1、記憶喪失の青年
「貴様らは誰の差し金だ?」
雨が激しく降り、強風が吹きゆく中、金髪の青年は崖に背を向けて黒ずくめの男たちを睨みつけていた。暴風雨のため男たちの顔はほとんど見えない。
五人いる黒ずくめの男たちは、青年を逃がすまいと、列を二重にして逃げ道を封鎖している。誰もが短剣や長剣を抜いており、青年が横を通り抜けようとするものならば、すぐさま切る勢いだった。
男たちが徐々に青年との距離を詰めていく。青年はそれに合わせるかのように、後退していった。雷が轟き、風はさらに強くなる。
「誰も応えないのか。なるほど貴様らの雇い主は、他人に知られてはならない相手と言うことだな。……貴様らが言わずとも、おおよそ雇い主の見当はついている。まったくこんなところに追い込んで暗殺をしかけられるとは、嫌な身内を持ったものだ」
青年は地面に剣先を向けていた長剣を中段にまで持ち上げた。男たちもやや腰を落として剣を構える。
「残念だが、私はまだ死ぬわけにはいかない。横暴を止めなければ、この国も隣国も幸福とは無縁の国になってしまう。そのような状態にさせないために、まずはここを突破させてもらう!」
ほぼ同時に雷が激しい音を立てて、どこかに落ちた。それを皮切りに青年は駆け出し、男たちの正面で剣を振った。緩急つけて流れるように剣を振っていく。男たちはそれに押されるようにして下がっていった。
切るではなく牽制に重きを置いた振りをしていた青年は、勢いのままに突き進んだ。
突如、後ろで待機していた男が前に出て、青年の剣と交じり合わせてくる。剣を止められた青年は足を止めた。青年は眉をひそめて、彼よりも背の高い男を見上げる。
「この感触、まさか……!」
驚きの言葉を飲み込み、歯をぎりっと噛みしめる。男が青年の剣から己の剣を離すと、素早く振り下ろしてきた。青年は剣で防ぐのではなく、とっさに後ろに下がる。重い一撃が目と鼻の先をかすっていった。勢いを付けていたためか、風を切る音が聞こえるほどだった。
「……私のことを本気で殺す気か」
低い声ではっきりと言葉を発したが、誰も反応することはなかった。青年が剣を持ち上げる前に、背の高い男が接近してきた。激しい突きで攻め込んでくる。それを青年は後退しながら、どうにかかわしていった。
だが、あっという間に崖の端まで追いやられる。そこで青年は首元に男の剣先を突きつけられた。
青年は雨を生み出す、真っ黒い雲で覆われた空を見上げる。
「よもやここまでか……」
死期を悟って呟くと、向けられていた剣先が震え、少し離れた。それに気づいた青年は、体をくねらせながら屈み、男の足下に向けて剣を振った。男は攻撃を避けるために、若干後退する。
青年は立ち上がって再度剣を振ろうとしたが、今までにない突風が吹いた。体が風に押されて下がっていく。しかし数歩後ろには地面がなかった。
「しまっ――!」
足を踏み外し、体勢を崩した青年は、真っ逆様に黒い海の中に落ちていく。空に向けて手を突き出すが、誰も掴もうとはしなかった。ただしあの男だけは青年が落ちる様子をじっと見ていた。
激しい音をたてて、青年は海の中に吸い込まれていく。抵抗することもできずに、波にさらわれて、その場から消えていった――。
* * *
嵐が通り過ぎた翌日は、それまでの荒々しさが嘘のように海は静寂を保っていた。曇天の空を背景にして、穏やかな波が岸壁や浜辺に寄せては、砂や貝を巻き込んで引いていった。
黒色のローブを羽織り、フードを被った人間は繰り返される波の様子を横目で見つつ、浜辺を歩いていた。しばらく進むとその者は唐突に立ち止まり、フードを脱いだ。フードの下にいたのは、長い黒髪の女性だった。彼女は目を細めて浜辺を見つめている。
「あれは……人……?」
流れ着いたものを認識するなり、波打ち際に向けて走った。駆け寄ると人の顔が見えてくる。仰向けで浜辺に流れ着いていたのは、金髪の整った顔の青年。女性と同じ二十歳くらいに見える。激しい海の中を流されたらしく、顔や手だけでなく至る所に痣や傷が見られ、さらに腕は奇妙な方向に曲がっていた。
女性は膝を付けて、こわごわと彼の胸に手を当てた。弱々しいが鼓動は打っている。生きているという事実がわかり、ほっと一安心した。
