chapter4/永遠のものだから
(七)
心の瞳で君を見つめれば、愛すること――それがどんなことだか、分かりかけてきた。
テーマパークに流れる音楽とは、全く合わないメロディーと声質で、そんな歌声が響いていた。歌を口ずさんでいたのは、唯だ。歩くことに疲れてしまったのか、ジェットコースターを見上げながら、地面に座り込んでいた。
その横顔がどこか悲しげに見えて、三月はゆっくりと彼女へ歩み寄る。すぐ傍まで歩んで行くと、まだ歌い続けている彼女の隣に腰を下ろした。
「愛することなんて僕には全く分からないんだけど」
「びっくりした……なに、いきなり」
遠くで見た時よりも、その瞳が微かに赤らんでいることが分かる。何故そんな顔をしているのか見当も付かないまま、三月がきょとんとしていれば、彼女の顔つきは次第に柔らかさを帯びていった。
唯は、心細かったのだ。それに気付いた三月の中で、後悔が湧いてきた。
いきなりこんなテーマパークに招かれ、生死の境を彷徨っていると言われ、帰ることが出来るかどうかも分からない彼女が、ずっと気丈でいられるわけがない。明るく元気に振舞っていても、唯はただの少女でしかないのだから。
ほっとしたように目尻を下げている唯を見て、三月の頬は自然と緩んだ。
「歌、上手いんだね」
「別に、普通だよ」
「そうかな」
謙遜してはいるものの、褒められたことが嬉しかったのか、唯は得意げに口角を上げていた。頬を人差し指で掻いているのは、照れ臭かったからだろう。そんな姿に苦笑して、それから三月はジェットコースターを見上げた。視点をそこに定めたまま唇を開こうとしたが、小さく頭を振る。しかと唯を見つめて、彼は頭を下げた。
「さっきは、ごめん」
「あははっ」
「なに笑ってるのさ」
「こういうの、デジャヴっていうんでしょ?」
楽しそうに笑う顔が、三月の胸に温かな熱を灯す。彼女の無邪気な笑顔を見ていると、手を差し伸べたくなる。それがどうしてなのか、三月はもう分かっていた。
テーマパークで初めて出会ったにしても、繋がっている血が、昔から惹かれていたかのように気持ちを引っ張る。
それが心地良く感じる時もあるのに、深く考えてしまうと唇を噛み締めたくなる。三月は少しの間、唇の薄皮を噛んでいた。唯も黙ってしまっているから、耳に届くのはテーマパークの音楽だけ。それが不愉快で仕方がなくて、別のことを考えようとした三月の中で、再生されたのは先ほどの歌声だ。唯が優しい声で歌っていた、あの曲。一フレーズを聴いただけで、三月の胸に響いていた。
「……さっきの、なんていう歌?」
「心の瞳。去年合唱コンクールで歌ったの」
「へぇ……もう一回歌ってくれない?」
「どうして?」
問いが返ってくるとは思っていなかったようで、三月は言葉に詰まった。考えても明確な理由は見つからない。
「……聴きたいからじゃ、駄目かな」
「いいよ。けど、また今度ね」
「……まあ、別にいいけど」
「愛って、そんな難しいものじゃないよ」
脈絡もなく放たれた言葉に、三月は瞬刻、気が抜けたような顔をした。それが、ここに来た自分の第一声への返しだということを理解して、その面差しは険しいものになる。
「目に見えないものは、信用出来ない」
「そんなことない。私、分かるもん。お母さんもお父さんも、私のこと愛してくれてるんだなあって」
「そういうのは自意識過剰って言うんじゃないか?」
「そんなことないってば。だって、手、あったかいよ」
「そりゃ、生きてるからね」
熱の篭っていない瞳が、何を言っているんだと言わんばかりに細められる。ひたすらに冷たい三月を見て、唯は不服そうに頬を膨らませた。
「もー……三月は人間不信なの?」
