2、魔術を扱う女性
* * *
ディーナが住んでいるウェルス国では、一年前から東に接しているイルス国との間で争いが起きていた。それまでは穏やかな関係を保っていたが、ある事件をきっかけとして二国間に亀裂が入ったのである。
事件が起きる数ヶ月前、二つの国の境に珍しい鉱山資源地帯が見つかった。当初は国境で線引きをして、東はイルス国が採掘する土地、それより西はウェルス国が採掘する土地と決めていた。
しかし、その数か月後にイルス国にウェルス国民が不法侵入して、資源を獲っていったという噂が流れたのである。あくまでも噂であり、真実かどうかは定かではなかったが、それを契機としてイルス国はウェルス国に攻撃を仕掛けてきたのだ。
ウェルス国は必死に弁明し、話し合いの場を求めようとしたが、イルス国は決して耳を傾けようとはしなかった。
特に露骨な対応をしたのが、前線に立つ三十歳に近い第一王子であった。彼はウェルス国に踏み入った際に訪れた小さな村で、村長の話を聞かなかっただけでなく、命を懇願してきた女子供を容赦なく斬ったという。おそらく相手国で最も冷徹であり、話を聞かない男だ。
だから仮に身分的にも高い人間と接触するならば、国王か、それが無理ならば第二王子あたりが有力となってくるはずだ。
シゲイルを置いてディーナがまず向かったのは、ウェルス国の東部で最も大きな町のバロッカ町だった。ローブについているフードを被り、馬車を乗り継ぎながら、その町に向かった。国の中でも五番目に大きな町だが、過去に訪れたときとは雰囲気ががらりと変わっていた。活気はなく、人の往来もまばらになっている。
フードを深く被って、ディーナは通りを歩いていった。そこから戦況が聞こえてきた。
「とうとう東部の町が落とされたらしいよ……。イルス軍はその町で補給を終えたら、こっちに来るらしい」
「つまりそのうちバロッカ町にも来るんじゃねぇか? あいつらの狙いはウェルス国の中枢だろう。ちょうど通り道じゃねぇか!」
「ああ。すぐにでも逃げる準備をした方がいい。……だがな、面白い話も聞いた。どうやらイルス軍の内部は二つに分かれていて、そこで対立しているらしい。もともと第一王子の強行的な行動に違和感を持っている奴らも多かったから、侵攻を止めようと動き出したとか」
「イルス軍の内部でもたもたしているのなら、その隙をウェルス軍がつけばいいんじゃないか?」
「そうしたいだろうが、こっちは人もいないし、物資も足りてない。戦いの当初に参戦した魔術師がいれば、多少は変わってくるかもしれないが……」
ディーナはフードを両手で持ちながら、足早にその場から立ち去った。
通りで話している人たちの会話を盗み聞き、町に漂う重い空気を感じながら、寄り道をせずに目的地まで進んでいく。やがて路地裏に入り、少し歩いたところにある古びた家に足を踏み入れた。
朽ちかけた家の中を進むと、地下へと続く階段がある。踏む度に軋む床を進みながら階段を下りた。そして硬質な素材でできた丈夫な扉を三回連続二度叩いた。
「ご無沙汰しています、ディーナです。どなたかいませんか?」
その場でしばらく待っていると、ゆっくりと扉が開いた。むすっとした厳つい顔つきの男が見下ろしてくる。彼はディーナのことを見ると、ぱっと目を丸くした。
「おい、どうしてここに……!」
「お願いがあって参りました」
頭を下げようとすると、男が扉を大きく開いた。
「中に入れ。聞かれたくない話をするんだろう。それに顔を見せた方が、皆が喜ぶ」
「ありがとうございます」
礼を言って、ディーナは地下の部屋へと入った。男に促されながら、フードを下ろして歩いていくと、部屋の中にいた人たちから次々と驚きの声をあげられた。彼らに対して軽く会釈をして進んでいく。
奥まで行くと、一人の女性が机の前で本を広げて座っていた。薬屋の店主と顔立ちがどことなく似ている女性だ。彼女はディーナのことを見て、静かに本を机の上に置いた。
「久しぶり、元気そうじゃない。姉さんから少し話は聞いている。イルス軍との戦況について、嗅ぎ回っているらしいじゃないか」
「ご存じであるのならば、単刀直入にお聞きします。私をイルス国に行かせることは可能ですか?」
女性はふっと鼻で笑った。そして顔の前で両手を組む。
「何をする気だ。まさかイルスの王子でも暗殺する気か? それで戦争を終わらせるつもりか?」
ディーナは眉をひそめた後に首を横に振った。
「違います。国王と会って、話し合いで戦争を終わらせたいのです」
かすかにざわめいていた室内が静まりかえった。女性は目を細める。
「接触できるかどうかもわからない、接触したとしても無事に戻れるとは限らない、そして話し合いをしたとしても、望み通りの結果になるかはわからないよ? なぜそんな危険を冒す必要がある? 力があるがためにイルス国との戦場の最前線に送られた結果が、その背中の傷だろう! 次に戦場に立ったとき、私たちがディーナを助けられる保障はどこにもない!」
