2 交渉決裂
たしかにルリエフ・ナ・タームは若かったが、父親の残した書の重大性を理解し、飲み込むほどには大人であった。
その父は高位文官の補佐をしていた際に、偶然とある疑惑を読み知った。父の上司はかつて、エノ軍幹部と通じていたのである。
問題の書は、その通信の一部を複写したものだが、そこには国家転覆級の恐るべき大醜聞がしるされていた。
信憑性はある。裏付け証拠を集めることができれば、祖国テルポシエを敵視するマグ・イーレにとって、この上なく有益な情報になるだろう、と父は隅に注意書きをつけていた。
「もう一つは、グラーニャ様。あなたがランダル王に代わり、マグ・イーレを掌握することを可能にするものです」
「?はぁ?」
少々間の抜けたような王妃の返答に、若者はくすっと笑った。
「ディルト侯と言う方を、ご存じですよね?」
「大昔に亡くなった、マグ・イーレの近衛騎士長ではないか」
「そう。そのディルト侯とランダル王が結託して、エノ幹部に協力をたのみ、ニアヴ妃を暗殺しようとしていた証拠があるのです。これをちらつかせれば、あなたの夫を完全廃位にできるんじゃないですかね!」
若い双眸をきらっと輝かせ、ルリエフはグラーニャにうなづいて見せる。
「……どうです、グラーニャ様。この特大級の機密を、俺ごと買い取りませんか? ふたつの機密をどう使うかは、あなた次第です。テルポシエかマグ・イーレ、あるいは両方とも、手玉に取ることができるんですよ」
「それらの情報を、何と引き換えたいのだ?」
「ある程度の、安定した生活です! ここまで来る途中で、ずいぶん仲間も膨らみましたし、彼らと一緒にのんきに過ごしたいな」
「……マグ・イーレ騎士団に入りたくは、ないのか」
「は? 冗談じゃないですよ、あんな……」
あんなしみったれた、イリー最貧騎士団に……本音を付け加えかけて、青年はどうにか飲み込んだ。
「ルリエフはその書類を全て読み、精通しておるのだな。実物はどこにある?」
「それは秘密です。取引が終わったら、かくし場所を教えます」
「そうか……。では、永遠に隠しておくが良い。残念だがルリエフ、俺はこの取引にはのらぬ」
「えっ」
驚き方が幼かった。……青いのう、とグラーニャは思う。
「お父さまの形見にすると言うのなら話は別だが。お前も、その書箱のなかみの情報について、さっぱり忘れてしまうが良かろう。せっかく多くお友だちができたのなら、一緒に新天地へ乗り込んで、勉強するなり働くなり、新しい暮らしに挑んでみるのだ」
「……何で、グラーニャ様!? あなたはテルポシエが憎いんでしょ、マグ・イーレでもずっと不幸だったのでしょう? 仕返しをしようと、思わないのですか」
「仕返しなどと、ちゃっちい言葉を使うでない」
ぎいんと刺さってくる翠色の視線は、若者を震撼させた。
「……なぜ俺が故国を追い出され、忌み嫌われたのか。理由を知っているか」
「姉君と対立したと聞いてます。……前女王陛下と」
「そうだ。当時はあんまり幼くって頭が回らず、姉を殺そうとしたのだ」
「……」
グラーニャはルリエフから、その少し後ろの崩れ壁へと視線をそむけた。
過去、その愚行へと自分を走らせたものが何であったのか、目の前の若者に告げるつもりはない。絶対に。
「……ばかなことをしたものだが、幸運が巡りめぐって命拾いし、今ここに生きておる。自分のしでかした罪のぶんもわきまえたつもりであるし、また浅はかな力まかせでは何もできんと言うことを、身をもって知った。だからテルポシエは、俺なり満を持してつぶしに行く。小手先の陰謀やたくらみは要らぬのだ」
――今のところ、何の侵攻材料もねたもないのに、すごい自信だ……。はったりの張り方も、のってきたねえ。よしよし!