「別にそういうことじゃないよ。関わったことないし」
「もしや引きこもりだった?」
「君ってほんと他人の気持ち考えないよね」
限りなく無色に近い声柄に、唯は思わず俯く。唇の隙間から溢れさせた「ごめんなさい」の声は、唯自身が驚くくらいに小さく、掠れていた。
陽気な空気が蔓延る中、二人の纏う雰囲気だけがこの場に馴染めず、まるで絵画に零された泥のようだった。深閑としてくれたならどれだけ良いだろう。唯は思った。耳に入ってくる音楽のせいで、口に出すべき言葉が一つとして見つけられない。
すぐ傍で、「僕は」と三月が呟いた。小さな声に、唯は思わず顔を上げる。彼の方を見てみたが、視線は絡まない。彼はただ、空だけを仰いでいた。
「僕は、さ。……生まれることが、出来なかったんだ」
「え?」
三月がどんな日々を送っていたのか、考えてみたことが、唯には数度だけあった。それでも、上手く考えが及ばなかった。だからこそ、彼が口にした事実は、唯に衝撃を与える。その事実だけで、自身が彼に言った言葉がどれもこれも、彼の胸を抉っていたのかもしれないと考えてしまう。唯は、自分の口を押さえるように手を持ち上げた。それを唇に当てるより早く、三月が、自嘲するように笑んでいた。
「僕も君みたいに、学校に通ったり、親と話したり、してみたかったな」
「三月……」
「ぼんやりとだけど、覚えてるんだ。母さんが僕の名を呼んでくれたこと。嬉しそうに話す父さんと母さんの声」
「……」
「そんな父さんと母さんを……きっと僕は、悲しませてしまった」
「三月のせいじゃ、ないよ……」
無理に笑っているような彼の横顔が、唯の双眸の中で揺れる。
「僕の父さんと母さんは、どんな人だったんだろう」
彼にかける言葉が、唯には思いつかなかった。頭の中に、彼の悲しみが流れ込んできているみたいだった。彼の両親は確かに悲しんだかもしれない。けれどそれ以上に、彼も――と思えてしまうにも拘わらず、彼は微笑を絶やさない。可笑しそうに、馬鹿馬鹿しそうに笑う彼は、しかし水面の如く揺らいでいた。次第に零れ出す想いが、いくつも波紋を生んでいく。
「なんで……僕はここにいるんだろうね。なんで、僕は死んでるんだろうね。生まれていたなら、君の気持ちが分かったのかな。君の言う、愛ってものがわかったのかな。僕は……愛してもらえたのかな」
君みたいに、という言葉を、三月は必死に喉の奥へ押さえつけた。何故という思いが溢れて、唯に理不尽な怒りをぶつけそうになる。何故自分がここにいて、何故唯が明るく愛されて生きているのか、考えるだけ無駄だと言うのに、沸き立つ苛立ちと虚しさがぶつかり合う。いくつもの情感が混ざり合って、彼の頬へ零れた。
「三月――」
「っ生きたかった……生きてみたかったよ! 僕も……友達作ったり、恋をしたり、下らない話で笑ったり……みんなみたいにっ……! 普通に、生きたかったんだ……!」
「みつ、き……」
「っ……ごめん、唯……こんな、つもりじゃ、……ごめ――」
小さく震える体に、唯の腕が回された。三月を抱きしめる彼女は、その両腕に力を込めていく。暖かな熱に、三月の体から力が抜けていく。それでも、三月の喉から嗚咽は溢れ続けていた。
冷静にならねばと言い聞かせ、落ち着いていくうちに、三月は微かな震えに気が付いた。震えているのは、三月ではなかった。強く、強く体を抱きしめる両腕が、か弱く震えていた。
「三月、こんなことしか出来なくて……ごめんね。私……こういう時、どうしたらいいか分からないや……」
「……放っておけば、いいのに」
「そんなことできないよ。だって三月……すごく、悲しそうなんだもん」