ふと、青年の首から下がっている、開きかけたロケットペンダントに目が向いた。中には海を漂っていたからか、ぼろぼろになった絵が入っている。絵は三人の少年と女性の仲睦まじい姿が描かれていた。そして蓋の後ろには、大輪の華を咲かせた国章が刻まれている。国章を確認した女性は軽く目を見開いた。
「……理由もなく嵐の日の海に流されないわよね」
息を吐き出し、彼のロケットペンダントを閉じる。そして女性は自分の髪を一本に縛った。うなじの脇には薄っすらと切り傷が見える。その部分に軽く手を触れてから、女性は青年に手をつけた。
* * *
女性が浜辺に流れ着いた青年と出会って一週間後、彼は女性が住まう小屋で重い瞼を開いた。女性がいない間に起きた青年は、ぼんやりと仕切りのない部屋を見渡していた。天井から干された薬草、草や液体が詰まった瓶などを眺めている。
外から戻ってきた女性は、すぐに目覚めた青年に近づいた。
「お目覚めになったのですね」
表情を堅くして言うと、青年は焦点の合わない目を向けてきた。
「貴女は?」
「私は……ディーナと申します。浜辺に流れ着いた貴方を勝手ながら介抱させていただきました」
青年は包帯で巻かれた自分の体を見る。目に見える範囲でもかなりの部分が包帯で巻かれていた。
「僕の介抱を……。ご迷惑をかけたようですみません。ありがとうございます」
ディーナは一定の距離を保ってから、足を止めた。
「傷は痛みますか? 海に流されていたようですが、何かあったのですか?」
青年は右手で軽く額を押さえて目を瞑る。逡巡すると、首を横に振った。
「……それがわからないのです」
「え?」
目を開いた青年はディーナの緑色の瞳を見てきた。
「目覚める前のことが思い出せないのです。誰かと言い合いになったかもしれないし、足を滑らせたのかもしれない。――所持品を見れば思い出すかもしれません。僕と一緒に何か流れ着いていませんでしたか?」
ディーナは呆然と立ち尽くす。
「あの……」
彼に呼びかけられると我に戻った。
「所持品についてはあとでお見せします。もしかしたら何らかの衝撃で記憶に影響があったのかもしれません。今は私が用意するものを飲んで、引き続き休んでください」
ディーナは台所に行くと、紙に包んだ白い粉を取り出した。それをコップにいれてお湯で溶かす。スプーンで丹念にかき混ぜて、彼の元に持って行った。
「これは?」
「体を温めて気分をよくする飲み物です。かなり体力を消耗しています。まずは体調を戻すことに専念しましょう」
コップを手渡すと、青年の手がディーナの手に僅かに触れた。血がまだ巡っていないのか冷たかった。
「……ディーナさんでしたっけ」
「はい、そうです。……あの、私は貴方のことを何と呼べばいいですか?」
おそるおそる尋ねると、青年は頼りない笑みを浮かべた。
「好きに呼んでください。名前も忘れてしまったようです」
ディーナは一瞬目を伏せてから、彼の何も下がっていない首に目を向けた。
「では……勝手ながら、シゲイルと呼ばせていただきます」
「かっこいい素敵な名前ですね、ありがとうございます」
屈託なく笑みを浮かべる姿は、何も影を背負っていない少年のようだった。
* * *
シゲイルの治療をしながら、彼と共に過ごすことになったディーナだが、家事をするとき以外は変わらず薬草をいじっていた。
日中は薬草を摘みに森の中に行き、夜はそれらを乾燥したり、すり潰したり、抽出したりして薬を調合していた。薬草の種類は全部で数十種類を超え、季節によってはさらに種類は増えていた。
今日もディーナは薬草にお湯をかけて液を抽出していると、ベッドの上で一連の流れを眺めていたシゲイルから、興味深そうな表情で尋ねられた。
「その液体はどんな効能があるんだい?」
「これを飲むと、風邪の症状が和らぐのよ。村でよく売れるの」
「そうなんだ。すごいね、雑草みたいに見えるけど、そんな効能があるなんて。ディーナは誰かに作り方とか教えてもらったの?」
「そうよ。両親や師事していた人たちから教えてもらった。私も今のシゲイルのように、初めは薬草についてはまったく無知だった。でも経験を積めば、ある程度の知識はつくし、薬は一人で作れるようになる」
抽出した液分を瓶に入れ、蓋をする前にディーナは手をかざした。仄かに手に熱が帯びる。そして軽く瓶の頭を叩いた後に蓋を閉めた。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「何かしら」