ディーナはちらりと自分の背中に目を向けた。髪を下ろしているためわからないが、首筋付近から背中にかけて大きな切り傷が走っている。それはかつて戦場に立った際、負った傷だ。隙をつかれて深々と切り裂かれた傷は大量出血となり、意識不明の重体に陥った。その時助けてくれたのが、ディーナを派遣した国の直属の軍ではなく、この場に集う、雇われ者の傭兵たちだった。
奇跡的に一命を取り戻した後は、体が満足に動けるようになるまではここで匿われていた。血生臭い戦場を生きているとは思えないほど、陽気で朗らかな人ばかりである。だが一人、また一人と、二度と帰らない人が増える度に、空気が重くなっていった。
ディーナは多くの人の視線を全身で受けながら、声を振り絞った。
「……どうにかして、この戦いを終わらせたい」
「それは私たちも同じ想いだ。だがディーナが戦場に出て行けば、真っ先に攻撃されるだろう。それでもなぜ行きたいんだ?」
ディーナの脳裏に浮かぶのは、訳ありの立場でもある記憶を喪失した青年の顔。彼の顔を思い出しながら、手をきつく握りしめ、女性に真っ直ぐ視線を向けた。
「理不尽な争いのせいで、これ以上誰かが傷つく姿を見たくないからよ!」
声を大にして言うと、女性は呆気に取られた後に、口元に笑みを浮かべた。そして近くにいた男を呼び寄せる。
「戦況の詳細とイルス国の状況を調べてこい。ディーナの送り込み方を考えるのは、その後だ」
「本気ですか?」
「ああ。人間、ああいう強い気持ちになったら、そう簡単に意志は曲げられないよ。イルス国も内部分裂しかかっている。いい機会だ、ディーナの力と相手の現状を利用して、争いを終結させよう」
男は了承の返事をすると、隣の部屋に入っていった。部屋の中が徐々に騒がしくなってくる。近くにいた人間と話しだす者、置いてあった武器を手に取る者、他の部屋に意気揚々と行く者などに分かれた。
この部屋にいる者たちの多くが、戦争の終結を望んでいる。そのきっかけとなる出来事が起きるかもしれないと察し、行動に移りだしたようだ。
ディーナが周囲を見渡していると、女性が軽く手で拱いてくる。人にぶつからないようにしながら近づく。すると女性に顔を寄せられた。
「大切な人が見つかったのか?」
ディーナの目は僅かに動いた。それを女性は見過ごさず、ふっと言葉をこぼした。
「愛している相手がいるのはいいことだ。だが想っているからこそ、背負いすぎて破滅することはある。――いいか、決して無理はするな。お前はウェルス国にとって数少ない魔術の使い手なんだから」
その言葉に対し、ディーナは首を縦に振ることはできなかった。
* * *
ウェルス国では万物を操る不可思議な術――魔術と呼ばれるものを使える人間が少数だが存在していた。彼らは水を発生させ、風を呼び、火を起こし、そして大地を揺るがすなど、天変地異の理を激しく外さないことであれば、たいていの超常現象を引き起こせる人間たちだった。ディーナも魔術を扱える人間であり、得意不得意はあるが、たいていの現象は大規模に事を起こせていた。
ある日、ウェルス国とイルス国との戦争にて、ウェルス国は劣性だった戦況をひっくり返し、一気に事を終わらせるために国家は多数の魔術師の介入を考えた。そこでまずは国の内部で働いていたディーナも含めた魔術師を何人か先発部隊として派遣したのだ。
しかし、イルス国の軍は予想以上に力を持っていたため、その戦闘時にてディーナをはじめとして多くの魔術師たちは大怪我を負ってしまったのだ。
傭兵たちが寝泊まりしている宿の一室を借りたディーナは、うなじに手を回し、そこまで伸びている傷に触れた。傷が走っている箇所は未だに凹凸がある。
医者からはこの傷が完全に消えることはないと宣言された。その言葉を聞いたとき、ディーナは取り乱すこともなく、あっさりと受け入れていた。人を傷つけるために魔術を使ってはならないという教えを破った罰だ。甘んじてそれを受け入れようと思った。
今後、イルス国側の重要人物と接触するとなれば、おそらく出会うまでに何人か傷つけてしまい、再び教えを破ることになるだろう。もはやディーナの死後は地獄しかないと覚悟していた。
感傷にふけっていると、扉が叩かれる。扉をゆっくり開けると、傭兵をとりまとめているあの女性が立っていた。
「話をしてもいいかい?」
ディーナは頷き、女性を部屋の中に入れる。彼女は四つ折りにした一枚の紙を差し出してきた。
「明日からの国王の動きだ。どうやら硬直している戦況を見るために、一度視察を試みているらしい」
ディーナは目を丸くした。願ってもいない機会だ。わざわざイルス国の中を突っ走らないですむ。