そっと、体が離される。唯は頬を濡らしていた。彼女の涙のわけが、三月には分からない。陽光を孕んで煌く眼を見つめても、そこに映っているはずの三月自身の顔は上手く窺えなかった。
悲しそうにしているのは君のほうじゃないか、と思えど、声は出ない。喉につっかかった塊が、未だに呼吸を乱していた。
「ねえ」と、優しい声遣いが耳朶を掠める。
「三月、確かに君は死んでるかもしれないけど……私から見たら、まだ生きてるよ」
「……意味が、分からない」
「だって、三月はここにいる」
唯の言葉が、三月の胸へ染み込んでいく。その声色が、どこか母親を思わせる。太陽よりも明るく柔らかな彼女の面様に、見たこともない母親の顔を見たような錯覚を覚えた。三月が必死に留めていた楔が抜かれる。涼しい顔を繕うことすらままならず、流涕してしまう。
そんな三月の手を、唯が優しく両手で包み込んだ。
「ここは死後の世界だけど、それでも、三月はこうして、話が出来る。ちゃんと触ることも出来るし……ほら、ちゃんとあったかいよ」
俯いてしまった三月から手を離したら、唯は立ち上がる。周囲を見回して、少し離れた所に自動販売機を見付け、歩を進めた。
「三月、私、なにか飲み物買ってくるね。ちょっと待ってて!」
遠のいて行く足音に、三月がゆっくりと顔を持ち上げる。小走りで自動販売機を目指す背中を凝望した。その背を追いかけようとしたものの、小さな笑声に身を固まらせる。唯が去った方向とは反対の所から、名無しが歩いてきた。
「やっと、自分の気持ちを吐き出せるほどに成長したんですね」
「……いつから見てたんだ?」
名無しを一瞥した後に顔を背け、三月は目元を袖で擦る。名無しは、にこやかに顔を緩ませながら、遠くの情景を眺め入った。
「唯さんが歌っていたあたり、ですかね」
「始めからじゃないか……暇人だな」
「まあ、休暇中ですので。それにしても、唯さんは大切な人が出来たみたいですね」
溜まっていた涙を拭ってしまうと、もう流れそうにはなかった。三月は名無しの言葉を頭の中で繰り返してみて、首を傾ける。
「へえ?」
「なぜ他人事みたいな反応してるんですか。あなたのことですよ」
「……はあ?」
彼が本気で言っているのか確かめるべく頭を上げてみたものの、三月の位置からでは彼の顔を窺えなかった。名無しは三月に後頭部を向ける形で、全く違う方向を見ている。
「ちなみに、唯さんの課題のことは聞いたんですよね?」
「ああ……聞いたよ。だから……僕でいいなら、印を押してやりたい」
「押したらどうなるか、分かっています?」
「そういえば注意書きになんか書いてあったな」
あっけらかんと告げられて、名無しは微かに戸惑った。しかし顔色にも声色にもそれを滲ませない。飄々とした態度のまま、くすりと笑う。
「ちゃんと読んでくださったんですね」
「お前、なんでわざわざ課題なんか出したんだ? 開かずの間って生きた人間なら普通に開けるはずだろ?」
「いいえ。あの扉は、邪な心を持つ人間……つまり地獄送りになるであろう人では、開けないんです。唯さんが良い人間だと証明しなければなりません。そのために、課題をしてもらう必要がありました」
十七年このテーマパークにいる三月は、様々な課題を与えられた死者を何人も見てきている。課題は転生する為に成さねばならないもの、としか思っていなかった三月は「なるほど」と呟いた。
視界の端で名無しが大きく震えたように見えたため、思わずそちらへ黒目を動かしてみれば、彼は「あ」と大口を開けていた。
「どうした?」
「僕は戻りますね。それでは~」
急ぎ足で建物の角を曲がった彼に、三月が溜息を吐く。
「何しに来たんだあいつ……」
「三月、炭酸平気?」
「! ありがとう。早かったね」
「そうでもないよ?」
