生者”というステータスが、どれほどの免罪符になるかを彼らは理解していた。
だからこそ、誰も疑わなかった。
――その瞬間までは。
会場の奥、サロンの入り口の両開きの大扉。
その静寂を、裂くような音が響いた。
ギュィィィィィィィィィィン!!!!!!!!!
「な、何の音だ!?」
「まさか火事!?」
「違う、これは……刃物……!?」
次の瞬間、扉が真っ二つに割れた。
左から右へ、一直線に切断された重厚な扉は、まるでバターのように崩れ落ちた。
その間を、白い仮面と漆黒のマントをまとった女が、チェーンソーを片手に静かに歩いてくる。
騒然とする場内。
音楽は止まり、誰もが一斉に立ち尽くす。
「な、なに……あれ……」
「仮面……? 劇の演出か?」
違う。
その場にいた誰もが、背筋に冷たいものを感じていた。
マリエル・ジェイソンは、ゆっくりと中央へと歩み出た。
右手には、今なお低く唸るチェーンソー。
白仮面の下の表情は、誰にも見えない。
そして、彼女の視線の先には――
「……あ……」
――シグルドとマミ。
二人の笑顔が、ゆっくりと引き攣る。
誰よりも、彼らには分かってしまった。
この女が、誰であるかを。
「ま、マリエル……さま……?」
マミの声は、蚊の鳴くようなものだった。
足元のドレスの裾が震えている。
一方、シグルドは顔を引きつらせながら、剣に手を伸ばそうとして――すぐに気づく。
今夜はパーティ。剣など、持っているはずもなかった。
マリエルは立ち止まり、チェーンソーの回転数を上げる。
ギュィィィィィィィン!!!!
空気が震える音に、マミが悲鳴をあげる。
「ひ、ひいいいいいぃぃっ!!」
「おい、マミ! 落ち着け、ここは貴族の会場だ、何かの冗談だろ!? たぶん演出だ……!」
白仮面のマリエルが、壁に向かってチェーンソーを突き立てる。
そして、壁板をバリバリと切り裂いた。
「きゃああああああああああああ!!!!」
マミの悲鳴と共に、周りが一斉にパニックになる。
貴族たちは恐怖に逃げ惑い、誰かがワインボトルを取り落とし、
音楽隊のヴィオラ奏者は楽器を持ったまま走り出す。
シグルドはマミの手を引いて逃げようとするが――その腕が震えている。
マミは半泣きになりながら叫ぶ。
「マリエルさま、やめてぇぇぇ! わ、わたしたち、ただ、恋をしただけでっ……!!」
マリエルは、静かにチェーンソーの回転数を上げる。
ギュィィィィィィィン!!!!
会場の中央には、二人だけが取り残された。
チェーンソーを二人に向けながら近づいてくる白仮面。
“裁き”の時が近い。
その夜から、王都ではこう呼ばれるようになる。
“白仮面のチェーンソーレディ”。
――愛を切り裂く、復讐の影が始まった。
***
夜会からの逃走劇は、誰が見ても滑稽だった。
ドレスの裾をたくし上げ、片手にハイヒールを持って裸足で駆ける令嬢など、社交界でも前代未聞。
しかし当のマミ・トモエラには、そんな羞恥心に構っている余裕はなかった。
「いやああああああああッ!!」
悲鳴をあげながら、屋敷の回廊を全力疾走。
後ろから聞こえるのは、断続的な轟音。
ギュィィィィィィィン……ギュィィィィン……!
一定の間隔を置いて、まるで獲物をじわじわ追い詰めるように聞こえてくる。
それはもう音ではない、呪いだった。
「なんでこんなことにぃ……! あたし、ただ、ちょっと恋しただけなのにぃぃ……!」
脳裏に焼きつくのは、夜会でのあの瞬間。
仮面の女が現れた瞬間、シグルドの顔が蒼白に変わったのを、彼女は見逃さなかった。
(マリエルさま……あれ、絶対マリエルさまよぉ……!)
思い至った瞬間、涙が止まらなくなった。
ついに自宅の屋敷に辿り着く。使用人は誰もいない――全員、謎の恐怖から逃げ出していた。
自室へ駆け込むと、背後の扉を閉め、鍵をかけ、机を引き倒し、椅子を積み上げる。
どんなホラーよりも早い防衛戦だった。
「だ、大丈夫、大丈夫……貴族の令嬢が、殺したりなんてしないわよね……?」
震える唇。己に言い聞かせるような独り言。
だがその願いを打ち砕くように、外から再び響く音。
ギュィィィィィィィィン……!