背を向けて瓶を棚にしまっていると、シゲイルに問いかけられた。
「どうして僕を助けたの?」
ディーナは振り返り、不思議そうな目で見てくる青年を見返した。彼にとってディーナは赤の他人。甲斐甲斐しくされる理由が思いつかないのだろう。ディーナはいくつか考えがあった上で助けたが、今は抱いている想いを一つだけ吐露した。
「……傷ついている人を放っておけなかったからよ。幸いにも私は薬草だけでなく、医術に関しても多少知識があったの」
「それだけ?」
「それだけよ」
素っ気なく言うと、シゲイルの表情は緩んだ。
「そうなんだ。じゃあ僕は運が良かったんだね」
ディーナは彼の顔を見て胸の高鳴りを感じたが、すぐに背を向けた。そして食事の支度をするために、台所に移動して真っ赤な丸い野菜を手に取った。
* * *
乾燥した薬草や、調合してできた薬が多数できあがると、ディーナはそれらを籠に入れて近くの村に向かった。
森の中にある小さな村では、老人や女子供が中心となって生活をしている。成人した男性もいるが、激化する隣国との争いに駆り出されて負傷し、満足に動けない者が多かった。
ディーナは村の一角にある薬屋に行き、作り上げた薬を店主の女性に見定めてもらった。店内で他の薬を見ながら待っていると、ほどなくしてすべて買い取ってくれるとの返事を受けた。そして彼女から必要な額の紙幣を手渡される。
「いつもいいものを売ってくれて、ありがとう。特にこの軟膏、塗ると傷の治りが早くなるって評判だよ」
「そうですか。では引き続き頑張って作りますね」
ディーナは店内に誰もいないのを確認してから、女性に顔を近づけた。
「……最近のウェルス国とイルス国との戦況はどうでしょうか」
女性は目をぱちくりとする。
「珍しいね。ディーナからこの件に関して聞いてくることは、ほとんどなかったのに」
「村の雰囲気が一向に明るくならない原因が気になるだけです。それでどうなんですか?」
女性は机に肘を突き、手に顎を乗せて溜息を吐いた。
「良くはないね。今はイルス国の近くにある、ウェルス国の東部で比較的大きな町が攻め込まれているようだ。その町が落ちれば、そこを拠点として内部まで侵攻してくるに違いない」
「イルス国の猛攻を止められる術はないのですか? 前線の部隊は壊滅してしまったのでしょうか?」
「前線は辛うじて残っている。指揮をとっている隊長が優秀らしく、そのおかげでもっているらしい。ただ、人数的にこちらが不利なのには変わりないし、疲労は溜まるばかりだから、このままの状態だと突破される可能性は高い」
女性は重苦しい息を吐き出す。
「今の状況を考えると、力でイルス国を止めるのはほぼ無理かもしれない。それ以外の方法となると、対話の場を設けるか、内部分裂を期待するくらいか」
「内部分裂? イルス国は内部で揉めているのですか?」
「……噂だが、意見の不一致が内部であるらしい。イルス国の第一王子は戦に積極的だが、実は国王は懐疑的という噂が。だから国王に対して強く訴えれば、もしかしたら戦は止められるかもしれない」
「なるほど……。国王とうまく接触できれば、現状が変わってくるかもしれませんね」
女性は頷いた後に、神妙な顔つきで声を潜めた。
「何を考えているかは知らないが、これは資源を追い求める国同士の争いだ。それに巻き込まれたディーナには関係ない。たとえ負けたとしても、こんな辺境の地の環境が極端に変わることはないだろう。戦なんか気にせず、ずっと大人しくここで過ごせばよくないか?」
「私も一国民ですよ。戦を気にするなと言われても、嫌でも情報は耳に入ってきてしまいます」
「まあそうだが……。……大人しくして欲しいのは、私の願いだ。ディーナが持っている力が再び公になれば、あの第一王子が欲してくるかもしれない。そうなった場合はさらに戦況は複雑かつ面倒なことになる」
「王子が私のような田舎娘を欲する理由など――」
「ディーナ」
女性に名前を強く呼ばれた。ディーナは言葉を切って、一歩下がる。
「……お話、ありがとうございました。薬ができあがりましたら、またお届けにきます」
再度声を掛けられる前に、店から出ていった。
買い物を終えて小屋に戻ると、シゲイルが笑顔で出迎えてくれた。
「お帰り!」
「た、ただいま。どうしたの、そんなに元気で……」
「いつも通りだよ?」