じいや役は内心で嬉しく思っている。
しかしルリエフは、ぎりっと奥歯を噛んだ。
「連絡をとって、会見の場を用意してと、手間が無駄になってしまったのは済まなく思う。その手回しのよさを、別のことに発揮するが良い。では……そろそろ帰るとしようか、じいや。ルリエフ、たっしゃでな」
ふわりと外套裾を翻し、グラーニャはもと来た順路をたどって、廃墟の壁の外側に出かけた。
「待っ……待てッッ」
妃と老僕、二人が草むらに踏み出したところで、ルリエフは声を荒げた。
「もう少し……もう少し、詳しく聞いてくれッ。ものすごい話なんだから!」
「要らんと言うに。粘っこいのは、男に低評価しかもたらさんぞ」
少し遠くで、その言葉を耳ざとく聞きつけた人物が、無表情ながらぎくりとした。
「……じゃあ、力ずくでも話を聞いてもらう。絶対に、俺を手放したくなくなるぞ」
グラーニャは両眼を細めて、若者を見た。
その背後で、がさがさりっと音がする。暗色の衣をまとった男達が、灌木や樹々のあいまから姿を現した。十数人もいるだろうか、短槍や長剣を手に、グラーニャ達を遠巻きに取り囲む形になった。じりじりと迫ってくる。
「これは、一体……!? 手荒なことはおやめください、こちらは王妃様なのですぞ!!」
老執事は派手にうろたえた。
「お前の仲間たちか。ルリエフ?」
「そう。俺と同じく脱出した貴族子弟や、脱走市民兵だ」
「……にしては、やたら見かけがむさ苦しいのう。山賊おじさん集団にしか見えぬ」
「鶏がらおばさんに、言われたかねぇぞッ」
近寄ってきた一人が高らかに怒鳴り、何かをグラーニャの頭上に放った……ばささっ!!
「おおっ!?」
あっという間に浜うち網の中に捕らわれて、グラーニャは驚きの声をあげた。危機感はない、むしろ面白がっている!
「騎士団が気付いて寄ってくる前に、場所を変えるぞ! お前ら、王妃をかつげ」
「じいさんはどうする、ルリエフ」
「放っとけ!」
ルリエフの両脇にいた若い男二人は、立ったまま網を外そうともがもがしているグラーニャにさっと近寄って、手を伸ばした。
ばしぃいいいいッッ!!!
その手が強烈な打撃で弾かれた、間髪入れずに細い閃光が彼の側頭部に返る!
ばちぃいいいいん!!!
「うぎゃあああッッ!?」
急所に向けた的確な峰うちに、のけぞりよろめいて失神してゆく男。そのすぐ脇にいたもう一人は、驚いた顔のままでふうっと両膝を地につけてくずおれる。……首筋に、ようじのようなものが突き立っている! 仕込まれているのは麻痺毒のたぐいか。うすれゆく意識の中、彼はよぼよぼしていたはずの老執事が、いまや冷たい怒気をまとって自分をにらんだのを見た。
抜き放った仕込み杖の細い刃を右手に、左手に構えた吹矢を口元近くに当てたまま、ウセル老侯はすらりとなめらかに移動する。しゃがみ込んだグラーニャの小さな身体を、その恰幅のよい体で包み込んだ。
「第二班、突入ーッッ」
おおおおお!!
グラーニャの甲高い声に呼応するように、囲み込んだ男達のさらに後ろから、すさまじく野太い声が響く。
その声とは対照的に、やたらそつのない動きで、何人もの男達が素早く林の中から現れた。どいつもこいつも似たような濃灰の衣に革鎧――覆面布を高く上げて、山刀や棍棒、長剣を手に突進してくる!
ルリエフの仲間たちは一瞬、“エノ傭兵だ!”と錯覚する。何でここに!? テルポシエから遠く離れて、あいつらの恐怖から逃げられたんじゃなかったのか!
彼らの狼狽を、マグ・イーレ傭兵隊第二班はがっつり掴んだ。二人で一人を囲ってつぶす、あっという間に自由と得物を取り上げて、簡易手錠で地に転がす、訓練どおりだ。はい、お次ッ!
ぎょっとしたままグラーニャとウセルの背後にいたルリエフは、仲間のひとりに押しつけられた長槍を手に、はっと我に返る。
「……マグ・イーレの、傭兵部隊だっ!!」
王妃なのだから、グラーニャは騎士団に囲まれてくるのだとしかルリエフは思わなかった。一方グラーニャは約束通りに騎士団は街道口に残して……潜伏しやすい傭兵隊を、実際の護衛に引き連れていたのだ!
――ちょっと考えれば、後ろに控えがあるってわかりそうなもんだけど……。この慌てよう、本気で気付いてなかったね、とんでも世間知らずのもやしちゃん達だ……。
びしーん!!!
