ケータイ情話~ぼくらは前期高齢少年団~
〜ぼくらは前期高齢少年団余話〜
一
「弱い球団やなあ、関鉄ヒッターズちゅうとこは。あんだけピッチャー放り込んで、よう勝てへんのやから。プロの看板外して中野連にでも入れてもろうたら、ええんや」
「ほんまや。監督代わったって、いっこも強ならへんやないか。ポーカーみたいに、フロントごと選手の総替えせんとあかんで」
「そのうえ、だらだら試合しやがって。おかげで、電車こんなに遅うなってもうたがな。こらあ駅に着いたらタクシーしかないで。えらいもの要りや」
久方ぶりに、三人一緒で野球見物に出かけた八郎、吉造、勝。ひいき筋の関鉄が負けたものだからみんな機嫌が悪い。昨日まで四連敗していただけに、今日くらい勝ちよるやろと、わざわざ球場まで足を運んで応援してやったのに、まさかの五連敗。年金暮らしの乏しい小遣いを工面して出かけただけに、腹立ちもなおさらなのである。
悪童仲間として育った彼らは、長じてそれぞれの道をたどったが、最近ひょんなことから再会した。すぐさま往年のバイタリティーが復活、秘密指令などと称して、またもや怪しげな行動を繰り返しながら町内をはいかいする前期高齢少年団としてよみがえった。
関鉄から地下鉄に乗り換え、近南電車の浪花駅に着いたとき、急行は出払ったあとで、改札の行き先掲示板にはたった一本を残すのみ。もはや終電の各駅停車となっていた。
「なんや、最終か。家に着いたら真夜中やんけ。また、おばはんに文句言われんならん。関鉄のおかげで、えらい迷惑や」
球場までは二時間以上もかかるので、まともに試合が終わっていても、バスのある時刻に帰れるわけはない。シーズンになると、連日吉造のアパートへ入り浸り、缶ビール片手に、わいわい言いながら三人でナイター中継を見るのが日課で、勝ったの、負けたのとうるさいこと、この上ない。そのいれ込みようにヨメさんらもあきれ顔だ。
「リーグ優勝やいうて、わいわい騒いではるけど、全部で何チームあるのん。ええっ、たった六球団!? なんや、みんなえらい喜んでるから何十もあるんかと思うた。そんなら確率六分の一でんがな。この辺の草野球でも十三チーム、両リーグ合わせたよりようけおまっせ。そこで優勝する方が、ずっと難しいんちゃいますか」
などと、始終ケチをつけられているのだから、いまさら嫌味がどうのこうのというようなものでもない。ただ、チームが負けた腹いせの持って行き場がないから、ぶつぶつ愚痴を並べているだけのことなのである。
二
普段なら終電といっても、酔っ払ったサラリーマンらで結構込んでいるが、週末ということもあって、車内はがらがらだった。彼らの乗った車両には、十人あまりしか乗客がいない。
三人は、おとなしそうな若い娘の斜め前に腰を下ろした。疲れと関鉄のボロ負けで、しゃべる元気も失せ、彼らはただ、ぼけっと座り込んでいるだけだった。
やがて、発車の時刻が来て、電車はウィンウィンウィンと、モーターの回転音を上げながらターミナルを離れた。さびしげにぽつぽつと明かりの灯る街の中を、四両編成の車両は一駅一駅、降りる客はいないかどうか確かめるようにして走って行った。
終電は駅に止まって、ドアの開いたときがわびしい。人気のないプラットホームに、用もないのに開いた乗降口は、何かぶざまで寒々している。
その静けさの中で、突然隅の席に座っていた男の携帯電話が、着信音を響かせた。八郎たちは、嫌な予感がした。彼らは、この時代にも似合わず、携帯嫌いなのである。一昔前まで携帯電話嫌いの高齢者は多かったが、いまどき友達三人そろって持っていないというのも珍しい。
八郎も、パソコンをさわるだけに、このような通信機器自体にアレルギーがあるわけではない。その扱い方に不満がある。
公共の場では、節度を守ってほしい。急ぎの呼び出しもあるだろう。決まりとはいえ、これだけ普及した時代に、車内で絶対電話に出るなというのも難しい。