「そう……。今日は収入があったから、お肉を買ってきたの。早速支度を――」
シゲイルから離れようとすると、突然腕を掴まれて彼の胸元まで引っ張られた。衝撃で籠が床に落ちる。彼の腕の中に納まったディーナの顔は一瞬で真っ赤になった。
「ちょっ、何……!」
「ディーナが無理して笑っているように見えて……。村で何かあったの?」
「……ちょっと気になる話を聞いて……」
「どんな?」
シゲイルの腕の中で身じろぎながら、ディーナは顔を上げる。凛とした顔つきの青年の青色の瞳とかち合った。彼の顔を見て、思わず涙が溢れ出そうになった。それを堪えるかのように、彼の胸元に顔を埋める。するとそっと背中を撫でられた。
「無理して言わなくていいよ」
「……ごめん」
彼の優しさに甘えるようにして、ディーナはしばらくそのままの状態でいた。
* * *
二人の心の距離が少しずつ近づいてきた頃、ディーナは薬屋の店主から戦に関する興味深い話を聞いてしまった。数ヶ月前のある戦以降、相手国の第三王子が行方不明になったというものだ。
「第一王子とも対等に話せる反戦派の人間だから、国民も大きな期待を向けていたらしい。それで行方知れずとなった今、第一王子の一派が殺したんじゃないかという噂が漂っているのさ」
「もしかして最近の戦の進みが遅いのは、第一王子に対して疑念を持つ人が多くなったからですか?」
「そうかもしれない。だが、それが本当だったとしても、依然として第一王子は力を持っている。多少内部分裂しても、ウェルス国を落とすのはそう難しいことではないだろう」
ディーナが小屋に帰ると、シゲイルが元気に出迎えの挨拶をしてくれた。煮込み料理を作っているようで、かぐわしい香りが漂ってくる。
彼の体力はだいぶ回復したが、村に行く体力は戻っていないため、こうしてディーナが外に出ているときは、食事を作ってくれている。当初は彼の濃い味付けに慣れなかったが、徐々に美味しいと感じるようになった。
「今日も美味しそうね……」
「ありがとう。荷物でも置いて、くつろいでいて」
促されるがままに、荷物を置いていった。重い話を聞かされた後だが、平静に接しなければならない。鍋の中身をかき混ぜる金髪の青年を見ると、胸が苦しくなった。それでも何とか笑顔で食事を食べきった。
食事を済ませたディーナは自分用の布団を床に敷こうとすると、シゲイルに後ろから抱きしめられた。体が硬直する。その状態で後ろから囁かれた。
「今晩は一緒に寝ないか、ディーナ。何もしないから。ただ君の傍にいたいんだ……」
彼の手に触れると、さらにきつく抱きしめられた。温もりが直に感じてくる。ディーナの異変を察した上での提案なのかもしれない。その優しさが身に染み、大切に想ってくれることが切々と伝わってきた。
ディーナは心の中で嘆息を吐く。
気づいていた、この青年がいつしか大切な存在になっていたということを。
大切だからこそ、優しくて他人想いの青年には、いつまでも笑顔でいて欲しい。
決して死なせてはいけない――。
「……わかった。寝るだけだよ」
大切な貴方の温もりを傍で感じるだけ。
それ以上の感情を持ち合わせて先には進まない――、と心の中で線引きをした。
夜明け前、ディーナはすぐ近くであどけない顔で寝息をたてている青年を眺めていた。彼は言ったとおり、同じ布団に入っても手は出さず、談笑だけをしていた。その実直さが可愛らしく、逆にディーナが抱きしめたくなるほどだった。
彼に気づかれないよう布団を抜け出し、部屋の奥から布袋を取り出した。袋の中には彼が流れ着いていたときに所持していた物と服がしまわれている。そこからロケットペンダントを取り出し、彼が寝ているベッドのすぐ傍に手紙と共に置いた。
「今まで隠していて、ごめん。記憶を取り戻して欲しくなかったの。でもそんなわがままはあまりにも身勝手よね。――いつかは思い出すのなら、外部から何かを言われる前に、自力で思い出してほしい。そういう願いを込めて、これを貴方に戻すわ」
そして体を屈んで、彼の顔をじっと見た。
「シゲイル、私はウェルス国と貴方の未来を守るために行ってくる。この数週間、貴方と生活できて幸せだった。そういう気持ちにさせてくれて、ありがとう。……幸せになってね、さようなら」
言い終えると、彼の頬にそっと口づけをした。
そしてディーナは手早く支度をすると、有明の空を見ながら小屋から出ていった。