覆面布をしていても、毛の量ですぐに誰だか分かるので意味がないかもしれない。もしゃもしゃお団子頭のハナン隊長がまた一丁、不良貴族の短槍を長剣で高く弾き上げた。
「くそうッッ……」
こちらに背を向けている、じじいを刺すか転がすかして、とにかく王妃を盾に逃げよう! そうルリエフは心をはやらせ、穂先をそちらに向けた。
ずどッッ!!!
そのきらめく穂先が、長い脚からの横蹴りであさっての方向へ向く。
はっとして顔を上げたルリエフの目に、巨大なこぶし裏が迫った。
星、星、星……!!
無表情の後ろに最大限のごきげん悪さを湛えて、伝説の傭兵が繰り出した裏拳にルリエフは吹っ飛ばされた。たぶん鼻が折れた、お気に入りのとがり具合よさらば。……しかしルリエフはそのおかげで、うまいこと喧騒の中心から逃れられたのである! 必死に這ってすぐに立ち上がり、そして駆け出す!
「……グラーニャ様、ウセル様」
「おっ、ゲーツ君。面目ない、網を引っかけられてしまったよ」
鎧役をただちに解いて、ウセルは立ち上がった。
「ゲーツ、このアミアミ絡まって取れんのだ。すまんが塩豚のまま、持ち上げてくれるか。ほれ、そこ行くあやつを逃がすでないッッ。ミーヤ、ウリカぁっ!!! 追跡たのむっ、だが殺すなよッッ」
森林間追跡と狙撃にすぐれた二人の傭兵が、ただちに飛び出して敵首領格のあとを追う。そのすぐ後を、グラーニャをひっ抱えたゲーツが追う。
典型的な傭兵風貌から、相手を油断させられないとして今回グラーニャの護衛を外されてしまい、うじうじ恨みがましく悔しがっていたゲーツは、機嫌を直していた。
――だよね、やっぱりグランの護衛は俺じゃないとだめなんだってこと、これで皆わかってくれると良いなあ。ウセルさん好きだけどさ、俺だったら網なんかかぶさせなかったよ。でもグラン、これ塩豚って言うか燻製肉じゃない?
「どこへ行く気なのだ、ルリエフ・ナ・ターム……! はっ、もしや。例の書箱とやらを回収して、逃げる気か」
頬っぺたに網の目が食い込んで、ちょっと痛い! くんせいグラーニャは彼女を抱えてがくがく走るゲーツに言ったのではなかったが、傭兵は耳ざとく聞き取った。
「……知ってる人でしたか」
――あれっ、俺もなんだか聞いたことのあるような名前……しかも、やな感じの……。
「初めて会ったが、オーリフ王の甥御だ」
舌を噛まないように気をつけながら、グラーニャは言った。
ぐにぃぃぃぃっっっ!!!
嫉妬したって意味のない、宿敵恋敵その一(故人)の名がグラーニャの口から出た瞬間、伝説の傭兵は思いっ切り頬肉うちがわを噛んだ!
――返しの裏拳で、粉砕しときゃ良かったぁぁ!!
ミーヤとウリカの二人に追いついた、どちらも大木の裏で中弓を構え、狙撃の姿勢を取っている。三十歩ほど先だろうか、森が少しだけ開けた部分に、標的がいるらしい。
「グラーニャ様。やつはあの大きな丸岩の脇っす」
こちらを向かず、微動すらせずに、ミーヤが囁いた。
「うむっ。……あやつ、何か掘り起こしているな。……石を、取り除けておるのか?」
「みたいだな。……ゲーツさん、俺の左けつの隠しに、小ばさみが入ってんぞ」
ウリカも低く言った。そこでゲーツは、やっぱり動かない同僚狙撃手の左尻をさぐって(何か嫌な表現だ)、取り出したはさみでグラーニャの浜うち網をじゃきじゃき切りほどいた。
「やれやれ、貴重な塩豚経験であった。ありがとう皆」
「おっ。やっこさん、箱を手に立ち上がったぞ」
「ここで仕留めるっすか? グラーニャ様」
「そうだな。軽く足を狙ってくれ」
答える代わりに、二人は相次いでびしばしと撃った。
ずるっと転びかける青年だったが、そのまま駆け出してゆく。それで四人も、がばりと立ち上がる。
「両脚にかすり当てた。遠くにゃ行けない」
「よし。ミーヤ、ウリカ、奴に見られない範囲でついて来てくれ。行くぞゲーツ」
ささっ、……猫じみたしなやかさで、グラーニャは走り出す。