3 ふたつの機密の行き先
はぁ、はぁっっ……。
青年はずるずると歩いて、せせらぎの音の迫る谷間へと近づいて行った。
はっと立ち止まる、切り立つ崖。
「ルリエフ」
傷を負った青年は振り返る。いよいよ翳る陽光の中、ぼんやりと白っぽい小さな人影が、もやりと巨大な黒い影を従えて、そこに立っていた。
グラーニャは低い声で、ルリエフに呼びかける。
「お前の背後にあるのは、ラモノの流れだ。速く荒く流れて、デリアド辺境から海に通じる。要らぬものを始末するには、申し分ないぞ」
「……」
「書を、流れに捨てよ。たしかに捨てて見せれば、俺はこれ以上お前を追わぬ」
「いやだ」
ルリエフは、左手の書箱をぐうっと抱きしめる。
「捨てるのは、なかみだけでよろしい。箱はお父さまを偲ぶよすがにすればよい」
――たしかに、ちょっと良いものっぽい箱だよね。細工が入っててきらきらしてる、俺の年俸何年ぶんか、知れないよ。
ものの値段を知らないなりに、目ざといゲーツである。
「いいや。捨てないぞ」
ルリエフの言い返しに、グラーニャはふるふると首を振る。
「……聞き分けのない子だのう。……他に誰ぞ、そのねたを使ってゆすれる先があるのか? ないのであろうが。お前は俺にそのねたを使って欲しいらしいが、この俺本人が使わぬ要らぬと申しておるのだ。この先持っていたって、どうなるものでもないぞ。捨ててしまえ」
「……そうやって、しつこく捨てろと言うからには、あなたにとっても厄介なものなんじゃないか」
――ちっ、気づかれたか。
グラーニャは、内心で舌打ちをする。ルリエフの言う“二つの機密”、一つ目テルポシエ侵攻理由というのには興味がなかった。実はニアヴだけと話している、本当に真っ当な侵攻の大儀をすでに見つけてあるからだ。
しかし二つ目、ディルト侯関連の情報については、証拠を消しておきたかった。
今から九年前、テルポシエ訪問の際に、ランダルが近衛騎士長のディルトと結託して正妃ニアヴをエノ達に殺させようとしていたこと……。実は皆知っている。本当はエノに良いようになめられていただけ、ディルトは殺されランダルも捕らわれかけた。そこを危機一髪で救ったゲーツが王本人からの話を彼女に話しているのだから、今さら証拠なんて別に要らんし、ふーん、なのである。ニアヴもキルスもウセルもポームも、現テルポシエ宮廷の中枢を担う者はみーんな周知の事実なのだ。
……ただ、それが外部にまわるのはできれば避けたかった。暗黙のうちに、この事件の責任を取る形でランダル王は隠居している、まだ五十前なのに。たてまえ病身としてあるグラーニャとニアヴの≪夫≫が、昔の醜聞の露出でさらに権威を失墜させれば、王室だけでなくマグ・イーレ全体にとっての損害になるだろう。
とにかく陰気で皮肉満載、どうしたって好意を持てやしないランダル王ではあるが、≪クロンキュレンの追撃≫以降はその皮肉すら引っ込めて、ひたすらおとなしくしている。ニアヴの政について何も否定せず、署名調印は秘書役の近衛騎士を通してすらすらよこす。正妃にとって、実に都合の良い王の現状を、グラーニャは維持すべしと思っている。だからその辺を気取られぬうちに、さっさと証拠隠滅をしたかったのだが……。
グラーニャの一瞬のいらだちを、聡い青年は見抜いたらしかった。
「ふん。……それに、ゆすろうと思えばゆすれる相手は、他にいくらでもいるんだ。あなただって、少し頭を冷やせば絶対に考え直すさ。……、 ……」
最後に呟かれた部分がうまく聞き取れず、グラーニャは思わずルリエフに歩み寄った。……まる腰の相手である、そこはゲーツもわかっているから止めない。ミーヤとウリカの射撃が、いつでも青年の動きを封じることができよう。
「……そう。あなたは、そう呼ばれてしかるべき人なのさ」
やつれ荒んで窮地にあえぐ若い翠の瞳、けれどその血に流れる奸計への執着に無意識に急き立てられながら、ルリエフ・ナ・タームは笑った。はら黒く笑みながら、囁いた。目の前の女だけが、それを聞き取った。
「グラーニャ・エル・シエ女王陛下」
グラーニャが両眼をすがめたその瞬間、ぐらっと褐色の外套をひるがえして、ルリエフは後方へ跳んだ。
「おいっ、ルリエフ!」
グラーニャは慌てて崖のふちへかけ寄る。はるか下を流れる渓流には、幾つも巨岩が突き出て白い飛沫が吹いている、――しろい飛沫ばかりだ、赤いのは!?
ぐっと右腕を掴まれる。瞬時彼女の脇へやって来たゲーツの慣れたでかい手だから、グラーニャは振り仰ぎもせず渓流を凝視し続けた。
「ゲーツ、何か見えるか!!」
ざざざざっ、走り寄ってきたミーヤとウリカも二人の脇に立った。
「だめだ、何も見えない」
下流の方を鋭く見渡したミーヤが言った。
「見えんが、……グラーニャ様。向こう側は山犬どもの巣窟だ」
「……!!」
グラーニャは、ウリカの顔を見上げた。立派な鷲鼻がそそり立っている。
「運よくどこにもぶつからず、流れ着けたとしても。この時間にあの傷、おまけに一人じゃどうにも生きのびられんよ」
「そうだ、じきに山犬が出てくる。俺たちも、もう引き上げないとまずいっすよ」
「そうか。……そうだな……」
あと味悪く、しかしすばやく、白き牝獅子は踵を返す。
すぐ後ろをゆくゲーツは、現実的なことを考えていた。
――あのすてきな箱だが、透かし彫りの細工だった……つまりは穴ぼこだらけだった。しっかり抱いてどぼんした時点で、中身はおだぶつだ。筆記布だろうが羊皮紙だろうが、水にふやけて駄目になるな。証拠は全て消えたことになる、実によろしいじゃないか。
どんどんどんどん、考えている。
――じゃあ何で、グランはこんな浮かない様子をしている? 敵味方問わず若いやつが死ぬのは好かんとか時々言ってるから、それか。悪者を気取りたいくせに根の優しい女だからな。やっぱりお前に邪悪は無理だ、俺に任せとけよ。
無表情のまま、内心ばんばん喋り続けるゲーツである。薄暗い森の中、時折グラーニャに手を貸し支えながら、彼は絶え間なく考える。
――あるいは、やっぱり似てたのかな? 見たとこ何の味わいもないのっぺり系の若僧だったが、……影のある所が初恋のあの人におもかげ重なるのうとか、しみじみ感じちゃってたりするのか、あんちくしょう。故人は故人ゆえにどうしたって勝てないぞ、くそったれ。今ここに、お前の背後にぬーと居るこの俺が、オーリフ王なんかより百倍も千倍もすてきな男だと言うことを、一体いつになったらわかってもらえるのかなあ。それにしても(以下略)