「いやだぁぁぁぁぁぁ!!」
マミは、悲鳴をあげながらクローゼットの中へ飛び込む。
ぎゅっと扉を閉じて、物音ひとつ立てないように、口を押さえて震える。
(見つからないで……見つからないで……)
心臓の鼓動がうるさい。耳の中で爆音が鳴っているようだった。
その時だった。
コンコン……
ドアの外から、軽やかなノック音がした。
(いやだいやだいやだいやだ。死にたくない死にたくない死にたくない〜……!)
しばらくした後、扉を削るチェーンソーの音が再び鳴り響いた。
ギュィィィィィィィィィン!!!!
扉がバラバラと裂ける音。椅子も机も、まるで紙のように切り刻まれていく。
(だめだめだめだめ! 来ないで来ないで来ないで〜!!!!)
ついに破壊された扉の向こうに、マントをなびかせ、仮面をかぶった女が現れる。
その右手には、回転する恐怖の刃。
(きっ……きたあ〜……!!!!)
足が震え、全身の力が抜けていく。指一本動かせない。
ゆっくりと足音が近づいてくる。
コツ、コツ、コツ……
床を踏みしめる規則正しいヒールの音が、クローゼットの前で止まった。
マミは口を手で押さえ、悲鳴を上げるのを必死に耐える。
ドンドンドンドンドンドン!!!!
激しくクローゼットの扉を叩かれる。
「いやああああああああ!!!! もうやめてええええええええ!!!」
耐えきれず、マミは悲鳴を上げた。
ギュィィィィィィィィィィィィン!!!!!!
絶叫と同時にチェーンソーのエンジン音が鳴り響く。
「ごめんなさいいいいいいいいい!!! わたしが悪かったのおおおおおお!! もう人の恋人奪わないからああああああああ!!!」
刃が木材に食い込み、クローゼットの扉を削っていく。
マミの視界が揺れる。世界がぐにゃりと歪み、呼吸すら忘れてしまう。
そして――
マミは、白目をむいて気絶した。
崩れ落ちるように、クローゼットの中で動かなくなる。
その様子を見下ろした白仮面の女は、チェーンソーのスイッチを切り、静かにその場を立ち去った。
床に残されたのは、裂けた扉と、ボロボロになったクローゼット。
そして、震えもせずに気絶したままのマミ。
この一夜の恐怖は、彼女の心の奥底に永遠に残ることになる。
その記憶は、未来永劫消えることは無かった……
***
王都の騎士団本部、夜間詰所。
重厚な石造りの建物に、シグルド・ケイネスの叫びが響き渡った。
「開けろ! 扉を開けてくれッ!!」
ドンドンと叩く拳。額には冷や汗。礼装のタキシードはすでにボロボロ。
「シ、シグルド様……? な、何があったんですか……?」
扉の向こうから応えたのは、見習い騎士の若者だった。
しかし、彼が扉を開ける前に、背後から聞こえてきた音に、顔色が変わった。
ギュィィィィィィィィン……ギュィィィィン……
「お、おいおい、嘘だろ……!?」
見習い騎士が顔を蒼白にして、ドアを閉じる。
「ご、ごめんなさいシグルド様! ちょっと帰りますね!!!」
「は!? おいっ!? ふざけ──っ!!」
扉は閉じられた。中からガチャリと鍵をかける音。
取り残されたシグルドの背中に、冷たい汗が一筋流れ落ちる。
――それは“あの女”が来た証。
音が近づいてくる。
ギュィィィィィィィィィィィィィィン……
刃の回転音が、まるで笑っているかのように響く。
シグルドは走った。全速力で騎士団詰所を駆け抜け、階段を下り、訓練場へ、武器庫へ。
そして、ようやく一振りの騎士剣を手に取る。
「ハァ、ハァ……これで……これで終わらせる……」
だが、その瞬間だった。
壁が、バラバラに裂けた。
真横の壁から突如、仮面の女の顔だけが突き出てくる。
「ひィィィィィッッ!?!?」
仮面の女と目が合い、驚きで手から剣が滑り落ちる。
その剣に向けて、女がチェーンソーを構えた。
ギュィィィィィィィン!!!!
