5 けったいな氷解
卓上の距離こそやや不自然に遠いものの、長年の隔離と無視とを全くなかったもののようにして、王はグラーニャに向き合っていた。
グラーニャ自身は内心、叫び出したいくらいに動揺していたが、そこは生粋の上流階級。社交お作法という身にしみついた絶対鉄則に従って、決して外側には出さなかった。天然で表情を出さないゲーツは、こちらもミーガンに勧められるまま、グラーニャ横に座っている。
「急に呼び出して、悪かったね。忙しいだろうに」
「いいえ、そんなことはありません」
「西の辺境地域での山賊討伐は、ご苦労さまでした」
「恐れ入ります」
「捕まえた人たちは、農地と塩田での労働刑になったんでしたね。うまく更生してくれるといいけど」
「陛下の仰る通りです」
だがしかし、視線を合わせ続けているのは、やはりきついとグラーニャは感じた。ミーガンだけでなく、王自身もずいぶん肉が落ちたようにみえるが……。ふと目を下にやると、卓上で組まれている王の手の異変に気が付いた。それを王も察知する。
「ああ、これはね……。実は昨年あたりから、時々むくみが出るようになってねえ。あんまりきついから、指輪は外してるんです」
言いつつ、だいぶ細くなった両手をひらひら振って見せた。
仰々しくはまっていたあの数々の石付きの環は、消えている。それらをしかつめらしく無言で周囲に見せびらかしていた、王の狡猾な表情もなくなっていた。おまけに服まで、麻ものの質素な上下に代わっている。
「ミーガンも、そうなんだよ」
「ま、陛下。わたくしのはかぶれだって、申してますでしょ」
そう言われて見れば、ミーガンは全く装身具を着けていない。以前は耳に首に指に手に、賑やかしく飾りをまとっていたのに。今日は緩やかな無地のばら色長衣、結い上げた髪にうす紫のりらの花を挿しているだけだった。
「御方も、もう無理をしなくて良いんですよ」
ぼそぼそした調子の言葉が、自分に向けられたものと一瞬経ってからわかり、グラーニャはどきりとした。
その中に、いたわりのようなものを感じたことに、さらにびっくりした。
しかも……≪御方≫という夫人に対する古風な呼びかけを、ランダルが初めて自分に対して使ったことで、もう内心ひええええと跳び上がりたいくらいになっていた。
「きつかったり、かゆかったりするものを、無理してはめていることはない。形式的なものでしかないんだ。外して、すっきりするんだね」
自分の結婚指輪のことを暗に言っているのだと理解した時、グラーニャの両腕に鳥肌が立った。
立て続けに精神的衝撃を受けて固まっているグラーニャをよそに、ランダルは優雅な手付きで菓子を頬張る。
「おや、これはうまいねえ」
それではっとする、慌てて自分の分を口に運んだ。
持参した手土産は、まず客自ら食べて見せるのが礼儀だ。毒が入っていないことを、証明して見せなければならない。会食者ときな臭い関係にある場合は、なおさらだ。
それなのにランダルは、グラーニャを待たずに食べてしまった……あたかも意図的に。グラーニャはますます、困惑した。
「でも、何だか風味が違うね?」
香湯を飲みのみ、早くも二切れ目をミーガンに取り分けてもらいながら、ランダルは全く意に介さない風だ。
「ああ、使っている乳蘇が違うね? 羊……いや、山羊の乳蘇かな。これはやぎなんじゃない、ゲーツ君?」
「……はい、山羊です」
――いつもながら、何というそつのないやつだ。ほんとにお前は頼もしいな、ゲーツ。
かみつれ香湯から立ち昇る温気を感じながら、グラーニャは摩訶不思議な心持ちだった。王に一体、何があったのだろう?