以前は、若者の独壇場のように見かけられたが、最近は中年や老年と言ってもいいくらいの者たちのルール無視を目にするようになった。
上得意の電話を逃すわけにはいかない。特にこの不況時、一件でも得意先の仕事を失いたくない。電車の中でも携帯を取りたい気持ちはわかる。
だが、
「はい、いつもお世話になっております。はい、はい、はい……、いえ、いえ全く迷惑ではございません。御社の……」
の大声に
――お前はようても、ワシらは迷惑やっちゅうのに――
と反応したくなる。
とはいえ、最近は以前ほど車内で傍若無人に大声で話しまくる輩は少なくなった。やや遠慮がちに、かかってきた電話にぼそぼそと話し込む程度にはなったようだ。しかし、小声は小声で気になる。何をしゃべっているのか、かえって耳をそばだててしまうのも厄介だ。
とにかく電車の中は静かにしていたい。でないと居眠りもでけへんやないか、とケータイを取った若者を、いやな思いで見つめた。
「おう、おう。いま電車の中や。なんや」
空いた終電という、他人への気兼ねが薄れる時間帯のせいか、男の声は遠慮なかった。シートの上に乗せた片足を支えにして、右手でケータイを耳に当てた男は、だらしない口調で話し始めた。
「明日か、何も用ないけど。おう、ええなあ。久しぶりやからなあ、競馬場は。ダチ公も連れてこいよ。すんだら、焼き肉でも食おうや、鶴橋で」
電車の中と聞いた友達が電話を切るかと思えば、全く関係なしとの長電話。くだんの男も、発車時の「車内での携帯電話は、他のお客様のご迷惑にもなりますので、ご遠慮ください」の放送もどこ吹く風で、あたりかまわず口から泡を飛ばす。三人のみけんには、深いしわが寄った。
「10レースは、ヌレテデアワーかシロクジビリやろな。ええ、違う? タマノトビダシやて。あほか、そんなフンドシが破れたような馬が来るかい。そやから、お前ら素人なんや。あのな、ケイバっちゅうもんはな……」
と、いかに自分が予想屋はだしで、どれだけもうけたか、えんえん自慢話を続けた。人は大体もうけたときの話しかしない。それが分かっているだけに、聞いている方の気分は悪い。
思いっきり、しゃべりまくった揚げ句、降りていったあとを見ると、食べこぼしや包み紙がシートの上に散らばり、窓枠には何とかシェークのコップが乗せられたままだった。
「何をかいわんや、やな。公衆道徳なんて、もはや前世紀の遺物になってしもうたわ」
「前世紀て、十九世紀か、二十世紀のことか」
「アホ、そんな問題やないやろ」
真顔で聞いた勝を、吉造は怒鳴った。
三
本線からニュータウンに向かう別の路線へと移る分岐点の駅で、電車は時間待ちのため少しの間停車した。車内はもう数組の客しか残っていない。三人のほか、中年の夫婦、斜め前に座っているOL風の若い娘、初老の婦人に作業着を着た男、居眠りをしている会社員らである。
駅のアナウンスもなく、急に扉が閉まり、ホームの風景が後ろへと流れ始めた。そのとき、前の席からプルルルルルという、やや控えめな呼び出し音が聞こえてきた。
バッグから、娘は淡いワインレッドの携帯電話を取り出し耳に当てた。
またか、三人の表情は曇った。ムッとした表情で八郎が立ち上がりかけた。しかし、勝が、その腕を押さえた。以前のことがあったからである。
ジュースの缶を足元に残したまま降りようとした少年グループを、八郎がとがめたことから、いさかいになり、車掌や駅員が飛んできた。このため、電車の出発を遅らせてしまったのである。一緒にいた吉造らが一生懸命説明して謝ったため穏便にすんだが、またトラブルになってこれ以上帰るのが遅れたら、家に入れてもらえるかさえ危うい。
口元をゆがませて、しぶしぶ八郎は腰を下ろし直した。
「はい、私です」