一閃。
魔法鍛造の騎士剣が――
真っ二つになった。
「そ、そんな……そんなはずは……」
白仮面の女は、剣の残骸を踏みつけながらゆっくりと近づいてくる。
シグルドは震えながら後ずさる。
「ま、待て! 落ち着け! お前、理性はあるだろ!? な? 話せばわかる! 俺だって……俺だって……」
仮面の奥の表情は、誰にも見えない。
だが、それは確かに“怒り”ではなく、“決着”の顔だった。
ギリギリとチェーンソーを構える女に、シグルドは最後の望みに賭け、叫ぶ。
「誰か!! 誰か助けてくれぇぇぇぇぇっ!!」
……沈黙。
訓練場にいた騎士たちは、全員壁の陰に隠れていた。
「お、おれたち関係ないからな……」
「うん。うん、あれは……元婚約者同士の問題だ……家庭の問題だ……」
シグルドは、膝から崩れ落ちた。
腰を抜かし、地面に這いつくばりながら、ただ震える。
白仮面の女は、最後まで無言のまま、彼にチェーンソーを向けたまま静かに見下ろす。
そして――スイッチを切る。
沈黙。
「もう……おしまいよ」
その一言を残し、白仮面はマントを翻し、夜の闇へと消えていった。
残されたシグルドは、涙を流しながら崩れ落ちた。
そしてその場で、動かなくなった。
彼の中の“英雄”は、その夜――音と共に、完全に砕け散ったのだった。
***
季節は巡り、王都にも初夏の風が吹き始めた。
庭園のバラは満開を迎え、貴族街では毎日のようにパーティが催されている。
けれど、その華やかな社交界から、二人の姿は忽然と消えていた。
一人は――マミ・トモエラ。
あの夜以降、彼女の名は貴族たちの口に上がることはなくなった。
療養という名目で郊外の別荘に引きこもり、社交界にも顔を出さない。
使用人の証言によれば、チェーンソーの音を聞くと硬直し、白い仮面を見ると吐き、クローゼットには絶対に近づかない。
彼女が今でも毎晩うなされながら叫ぶ言葉は、こうだという。
「ごめんなさいいいいいいいいい!!! もう人の恋人奪わないからああああああああ!!!」
それが幻聴か現実かも、もう彼女には判別がつかない。
誰が言ったか、その様子を「恋の代償として、記憶に“刻印”を刻まれた令嬢」と呼ぶ者もいた。
そしてもう一人――シグルド・ケイネス。
元・王立騎士団のエース。
今や、彼の名を知る者は、噂話としてしか存在しない。
「聞いたか? シグルド様、剣が持てなくなったらしいぜ」
「いや、最近じゃ誰とも話せないとか。“あの音”が聞こえるたびに、震えてるって」
「壁を見るだけで泣き出すらしいよ。ほら、あの壁から“顔だけ出された”らしいからな」
「もう完全に、メンタルが……」
けれど、誰も確かめようとはしなかった。
彼は今、騎士団から除名され、屋敷に引きこもったままだという。
社交界にも戻らず、恋人も、剣も、誇りも――何もかもが、砕け散った。
そしてーー
今日もまた、ある令嬢が、自宅のサロンで静かに紅茶を飲んでいる。
白いティーカップ。赤いローズヒップティー。甘く香る焼き菓子。
サロンの窓からは、花咲く庭と、遠くで遊ぶ子供の笑い声が聞こえる。
その中心に座るのは――
かつて“白仮面のチェーンソーレディ”と呼ばれた女、マリエル・ジェイソン。
今では社交界にも復帰し「大人のたしなみ」として仮面舞踏会の主催なども行っている。
その席で、ふと若い貴族の令嬢が噂話を口にした。
「ねぇマリエル様。あの……例の事件、覚えてます? 白仮面の復讐者の話。最近また噂されてて」
「ええ、聞いたわ。すごく怖いお話よね」
「ね、ね!? でも実際どうなったのかな……マミ様も、シグルド様も、もう表に出てこないし……」
マリエルは、静かにティーカップを置いた。
そして、わずかに目を細めて、こう言った。
「……私には関係ないわ」
それは、まるで最後の幕引きのように静かな言葉だった。
けれどその声の奥には、ほんの少しだけ、“回転音の余韻”が残っていたーー
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