やがて王は小さく咳ばらいをすると、姿勢を正した。
「ごちそうさまでした。最近、この年で頭を使うようになったものだから、甘いお菓子は実にありがたい」
「お仕事中だったのですね」
差し障りのない表現を探して、グラーニャは聞いてみる。
「ええ。御方、ミーガンのお父上が史書家だったのは、知ってるでしょう?」
「はい、一昨年みまかられた……」
ミーガンが優しく微笑んだ。
「その節は、グラーニャ様にもお花をいただきまして」
第三妃の実家は、マグ・イーレ貴族宗家のひとつだった。しかし一人娘のミーガンを残して文官騎士の老父が亡くなったため、絶家となったのである。
「残された膨大な量の蔵書を、実は私が譲り受けたんです。最初は何気なく読んでいたのだけど……」
ランダルが無類の読書好きなのは、誰もが知っていた。
「そこに、まだ書きかけのマグ・イーレ史があるのを、見つけました」
グラーニャは無言で頷く。
「……これがまた、実に面白い。自分の生まれ育った土地の歴史ものがたりが、これでもかと掘り下げられていて、私はたちまち虜になりました。それで、ミーガンのお父上の健筆には遠く及ばないが、私が続きをしたためようと思った次第なのです」
最後の方は少し誇らしげでもあり、また恥ずかしそうでもあった。
「そうだったのですか。すばらしいことだと思います」
素直な気持ちが、そのまま言葉になった。王がさらけ出した正直な表情に、感化されたのかもしれない。
「ありがとう。それで実はいま、少し昔のテルポシエ交流関係の項にいるのだけど……」
憎むべき故郷の名が出て、どきりとする。やはり、油断してはならないのかと身構えかけた。
「何と言ったっけ。あの、摂政みたいな立場の……」
「……? ……≪傍らの騎士≫でしょうか」
「そう、それそれ。あのけったいな地位は、一体いつから存在してるの? 何のために?」
けったい、というその言い方がおかしくて、ついグラーニャは吹き出してしまった。
それでとうとう、場が和んだ気がする。いや、警戒心に凍っていた自分の心が融けたのか。面白いことを言える人だったのだな。笑ったまま、グラーニャは話し始めた。
「確かに、変な地位です。なくても全く構わないと自分は思いますが、テルポシエの人間にとっては女王や王がいるのと同じで、あって当たり前というものでした」
初代テルポシエ王には、既に初代・傍らの騎士がついていたらしいが、名や性別、地位を得た経緯については知られていない。建国から約一世紀のあいだ、イリー暦が採用されるまでのテルポシエ史は暗黒である。
「あれ、女性でもなれるの?」
「はい、決まりの上では男性に限定されてはいません。ですが女性の騎士はとても少ないですし、前例はないのです」
貴族の女子が準騎士、すなわち騎士見習になることはできる。教師や軍馬調教師、高位侍従など城内で働く女性は、そうして修練を積んだ人が多かった。しかしその上で試験を突破し、一級騎士になった女性はいなかった。少なくともグラーニャは知らないし、聞いたこともない。
「そうだよね、テルポシエ史記もいくつか当たってみたけど、それらしき名は見つからなかったよ。御方が小さかった頃は、お父上の傍らの騎士が健在だったのでしょう?」
「はい、アリエ侯と言う方です。ミルドレ・ナ・アリエ老侯」
「どんな人でした? ……あ、そもそも、交流する機会はあった?」
グラーニャが首を捻って思案するあいだ、隣の席でゲーツが香湯を飲み込む静かな音がした。
――あー。ウルリヒ王が成人前だったから、摂政やってた人のことだね。でも王様、テルポシエ行った時、その人に直接会ってんじゃないの? 何で改めて、そんなこと聞くのかなあ。にしてもうまいよ、この焼菓子。焼いたテイリーさんも素晴らしいが、さすがリラさんちの山羊の乳蘇だ。山羊はいいぞ、乳も乳蘇も、毛もぜんぶいいのだ。牛も羊もみんな良いが、俺はあえて言うなら絶対に山羊派だ。キルスさんの顎は山羊ひげだ。