か細い娘の声が聞こえた。藤原里緒菜ばりの目鼻立ちがくっきりした女性である。少しばかり憂いを含んだ表情をたたえているのが、かえって魅力的だ。
「いま、電車の中ですので、のちほど。……ええ、あと二十分ほどで着きます、だから……。ええっ、どうして?婦長さん」
彼女の顔に緊張と驚きの色が浮かんだ。うわずった声の変化に、周りの乗客は一斉に彼女に目を向けた。三人もけげんそうにそちらを見た。
「なぜ。朝はちゃんとお話もできたのに……」
本線をくぐるため、電車は両側の線路の間に沈み込んで行った。
ゴーゴーという電車音がトンネルの中でこだまし、彼女の声は大きくなった。窓の外を等間隔に通り過ぎる構内の明かりが、心の動揺を表すかのようにちかちかと頬を照らした。
「……うそよ、うそ。私、信じない。あの人が……」
八郎たちの顔から先ほど来のけわしさが消え、心配げな表情に変わった。電話の向こうで深刻な事態の起こっていることがおぼろげに察せられた。携帯を耳に押しつけたまま、娘は感情の押し寄せる波をこらえるかのように、じっと下を向いた。かすかに肩のふるえるのが見えた。
しばらくして、彼女は長い髪をぐっとかき上げると首を起こした。
「どこからかけて頂いているのですか」
気を取り直すかのようにして通話の相手に尋ねた。
「ナースセンターから? なら、ICUは隣ですね。すみませんが、コードを伸ばして受話器をあの人の耳元に置いていただけませんか。すぐ近くに。いいえ、いいんです、意識がなくっても」
顔を上げた彼女は、重苦しさをたたえてはいたものの、何かを決意したかのような、毅然とした表情をみせていた。電話の向こう側で準備が整ったのか、間もなく彼女は静かに話し出した。
「おい、直スケ。聞こえてるか。だめじゃないか、こんな可愛い娘を放っていっちゃあ。男として情けないだろ。もっと頑張れよ、せめて私が病院に着くまで。……ね、お願い。もう少しでいいから、私のために生きていて」
最後の言葉は、振り絞るような声だった。
電車は外へ出て高架になった。再び町の灯が見えた。乗客たちは、息苦しさが少し和らいだ気がした。彼女も大きく息をして、言葉を続けた。
「ねえ、聞こえる? 聞いていてくれてるわよね。初めて会ったのは一年前の春だったわ」
不思議と娘の顔からは苦しみの表情が消え、普段恋人同士が電話で語らうときのような、明るくにこやかな顔つきに変わっていた。
「私がこの携帯を落としたのが始まりだったわ。あなたが拾ってくれたのよね。でも、なくなったのに気づいたのは、ずっと後だった。定期を出そうと開けたバッグに電話がないのに気づいて、あわてたわ。いろいろ考えたけど、どこでなくしたのか思い出せない。だから、公衆から自分の番号にかけたの。何て言ったらいいか分からなかったから、モシモシって話しかけたら、あなたもモシモシって。二人で何回もモシモシ、モシモシばかり言い合ったの。おかしかったわ」
彼女は、はなをすすった。他の乗客もうつむいてじっと黙っていた。
「最初のデートの行き先があんなところだとは、思いもしなかったわ。ドライブだというから、マリン・ブリッジの夕日とか、星空の里でも見せに連れていってくれるのかと期待していたのに、着いたところは山奥の小さな村だった。ぼくの一番大事な人に会わせるよと言って」
携帯を持つ手を少し傾け、過ぎ去った時間を追うようにして、娘は目を輝かせた。
「彼女をデートに誘っておきながら、ぼくの一番大事な人のところへ連れていくだなんて、なんという言い草だ、このやろう、と最初はふくれっ面だったのよ。農家の前にある畑のところで車が止まり、紹介してくれたのが、あなたのおばあちゃんだったわね。キャベツ畑から立ち上がったのは、とてもにこやかで、かわいいおばあちゃんだった。一言二言ことばを交わしただけで、いっぺんに好きになったわ」
