4 ランダル王の呼び出し
・ ・ ・ ・ ・
数日後、曇天の昼下り。
昨夜からの雨に濡れそぼった草混じりの細い敷石小径を渡って、グラーニャはマグ・イーレ城庭の片隅にある、≪離れ≫の前に立った。
周囲をぐるりと樹々に囲まれて、ここの一画だけ見れば、ごく普通の一軒家である。しかし庇のついた玄関先には、二人の騎士が重装備で立っていた。一国の王の警備としては、果たして相応なのかどうか。
騎士達が慇懃に礼をして、左右から扉を開けた。つい、とグラーニャは背後を振り返る。
「行くぞ、ゲーツ」
――変だよなあ。何か裏があるのかな。女神様、面倒ごと起きませんようにー。
軽くうなづいて後に続く、ゲーツはグラーニャの白い外套の背に刺繍されたマグ・イーレの国章、黒羽の女神に向かって願掛けをした。たまたま目に入ったからお願いしただけであって、信心ぶかい男ではない。というか、そもそもよく知らない神さまである。自分の着ている濃灰外套の背中にも、やはり女神の国章が入っているのだが。
最後にここを来訪したのは一体いつだったか、と思いを馳せる。あの≪クロンキュレンの追撃≫でグラーニャが名声を上げ、同時にランダル王が病を理由にこの離れで隠居を始めて、もう早や九年ほどが経っていた。公の場に姿を見せなくなって久しく、同じ城内に居住していると言うのに、ゲーツが王と相まみえる機会はほとんどない。
ごくごく稀に、グラーニャに従って調印書類や届け物をすることはあった。だがその場合、誰しも一言も話さず聞かず、視線すら交わさずに会見は終わる。こちらだけではない、王の方が率先してグラーニャを避けているのは明白だった。
そして世間から離れようとしているらしいランダル王とは逆に、ゲーツ自身はマグ・イーレの中核で生きるようになっていた。
ゲーツの現住所は、数年前からグラーニャの居室の納戸である。念のために記しておくと、本当に納戸に居住しているわけではない、第一入りきらない。大男の護衛の代わりに、実際に納戸内にいるのは、籠に入ってふんぞり返った城ねこの“こうし様”である。
グラーニャとゲーツの仲は、ずいぶん早いうちから公然となっていた。が、キルスとウセル……窓際位置から見事に返り咲いたやり手騎士の両侯が、どういうわけなのかどんどん話を進めた。ゲーツの表向きの肩書である“第二王妃の常時護衛”詰所として、納戸を聖域化してしまったのである。それまで使っていた傭兵用の宿舎はさっさと別の兵に明け渡され、以来ゲーツはグラーニャと、ほぼ生活を共にするようになっていた。
≪ああ良かった。これでもう、二階外壁によじ登ってるのを見て、落ちるんじゃないかって冷や冷やする必要もなくなりますねえ!≫
≪そうだ。ついでにゲーツ君に、毒見役も兼任してもらえばいいんじゃないのかね? 頼むよ、君ー≫
――そういう公然の間男を連れた嫁は、まあ普通見たくはないだろうなあ。なのに今日は一体、どうしたわけなんだろう……。自分から呼び出すなんて。また前みたいに、計略でも思いついたのかな? 王様……。
無表情な顔の裏側で、ゲーツは今でも首をひねりまくっている。
テルポシエ貴族くずれとの一戦後、帰城とニアヴへの報告を済ましたグラーニャに、王付の若い近衛騎士がそうっと伝言してきたのである。
『近々時間のあるとき、離れに寄ってはもらえないか』……と。
耳を疑いたくなるようだったが、グラーニャはちょっと目を丸くしただけで、すぐに了承の返信を伝えさせた。
そして本日、手土産など携えて、のこのこ参上した二人なのである。
入ってすぐの廊下は明るく、そこにも若い騎士が一人いて、二人に礼をした。
ととと、と足音が近づいて、現れたのは第三妃ミーガンである。
「いらっしゃい! お待ちしてましたのよ。さあ、どうぞお二人とも」
王の毒気に長年さらされているはずなのに、ミーガンの笑顔には全く表裏が感じられない。
少し痩せられたのかな、とグラーニャは思った。
王との面会は苦痛だが、この女性とは特に諍いをしたこともない。いたって普通の会話のできる人間だった。
「ごきげんよう、ミーガン様」
グラーニャとゲーツ、二人は丁寧に頭を下げる。
「今朝焼いてもらった物ですが、お口汚しに」
小さな包みを手渡すと、演技でもなく全く嬉しそうに、第三妃は鼻を近づけた。
「ま、この香りは……! あっ、陛下」
別の足音に、三人は同じ方向を見た。
二階へ通じる階段の上に、王が立っている。
「やあ」
グラーニャは即座に、深く頭を下げた。ゲーツもそれに倣う。
こうしているうちに王はそっぽを向き、さっと行ってしまうのが常だった。……が。
「お菓子をいただきましたのよ~」
軽やかなミーガンの声が通る。
「そうかい! ありがとう。ちょうど、甘いものでひと息つきたいと思っていたところでした。ミーガン、香湯を用意しておくれ」
「はいはい。さ、お二人とも、居間へどうぞ」
――はあ!?
グラーニャが恐る恐る顔を上げると、驚いたことにランダル王は、……夫は、彼女を直視してふんふんとうなづいていた。