婚約破棄
幸せな結婚を――それが彼の言葉だった、はずだった。
騎士ローウェルは、重苦しい表情でわたくしを呼び出した。婚約一か月目のことだった。
「クリス、話があるんだ」
辛そうに切り出す彼。
……ああ、きっと婚約破棄を突きつけてくるのだろう。
そう、わたくしは全てを知っていた。
ローウェルは他の女性と秘密裏に会っているということを。それを執事から教えてもらった。
それまではローウェルを愛していたし、耳にしたときは信じたくなかった。けれど、自身で確かめる内にそれが真実であると理解した。
彼は、わたくしを愛してなどいなかったのだ。
「なんでしょう?」
「……言いにくいんだが、婚約を破棄したいんだ」
「そう……ですか」
予想通りだった。それが余計に失望を深くした。もういい、ローウェルなんて地獄へ落ちてしまえばいい。
その為の材料も用意した。
「すまないが――」
「ローウェル、あなただけが幸せになるだなんて許すと思いますか」
「……え」
「あなた最近、不正行為を働いたそうですね。騎士団のお金を横領してしまったとか……証拠もあります」
執事のバルザックが全て見ていた。彼が『証拠』になってくれる。
奥で控えていたバルザックを呼び出した。
「ええ。私はローウェル様の横領を目撃しました。騎士団の金庫に入るその瞬間を」
「そ、それだけで証拠になるものか!」
「恐れながら、私には記憶を映像化するという特殊な能力がございます。もし、御入用でしたら今、リアルタイムにその映像をお見せしても構いませんが」
バルザックには不思議な力があった。
一日に一度だけ“脳内記憶の一部分”を映像として映し出せるのだ。よく壁に過去の映像を見せてもらったことがあった。
「……ぐっ! お、俺を脅すのかクリス!」
「違います。あなたには罰を受けて貰うのですよ」
「罰、だと」
身構えるローウェル。俺が何をしたという……そんな風な態度が見て取れた。まるで反省していない。その素振りもない。
なら、もう終わりね。
「婚約破棄でしたね。わたくしの方から申し上げますわ! それと騎士団にはこのことをご報告しますので!」
「……や、やめてくれ。頼む! それだけは!」
さようなら、わたくしの騎士様――。
「ローウェル、お前を連行する」
緊急で駆けつけた騎士団の方たちによってローウェルは捕まった。これも計算の内で、執事のバルザックが予め近くに呼んでいたのだ。
おかげで事はスムーズに進んだ。
「本当に本当に残念です」
「……クリス、どうか……」
最後まで必死に助けてくれと懇願していたけれど、彼に救いの手など差し伸べる必要がない。しっかりと罰を受けて欲しい。そう切に願うばかりだった。
ミステル邸宅の広間は静かになった。
一人の男性騎士を残して。
「ご協力感謝します」
彼は一点の曇りもない真っ直ぐな視線をわたくしに向けた。
さきほど数人いた騎士たちとは違う服装で、明らかに位の高そうな身なりをしていた。
漆黒の髪、右目の下にある泣きボクロが特徴的。
「いえ。わたくしと彼は婚約していました。でも、彼が犯罪に手を染めていたなんて……ショックです」
「それは大変申し訳ないことを……」
丁寧に頭を下げる騎士。でも彼が悪いわけではない。悪いのは全てローウェルなのだから。
「その言葉だけで十分です」
「では、私は彼の裁判手続きをしなければならないので」
「ありがとうございました。……あ、よければお名前を」
「そうでした、申し遅れました。私は副団長のルドラと申します。またどこかで会いましょう」
彼は静かに去っていった。
またどこかで……そうね、また会えるといいな。
三日後。少し生活の落ち着きも取り戻した朝。
庭にあるテーブルで紅茶を楽しんでいると突然、騎士が現れた。
「クリス……!」
怒りを滲ませた声。振り向くと、そこにはローウェルの姿があった。
ど、どうして邸宅に!
だって彼は捕まっていたはず。なのになぜ自由の身なの……?
「あなた、なぜ……」
「なぜ? 簡単なことさ。俺は監獄に収監されたが、脱獄したのさ」
「そ、そんな……」
腰に携えている鞘から剣を抜くローウェル。目が血走っていた。
まるで狂気や復讐に支配されているみたいな、そんな悪魔のような雰囲気を醸し出していた。
「よくも俺の人生をブチ壊したな、クリス!」
刃を向けてくるローウェルは、わたくしの胸を目掛けて走ってきた。……え、ウソでしょう。ここで殺されてしまう? そんな、そんなのって……。
逃げようにも距離が近すぎた。
あっという間に接近され、剣が迫ってきていた。
…………ああ、もうダメ。
諦めかけたその時だった。
ギンッと鈍い音がして刃が宙を舞っていた。
なにが起きたの?
「……ぐっ」
右手を押さえるローウェル。その顔は明らかに痛みに悶えているものだった。誰かがローウェルの剣を弾き飛ばしたようだった。
いったい、誰が?
「間に合ってよかった」
「……ルドラ様!」
そこには三日前に我が家に駆けつけてくれた騎士ルドラがいた。そうか、彼がわたくしを。
よかった……。
もし彼がいなければ、今頃は胸を貫かれていたに違いない。彼に感謝を。
「脱獄したローウェルを追っていたのさ。やはり、君の家に現れたか」
「追っていたんですね」
「ああ、そうだ。ヤツを捕まえる為に必死にね……!」
堂々とした表情でルドラは、剣を構えた。横顔がとても凛々しくてカッコいい。この人なら……。
「しつこいぞ、ルドラ!」
「黙れ罪人。脱獄した以上、貴様は一生監獄で過ごすことになるぞ」
「大監獄バーバヤーガに戻る気などない。クリスを殺し、復讐を遂げる!」
懐から小さなナイフを取り出すローウェル。そこまでして、わたくしを亡き者にしたいの。もとはと言えば自分が撒いた種だというのに。
なんて人なの。最低。
「ルドラ様……わたくし」
「大丈夫ですよ、クリス様。あなたの身はこの私が守る」
その言葉を耳にして、胸がトクンとした。
こんな状況なのに、わたくしは妙な感情に襲われていた。
彼が、ルドラが気になって仕方ない。