乗客たちは、うっとりと彼女のさわやかな語り口に聞きほれていた。八郎でさえも、まだこんなやさしくも若い女性が、日本に残っていたのかと見直したくらいである。
「早くからご両親をなくしたあなたを育てたのは、おばあちゃんだった。そして、アルバイトで学資を稼ぎながら、親類の家に寄宿して学校へ通っているのだと話してくれた。その日の晩は楽しかったわ。畑でとれた野菜をおかずにして、みんなで飲んだビールの味、酔っぱらって踊り出したあなたたち二人、おなかを抱えて笑い転げた私。忘れない、あの思い出は絶対に。でも。でも、皮肉よね。二人を結びつけた携帯が、こんどは私たちを引き裂くことになるだなんて」
急に彼女の声が低く暗く変わった。八郎らは、不安げな面持ちになった。
四
「私が、あんなことしなければ、あのとき電話しなければ、あなたをこんな目に遭わせはしなかったのに。私が悪かったの、ゆるして」
彼女の声がうるんだ。
「電話した私が悪かったの。待ち合わせの場所に、あなたがいつまでたっても現れないものだからかけてしまったの。携帯に気を取られ、うっかり横断しかけたあなたにトラックが突っ込んできた。あなたの叫び声、いまも耳の底にこびりついて離れない」
中年夫婦の妻と、老婦人はハンカチを取り出し、目に当てている。男たちも、しかめっ面をつくって、あふれくる感情を何とか抑えようと必死でこらえていた。
「おばあちゃんが、田舎で待ってるのよ。あなたが死んだらどうなるの。あんな大切な人を残していくの……。いつかあなたは「夜の配達便」という番組におばあちゃんあての手紙を送ったでしょ。おばあちゃんがいつもラジオの深夜放送を聴いているからって。あの日の放送をわたし一言一句覚えているわ」
必死に涙をこらえ、彼女は携帯電話に向かって話し続けた。
「おめでとう、今日はおばあちゃんの七十回目の誕生日だね。今月はアルバイト料も少なくて、手紙だけしか送ってあげられなくてごめんね。
考えたら、おばあちゃんの人生は苦労の連続だった。じいちゃんは出稼ぎに出たまま帰らなかった。家は火事に遭い、働いていた工場も倒産した。ぼくの母を亡くしたときは、どれだけ辛かったことか。
私は楽観論者だからと、いつも明るく振る舞っていたけど、米びつをのぞき込みながら何度も台所の隅で泣いていたおばあちゃんを、僕はよく覚えている。
まもなく僕も卒業だ。これからは、ばあちゃんに楽をしてもらうため力いっぱい働くよ。その日を楽しみにしていてね」
これほどさわやかで感動を与える朗読を、これまでだれも聞いたことはなかった。
よどみなく語り終えた彼女は、しばらく口元をふるわせていたが、とうとう抑えられなくなった涙がせきを切った。
「泳ぎに行こうと、言ったじゃない。スキーに連れて行ってくれるって言ったじゃない。ひとりにしないって言ったじゃない。なのに、どうして……」
あとは声にならなかった。
正面の席にいた中年夫婦の夫は、がっしりとたくましい大男だったが、日照りで溶け始めた鬼がわらのような顔つきになって、からだ全体で泣いていた。
八郎はというと、もう、はな水でぐじゅぐじゅ。勝も、関鉄ヒッターズのロゴ入りタオルで顔を覆っていた。労働者風の男は唇をかみしめながら天井をにらみ、若者も走り去る窓外の景色を見るふりをして、赤い鼻を隠していた。吉造だけは、腕を組んだまま、ただじっと黙って目を閉じていた。
うつむいて、悲しみをこらえていた彼女の頭が突然、跳ね上がった。
「えっ、どうしたの。何があったの。……ええっ、そんな、そんな。もう少しで、もう少しで駅に着くから。飛んで行くから……」
電話の向こうに異変があったのか、彼女は、携帯に向かってかきくどいた。それは、もう声というより、心の底から突き上げるうめきだった。
そのとき電車は、終着駅にすべり込んだ。乗客たちはドアの開くのを、これほど遅く感じたことはなかった。少しぐらい動いていてもいいから開けてやればいいのに、皆はそう思った。
