頼朝からの見方1。
2.頼朝の戦後構想について
次に頼朝です。
ここで言う、義経が破壊した頼朝の戦後構想とは何なのか。
それは、ほかならぬ武家政権樹立のための体制づくりでしょう。
そのために朝廷と有利な条件で交渉ができる材料として神器と安徳が必要だったのです(結果的にはいらなかったと言えるのかもしれないけど)。
なんだったら、戦ではなく和平交渉をして神器と安徳を奪還しても良かった。
その意向を無視して平家殲滅をやり遂げてしまったのが、義経の空気が読めないゆえんだというわけです。
しかし、これは歴史をダイジェストで後から俯瞰で見られる、現代人の意識によるものです。
確かに頼朝は、平家殲滅の前に、和平交渉を朝廷を通じて打診しています。
人質・平重衡の身柄と引き換えに神器と安徳を返しませんか? と平家に提案しているのですが、平家(平宗盛)は徹底抗戦すべくこれを蹴ります。
あくまで神器等の奪還を求める勢力も朝廷にはあったのですが、ほかならぬ後白河法皇が「平家殲滅最優先!」という立場でした。
ある時などは、「平家に、講和の使者と追討軍を同時に派遣したらいいんじゃね?」という意見が後白河側から出て、九条兼実らが「そんなバカな話ないでしょう」とやめさせています。
もう講和なんて無理なんですよ。
これでも講和を求めようなんて言う方が空気読めてないです。
この時点で、神器と安徳の運命は決していたのかもしれません。
だってもういつでも、平家の手で神器は壊しも埋めもできるし、安徳は死なせられるし。
3.空気を読む前にネットがない
さらに、そもそも頼朝の意向って義経にちゃんと伝わってたの? という問題があります。
頼朝は、主軍である範頼には「神器と安徳天皇を奪還せよ!」と何度も手紙を送っています。
一方、義経の搦め手は、苦戦する範頼を見かねて急遽京から出撃しています。
この時、さすがに義経でも頼朝の兵を勝手に動員するのはムリだろうし、戦支度なんて一瞬でできるものでもないから、「頼朝と、出撃に関してなんらかのやり取りがあったのではないか?」とは言われています(記録上、頼朝がスムーズに義経の代官を出していたりするのもそれを裏付けると思われます)。
しかし、神器と安徳の奪還命令については、義経に伝わっていた記録はありません。
そもそも、よく言われる「頼朝の戦後構想」なんですが、頼朝の中でいつ決まったのかも不明です。
範頼・義経軍が平家の前に木曽義仲と戦った後、頼朝は上洛しようとして、関東の有力武家にいさめられてやめています。
つまりこの時点では、鎌倉での武家政権樹立という構想が頼朝にはまだなかったと思われます。
そして対義仲戦のために出撃した義経は、政務に関する手紙こそ頼朝とやり取りするものの、結局その後一度も鎌倉に帰れていません。
会ってもおらず手紙にも書かれていないのに、義経がどうやって「平家撲滅後、日本史上初の武家政権樹立をやるぞ!」などという、いつ出来上がったのかも分からない頼朝の構想を理解できるというのでしょうか。
義経を空気読めないとか言う前に、平安末期にはネットもLINEもないという世情を、現代の義経批判者は読むべきなのではないでしょうか。
義経以外の、鎌倉在住してない武士も、誰もそんなこと分かってなかったと思うよ。
当時の鎌倉中枢の、公にしてもいない構想を、SNSでリプ飛ばすノリで読み取るというのは不可能だと思うんですよ。