時間の流れを早く感じたのは、名無しと言葉を交わしていたからだろう。不思議そうに疑問符を漏らした唯へ、苦笑いを返した。
「まあ、君が迷子にならなくて良かったよ」
「馬鹿にしてる?」
「いいやまったく」
受け取った缶のプルタブを引き起こし、口を開ける。炭酸特有の、空気が抜けるような音が響いた。三月が缶に唇を押し付け、中身を一口飲んでいく。暫く互いに無言のまま、三月が喉だけを潤していた。ようやく飲み物を飲み終えて、そこでふと気付く。唯がずっと座らずに立っていた。どうしたのか訊ねようとして上げた視界に、手の平が差し込まれる。
正面に立って影を落としている唯と、真っ向から視線がぶつかった。
「ねえ三月。私と友達になろう?」
「は……?」
「友達になって、下らない話して笑おうよっ!」
優しさが何かに遮られることもなく、三月に注がれる。三月の唇が柔らかく撓った。
「……優しいのは、君の方じゃないか」
「褒めてくれてありがと」
「……別に褒めたつもりはないよ。ただ感想を述べただけさ」
「私には褒めてくれたように思えたから、褒めてくれたって事でいいの。それで、返事は?」
いくら待っても三月が手に触れてこないため、唯は痺れを切らせて彼に顔を近付けた。詰め寄られたことで彼は軽く身を引く。何も分かっていないような顔で、彼は眉根を寄せていた。
「返事?」
「友達になろう? の返事」
「言わなかったっけ。却下」
立ち上がりざまに投げられた言葉は、唯の声を瞬刻奪う。三月は視線を彷徨わせて、近くにあったゴミ箱に歩いて行く。缶を捨ててから唯へ微笑んだ三月に、唯は思わず掴みかかってしまった。
「どうして!? 無言の肯定だと思ったのに!」
「なぜなら君は、もう帰るから」
「帰るっ?」
目の前に持ち上げられた三月の手の平が、先ほどの唯のような握手を求めているのでないことくらい、理解が出来た。彼が何を欲しているのか、唯は察していた。それでも、何も取り出そうとしない唯に、彼が溜息混じりに吐き出す。
「ほら、スタンプカードと朱肉を貸して」
「……でも、もう少しだけここに――」
促されるまま、ポケットの中からスタンプカードと印池を取り出すも、唯はそれを三月に渡そうとしなかった。胸の前でそれらを握り締めて、俯いていく。その両手が強引な力に引っ張られる。手にしていたカードと印池は、簡単に彼の手へ渡ってしまった。
「いいかい唯。ここは君のいるべき場所じゃないんだ」
「そんなのわかってるよ! だからって、なんで三月が押すの?」
「それは、君が僕を大切だと思ってるから、かな」
息がかかるほどの距離で、三月は綺麗に笑う。その顔付きに唯の鼓動が跳ねた。照れ隠しのように彼の言葉を否定したくとも、否定出来ないくらいの好意を彼に抱いてしまっている。それがよく分かって、唯は唇を尖らせた。
「……自意識過剰」
「そうかもね」
苦笑を返しつつ、三月は地面の上にスタンプカードを置く。左手に持った印池の朱肉へ、右の親指を押し当て、朱色の指紋をカードに付ける。親指を人差し指の側面に滑らせてインクを落としたら、カードと印池を唯に返した。
それをポケットに仕舞い直した唯の手首を、三月が引っ張る。
「唯、開かずの間はこっちだ。僕についてきて」
「うん」
手首から伝わる彼の体温も、優しい声音も、唯の胸を温めていく。この熱を手離さなければならないのが、今の唯にとって、惜しかった。
(八)
陽気な音楽が、少しだけ遠くに聞こえる。今唯たちがいるのは、このテーマパークの端なのだろう。煉瓦で造られたようなデザインの高い石壁が、構内を囲っているようだった。出入り口など無いと思っていた唯は、目の前に聳える大きな扉を目にして、唖然と大口を開けていた。