席を立ち上がり、扉に吸い付くように立っていた彼女は、開きかけたドアのすき間から身をよじらせるようにしてホームへ飛び出していった。
車内に残った乗客は、じっと座ったままで、すぐに立ち上がる者はなかった。目の前で繰り広げられた悲劇的な愛の結末に打ちひしがれて、自分を取り戻すのに、時間がかかった。やがて、ぽつりぽつりと席を立ち、人々はホームへと降りていった。
五
三人が駅を出たのは、一番最後だった。もちろん駅前広場のタクシーはすでに出払っていた。車が戻るまで、ベンチで待ちながら、彼らはそれぞれ携帯電話の女性に思いをはせていた。
「ケータイっちゅうのも、役に立つんやなあ。ひとつ買うてみよか。いや前々から、あれは便利やと思とってん。ヨメはんにも持ちなはれて言われてるしな。いつも鉄砲玉で、出ていったまま、用事があっても捕まらんよってに、といわれて」
珍しくしんみりした調子で、八郎が口を開いた。
「わしは独りもんやよってに、いらんわ。かける相手もないし、かかってくることもない」
吉造の言葉に、八郎が利点を述べて誘った。
「ケータイて、しゃべるだけやあらへん。株の取引や銀行振り込み、スポーツのチケットを買うのにも使えるんやで」
「ほんまか、そらあ便利やなあ」
若いときから利殖に株の売買をやっている吉造も、これを聞いて乗り気になったようだった。
「わしも、年金入ったら買うてもええかて、娘に聞いてみるわ」
勝も、話に加わった。
「みんなで持ったら連絡も取りやすうて、どこに行くにもええで」
「そやなあ」
衆議一決、次の年金支給日にみんなそろって、日本橋のケータイ屋へ行くことが決まった。
そうこうしていうるち、前の客を送ったタクシーが帰ってきた。そのうちの一台に三人は乗り込んだ。
「代金、ワシ払うとくよって。明日会うたとき、割り勘にしよ」
八郎の声に、二人は
「OK」
と答え、シートにもたれ込んだ。
「あの娘には気の毒やけど、今日はすがすがしい気分になれたなあ。あんなええ女の子がまだおるやなんて、思わなんだわ。そやろ、吉ちゃん」
勝は、よほど感動したのか何度も繰り返した。
「まあな」
と、吉造は答えた。
「冷たい返事やなあ。なあ、八ちゃん。わしなんか、もう涙が出て止まれへなんだわ。多分あの死にかけている彼氏も性格のええ好青年やと思うわ」
八郎も相づちを打った。だが、吉造はもうひとつ、すっきりした意見を言わなかった。女嫌いで通っている吉造だけに、女性を褒めるのは気恥ずかしかったのかもしれない。
タクシーは、ほとんど灯の消えた団地の道を走っていたが、前を見ていた勝がすっとんきょうな声を上げた。
「前、行く娘、あのさっきの携帯電話の女の子と違うか」
八郎らは、またあわて者の勝が見間違ったのだろうと思いながらも、首を伸ばして前方を見た。
「そんなことないやろ、今時分この辺歩いてへんで。もうとっくに、病院へ着いとるはずや。あれえっ、あの娘や。なんでやろ」
前方を歩いていく娘の姿に、吉造もびっくりした。
「もしかしたら、タクシー捕まえられへんかったんかもしれん。歩いとったら間に合わん。乗せたろ。運転手さん、ちょっとあの女の子のとこで止まってえな」
八郎の声を聞いた運転手は、車を歩道に寄せ、娘のわきで止めた。
「あんた、さっき電車に乗ってた娘さんやろ。タクシー乗せたるさかい病院へ急ごう。でないと、恋人の死に目に合われへんで」
勝が、窓から首を出し、呼びかけた。すると、娘は一瞬きょとんとした表情をみせたが、すぐ普段の顔に戻り、にこりとほほ笑んだ。
「ごめんなさい。あれ、お芝居だったの」
「ええっ、お芝居?」
三人はキツネにつままれたような顔をした。
