カリーナの決意
すると一瞬、ほんの一瞬だけ、ライ大神官様の表情が抜け落ちたように空虚なものに変わりました。
でもほんの一瞬だけ。
わたしは目にしたような気がしたそれを、気のせいかと思いました。
「愛とは何か、ですか。何にとって、なのか、どういう考え方をもとにするかで違いそうですね」
「あ、いえ、申し訳ありません、そうではなくて──」
「どうでしょうね。例えば神にとっての愛は、広く深いものです。生きとし生けるもの、存在する全てのもの、命ですらないもの、汚れ果てたもの、神々はそういったものすら愛しているような気がします。いずれは同じ神となるものとして、なのか、全て平等に我が子なのか。例えば、ですが」
ライ大神官様はお菓子をひとつつまみ上げました。
「女神様にとって、このお菓子を好きだと思うことも、人を大切に思うことも、どちらも等しく同じなのだと思うのです。料理人がいなければこのお菓子を作るものもいない。お菓子を愛するなら料理人も愛するもの、そういうもののように」
そしてそのお菓子をわたしの口元へと近づけます。お菓子の甘い匂いがして、わたしの唇に触れました。
「口を開けて」
ためらいながらゆっくり口を開けると、お菓子が口内に押し込まれました。
「食べて」
言われるままに咀嚼すると、ライ大神官様は嬉しそうに微笑まれました。
その微笑みに、なにか悪い事をしているような、そんな気分になります。
「女神様にとっては魔物も愛する対象でした。人でないもの、人でなしの犯罪者ですら」
ライ大神官様の笑みが深まりました。
優しさだけが抜け落ちて。
「女神様にとってはいつか愛を知る我が子であり同胞なのです。ただ、その愛はいささかまだ早かったようだと計画を変更してくださったようですが」
「変更、と言うと」
「最高神の交代です」
最高神の交代は、何百年、何千年かに1度、起こるか起こらないかの出来事なのだそうです。
今回、愛の女神様は光の神様にその地位をお譲りになられました。
それがわたし達にどういう影響を与えるのかは分かりませんが、決して悪い事ではないようです。
こうして世界が巻き戻る事で悪しき出来事を避ける機会を得られ、スタンピードさえも避けられたのならそれはきっと歓迎すべき事なのでしょう。
様子の変わったライ大神官様の表情を見て、わたしは決意しました。
「わたし、聖女になります」
ライ大神官様は冷ややかにわたしを見ました。
「なぜです?」
「……分かりません。そうしたほうがいい気がしました」
大きくため息をついて、ライ大神官様は言いました。呆れたような声音です。
「なんとなくで大事な事を決めてもいい事はありませんよ?」
「なんとなく、かもしれません。でも、決めました」
わたしの視線とライ大神官様の視線がぶつかります。
こんなに冷たい視線をライ大神官様に向けられるのは初めてで、わたしは泣きそうになりました。
けれど、決めたのです。
少しでもいい、ライ大神官様のお役に立ちたい。
あんな胸が痛くなるような顔をさせたくないと。
「……無理はしないように。いつか──」
ライ大神官様はそこで言葉を途切らせました。
いつか?
見上げたわたしの頬を、ライ大神官様がそっと撫でます。
そして微笑みました。
「こんな世界でも、必ずあなたを幸せにいたしましょう。今度こそ」
その微笑みのあまりの美しさにわたしは顔を伏せてしまいました。
女ならば傾国であったと言われるほどのライ大神官様の美貌は、わたしには受け止めきれないものであったのです。
それからわたしは成人の儀で聖女と認定され、神殿に入りました。
神殿にはまだ旧態然とした『神に愛されている人間』を誇らしく思っている人たちがいて、神の愛をためし続けるかのように傲慢に振る舞っていたり。
最高神の交代は女神様を騙して行われたものであると主張する人たちがいたり。
法の目をかいくぐって他者を踏みつけ、奴隷のように扱う者らの権利を擁護する人たちがいたりと、ライ大神官様の立場もけして盤石ではありませんでした。
光は愛ではなく、光の神とは冷たく厳しいもので、人にそれ相応のものを求めるのだと。
ただ生きるのにも気高さが求められているのだと人々が理解するまでには様々な事がありました。
けれど、王国はそれら多くの事を乗り越えて光り輝く太陽と星々の国として歩み始めています。
神殿も多くのことが変わりました。
1番は神官の妻帯と聖女の還俗が認められた事でしょうか。
わたしとライ大神官様は結婚し、子どもももうけました。
みんなわたしにはあまり似ておらず、賢く美しい子たちばかりです。
今もお腹の大きなわたしを気づかって、周りに集まってきてなにくれとなく世話を焼いてくれます。
「お母様、父様が帰ってこられました」
「まあ、早かったのですね」
「きっと、お父様もいつ生まれるか気が気ではないのですよ」
「女の子とわかってからは、毎日のようにお母様に似た子になりますようにと主神様にお祈りなさっていますしね」
「わたしはお父様に似ていてほしいのですが」
なにしろ、茶色い髪に茶色い目のわたしよりは、先に生まれた兄たちのように銀髪に紫の瞳であってほしいのです。
女の子ならばなおのこと。
「いずれにしてもきっと可愛い子です。僕が最高のお婿さんを見つけて、最高に幸せにしてみせます!」
力強く言い切った末の息子に、上の兄たちがふざけて怒ってみせます。
「それは長男の僕の仕事だ」
「いいや、僕が世界中まわって探してきます!」
「いえ、僕です!」
「僕だ」
「僕だって!」
にぎやかな庭に、大きな影が差しました。
「なんの騒ぎだ?」
「父様!」
「お父様!」
「お帰りなさい!」
穏やかに微笑む美しい人は、子どもたちに囲まれて幸せそうに微笑みながらわたしのほうを見ました。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま、カリーナ」
ぽこ、とお腹の中の我が子が動いて、わたしは一瞬驚いて、そして笑ってしまいました。
「どうした、何を笑っているんだ」
「いいえ、いいえ、この子も挨拶したいようなのです」
「そうか。では早く出てきてくれねばな」
「もう少しですよ」
「待ちきれないんだ」
その言葉に答えるように、お腹の中で動く我が子。
巻き戻る前の記憶はとうに薄れ、過去世の記憶は一度たりとて戻る事はありませんでした。
わたしの大きなお腹を抱いて幸せそうに微笑む銀色の頭を抱きしめ、感謝の言葉を囁きます。
この人のなんの役に立てたかはわからないけれど、この先もずっと、こうしてこの愛しい魂を抱きしめていよう。
愛が何かはわからないけれど、こうして光の中で。
わたしは愛しい家族たちをこの両手に抱きしめたのでした。