「今度出る部隊にお前を紛れ込ますから、そこからうまくイルス軍に潜り込んで、お前の力で国王と会ってみろ。――国王と会って、どう説得する気だ?」
「現状を冷静に指摘して、国王同士で対話の機会を設けてもらうよう説得します。現在、戦争を始めたきっかけとなる新しい資源の採掘が満足にできていません。このまま放っておけば他の国が新たな地脈を発見してしまう場合があります。そのようなことになったら、イルス国もウェルス国も大きな痛手になるはずです。資源の採掘は量だけでなく、速さとの勝負だとも思いますから」
「なるほどな。ディーナの言うことは、的を突いている。まずは国王が耳を傾けてくれればいいが……。接触も含めてかなり危険が伴うことだが、下手に攻防を繰り返すよりも、そのことを話してくれた方が私はいいと思う」
これからの詳細な動きについては、傭兵側から派遣する部隊との調整が必要になるため、それが決まり次第になった。
ディーナは女性を見送ると、ベッドに腰をかけた。そして握りしめていた手を開く。そこから小さな火の玉が生まれた。再び握ると、火の玉は消えてしまった。
大規模な魔術を使い、さらに大怪我を負ったことで、以前よりも魔術の力は落ちている。そのため女性から一緒に戦おうという言葉が出てこなくて助かった。今、前線で戦っても、期待以上の活躍はできず、せいぜい攪乱くらいしかできないだろう。
* * *
数日後の夕方、国軍や傭兵が列をなして森の中を歩いていた。目指すはイルス軍が滞在している町。傭兵も含めて、ウェルス国軍もある程度人数が集められたため、町を奪還すべく向かっていた。
フードを被ったディーナはその様子をやや離れたところから見ていた。本当はあの列に紛れ込む予定だったが、国軍の人間がディーナの顔を覚えている可能性があったため、控えるよう言われたのだ。もしディーナの存在が彼らに知られれば、こぞって戦場での参戦を申し出てくるだろう。
森から出る直前、列は動きを止めた。そして横に広がるようにして散開する。森を抜けると目的の町がすぐ近くにあるため、まず形勢を整えたのだ。
遠目から確認できる範囲で、町にある煙突から煙が出ていた。イルス軍が火でも焚いているのだろうか。己の町のように我が物顔で使っているのを見て、ディーナは眉間にしわを寄せた。
ウェルス軍が動くのは深夜と聞いている。暗がりに乗じてイルス軍を攻めるようだ。夜に攻めるのは、攻め込む側にも危険が伴う。余計な被害が出ないことを願いながら、ディーナはウェルス軍の動きがわかる範囲内で後ろに下がり、茂みの中に体を潜ませた。
深夜――、ウェルス軍が動き始めたのに気づいたディーナは少し遅れてからその列を追った。暗い中でも足が取られないよう、土などの感触を全身で確かめて進んでいく。地面を平たくする魔術も使えたが逆に目立ってしまうため、最小限の魔術だけで進んだ。
森から出ると、ウェルス軍が町に向かって突き進んでいくのが見えた。途中でイルス軍に気づかれたのか、町の明かりが一斉につき始める。それから怒号とともに乱戦へとなっていった。
ディーナはその様子に見入っていたため、背後から迫られているのに気づくのが遅れた。草を踏む音がすぐ傍で聞こえると、振り返りながら後退した。ディーナがいた場所に向かって棍棒が振り落とされる。間一髪でそれをかわし、腰から短剣を抜いた。全身黒ずくめで、口元も黒い布で覆っている男が立っている。
「誰?」
問いかけたが、返答はなかった。ディーナは息を吸い込み、一気に詰め寄る。男が棍棒を振り回すのを横に逸れてかわすと、持っていた短剣を突きだした。男はこちらの攻撃に対し、体を後ろに引いてかわそうとする。
しかしその瞬間、男が目を見開いた。ディーナは口元に笑みを浮かべて、足を大きく蹴り上げる。それは男の顎に直撃し、男は仰向けで倒れ込んだ。後頭部を地面に激しく打った男は、その場でうめき声をあげる。男の足は土でできた手により身動きが取れなくなっていた。ディーナがとっさに使った魔術によるものだ。
「さて、全身を動けなくさせましょう」
ディーナが男に向かって手を掲げると、土から草が生え、男の手足にまとわりつき始めた。草はまるで縄のように男を縛りあげ、男を地面に張り付けさせる。その途中、後ろから複数の気配を感じた。
魔術を使うのをやめて、振り返る。長剣を片手に持った三人の男が近づいていた。ディーナは威嚇するために短剣を振ろうとしたが、突然背後から首に腕を回された。全身をばたつかせようとしたが、鋭利な声を突きつけられた。
「大人しくしろ。さもなければ、まずは指を切る」
ディーナはごくりと唾を飲んだ。男の鋭い殺気が全身を通じて感じてくる。ばたつくのをやめると、拘束が解かれた。しかし次の瞬間、首裏に手刀が落とされる。手刀が直撃したディーナは意識が飛び、為す術もなくその場に倒れ込んだ。