「わたし、小さな劇団に入っているの。こんど舞台で初めて主役に抜擢されたんだけど、うまいこと出来るかどうか心配だったの。それで、乗客のみなさんをだますようで心苦しかったけど、練習をさせてもらったのよ。電話の呼び出し音は、アラーム機能よ。でも、みんな演技を感じ取ってくれたようだったし、この調子なら大丈夫ね。自信がついたわ。うふっ、お芝居してたらおなかがすいちゃった。コンビニに寄ってカップラーメンでも買っていこ。じゃあね、さよなら」
あっけにとられている三人を残して、娘はさっそうとタクシーの前を横切って行った。
しばらく、ぽかんとしていた八郎の腹の底から、怒りがむらむらっとわき上がってきた。
「こら、運転手、なにボサーッとして、こんな所に止まっとるねん。はよ走らんかい」
「いや、あんたらが止まれて言うたさかい……」
「だれが、そんなこと言うたんや」
「あんたやがな」
「聞き損いちゃうか」
「むちゃ言いよるなあ、もう。ほな、行きまっせ」
運転手はムッとして、荒々しくレバーを動かし、車を発進させた。
「そやから、わしは言うたんや。最近の若いもんは教育がなっとらんて。こんな年寄りらを担ぎよって。そやから、ワシ携帯は持てへんねん。用があったら、行って話したらええんや。あんなもん持つやつの気が知れんわ」
別段携帯電話に責任があるわけでもないのに、憤まんやるかたないといった面持ちで、八郎は息巻いた。
「そやそや。そやからわしは、女が好かんのや。女っちゅうのは、いつも男をだまして喜んどるんや。あいつらみんな詐欺師や、ペテン師や」
吉造は、いつもの女性べっ視論を持ち出し、八郎の言葉を継いだ。
「そんなん、言うたって、さっきはケータイ便利や、株取引もできると褒めとったやないか。あの話はどうなるねん」
先ほどまでとうって変わった彼らの態度に、戸惑いながら勝は聞いた。
「何の話や」
二人は口をそろえた。
「いや、言うたやんか。今度いっしょに日本橋の電器屋へ携帯電話買いに……」
「おまえ寝ぼけてるのんちゃうか。それとも、ただ、ぼけとるんか。みんな便利やと言うとるなあという、世間の風潮を教えたっただけや」
勝の追及に、八郎は詰まりながら答えた。
「そやそや」
吉造が相づちを打った。彼は、昔からこういうふうに風向きが悪くなると、八郎にしゃべらせて自分は、そやそや、の一点張りとなる。
「そやかて、あのときは、ほんまに」
と、言いかけた勝を遮り、八郎と吉造はまた怒鳴った。
「そんなに行きたかったら、一人で行け」
「そやそや」
日ごろはおとなしい勝も、あまりの変わりように口をとがらせた。
「わしだけ買うても、かかってくるのん間違い電話だけやないか。みんなが持ついうから賛成したのに」
と、ぶつぶつと続ける繰り言に、
「そんなん知るか。死ネ、あほ」
「そやそや」
と、ぼろくそに言われ、とうとう勝は黙ってしまった。
ムスッ
ムスッ
ムスッ
ムスッ
とした四人を乗せた車は団地の坂道を、ゆらゆらと上って行った。
ただ、もし、あの娘の今度演じる舞台が、自身の体験をもとにドラマ化した実話だったと知ったなら、皆の怒りは少しくらい和らいだことだろう。
(おわり)
〔この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは関係ありません〕
次の作品もよろしく。
●前期高齢少年団シリーズ『ミッション・インポシブルを決行せよ』『車消滅作戦、危機一髪』『秘密指令、目撃者を黙らせろ』『さよならは天使のパンツ大作戦』
●千鶴と美里の仲よし事件簿『尿瓶も茶瓶も総動員、人質少女を救い出せ』『グルメの誘いは甘いワナ』、『昔の彼は左利き』
●超短編集『美しい水車小屋の娘』『虹色のくも』『はだかの王さま』『森の熊さん』『うさぎとかめ』『アラジンと魔法のパンツ』『早すぎた埋葬』
(上段もしくは、小説案内ページに戻り、「小説情報」を選んで、作品一覧からクリックしていただければ、お読みになれます)