「ええ、……ありました。執務の時はほぼ父と一緒だったので、その流れで食事をよく共にしました」
「白金髪に翠の目、典型的なテルポシエ貴族ってやつだね」
「あ、いえ、髪色がちょっと珍しい人でした」
生まれた時に虹がかかったせいだ、と本人は冗談ぽく言っていたが、白金髪が主流のテルポシエ宮廷では、その金髪とも赫毛ともつかない奇妙な頭髪が、異様に目立っていた気がする。
年齢も父と同じだったミルドレは文武両道、背が高くて朗らかで、立派を絵にしたようなひとだった。旧家のひとつアリエ家の宗主で、一級騎士たちの間でも人気を集める人格者。自分もミルドレおじさま、と気軽に呼んで親しんでいたっけ。
「でも……」
はた、と言い淀む。
「でも?」
「……小さい頃、ミルドレに叱られたおぼえがないのです」
胸のうちの古傷がちくりと疼いた。
姉の即位式の日。オーリフに突き飛ばされてすっ転んだ自分の手をしたたかに打ち、凶器を放させ、ずるずるとその場から引き出したのは、確かミルドレだった気がする。それを叱るとは言わないと思うが、とにかくそれ以外にミルドレからきつい言い方や、仕打ちをされた思い出は皆無だった。
「ええ? いや、でも……。親でもない摂政役の騎士が、ふつうお姫様を叱るなんて、ないでしょう?」
ランダルは不思議そうに反論する。
「いいえ、ミルドレは姉のディアドレイに対しては、結構厳しかったのですよ」
ぼんやりとではあるが、五歳上の姉が、ミルドレから明るく叱咤激励されているのを見ていた記憶がある。理由は声が小さいとか、態度がはっきりしないとか、下ばかり向くなとか、今思えば本当に細かいことだった。
「アリエ老侯には、ディアドレイと同じ年頃の子どもが何人かいたので、ついその勢いで叱ってしまったのではないでしょうか。それに比べれば、自分はずいぶん年が下でしたから」
「そういうもんかねえ……??」
「それに叱るだけでなく、姉をずいぶん褒めてもいましたよ」
「ふうむ。何だかまるで、お父さん役だなあ。傍らの騎士ってのは、かなり役目の広い重職なんだね」
「陛下でしたら、息が上がっちゃいますわね!」
柔らかくからかう調子で、ミーガンが混ぜっ返す。
「なんて恐ろしい。私に体力勝負は無理無理無理。子どもの世話なんて、とんでもないですよ」
ふふ、ほほほと屈託なく笑うランダルとミーガンを前にして、グラーニャは呆気に取られつつも、どこかで心地よさを感じ始めていた。
毒気を失った王は、自身の幸せを享受しているように見えた。そういう人と一緒にいるのは、苦痛にならない。
「同じイリー政法に則った国でも、宮廷や政のしくみっていうのは本当に異なってきますね……。いやはや、どうもありがとう。勉強になりました」
「こういうことが、お役に立つのですか?」
「ええ、貴重な史料になるんですよ。後世の人が研究するのに、必要になるかもしれませんからね。なるべく、当事者が見たまま聞いたままを、率直に記録しておくのがいいんです。今日の話はマグ・イーレ史とはちょっと離れているけれど、外側にいる人間だからこそ見える視点というのもあります」
グラーニャは、ちょっと唇をすぼめた。
「……お話した中には、記憶の曖昧な部分もあったのですが」
「ああ、それはいいんです。でも、何かまた興味深いことを思い出したら、ぜひ教えてください」
王の平らかな視線に、いまや気おくれすることなくうなづき返しているグラーニャである。
陛下というより、先生とか教授とか、そういう呼びかけをしたくなるようなランダルは、敵なんかじゃない、と思えていた。