「これが開かずの間だよ」
「え?」
しかし三月の指が、予想していなかった方向を向く。指先を辿ってみれば、彼は地面を示していた。石が敷き詰められたような地面。扉の前に、まるで落とし穴でも用意されているのかと思うほどの、大きなマンホールがあった。
「マンホール……?」
「スタンプカードと印池が使い捨ての鍵になってる。その二つを蓋に乗せて、蓋をずらしてごらん」
こんなに大きいものを、女子高生の力で簡単にずらせるだろうか。そんな不安を抱きながらも、三月に言われたとおり、唯はスタンプカードと印池をマンホールの上に置いた。どこを掴めば良いのか観察した後、手を入れられそうな窪みを端の方に見付け、そこに両手を差し入れて持ち上げてみる。
容易に持ち上げられ、ずらすことが出来たため、唯は吃驚する。粘土で出来ているような軽さだった。
人が二人、一緒に通れてしまいそうなくらい大きな穴だ。その手前に両手両膝を突いて、唯は暗闇を覗き込んだ。
「うわあ、すっごく深そう、真っ暗……」
「それじゃ、気をつけて帰るんだよ」
「うん。ありがとう」
顔だけを一度振り向かせ、三月に頷いてから、再びマンホールを覗き込む唯。すっと立ち上がって飛び込もうとしたが、足が竦んでしまう。底の見えない深さに、慄いていた。
「――母さんを」
背中に降りかかった声へ、体が引き寄せられる。三月の方に体ごと振り向いて、唯は、彼の表情に、一瞬だけ肺を潰された。
痛みと、悲しみと、切なさが混ざり合っているような色をしているのに、彼は花びらを広げる蕾みたいに、唯へ微笑みかけていた。
「父さんと母さんを……泣かせないであげてほしい」
「え……?」
その一言を言うだけでも、胸を締め付けられていたのだろう。囁きじみたその音は、さらりと溶けてしまう。けれどもその言の葉を受け止めた唯は、双肩と唇を震わせていた。まるで、泣き出してしまうみたいに。
「じゃあね唯。もう、赤点取らないんだよ?」
「……ねえ、三月。ここで過ごして、年って取るの?」
言問いながら、唯は幼い頃の思い出を想起していた。母親と交わした他愛のない会話。しかし母親にとっては他愛ないものではなかった唯の言葉。あの日見た、母親の涙。
どうして今、あの日のことを思い出しているのか、唯は、自然と脳裏に映される記憶に疑問符を投げかける。しかし思い返している理由を、唯は既に知っていた。それがあまりに切なくて、どうしてという言葉が全身を駆け巡り、体を震わせていた。
三月は目を瞠った後、これまで通り、泣き出しそうな目で柔らかに笑う。
「いきなりだね……。取るよ」
「三月は、十七年ここで過ごしたんだよね。生まれることが、出来なかったんだよね?」
「楽しい人生にするんだよ。僕の分まで、生きてくれ」
質しても、何も返されない。唯の声は彼に届く前に、風に攫われてしまったかのようだった。やや乱暴に、三月が唯の腕を掴む。マンホールの方へ体を向けられそうになり、慌てた様子で唯が彼の手を振り払う。
「待って三月! もしかして、君は――」
「さよなら」
「っ一緒に行こう!? 三月!」
彼が息を呑む音が、唯の鼓膜を小さく叩いた。彼が驚いた顔をしたのは、一秒にも満たない短い間のことだ。眉間に皺が寄って、その目が細められる。噛み締められた唇が、感情を押し殺していることを物語っている。
咽喉までせり上がった嗚咽を飲み下して、三月は、口端を持ち上げた。
「唯、僕はもう、死んでるんだ」
彼の瞳が湖面のように潤んで見えるのは、彼が泣き出しそうだからなのか、それとも自分の瞳に水の膜が張られているのか、今の唯には分からなかった。
星空を映した湖みたいに、煌きながら揺れる彼の虹彩。唇を震わせながらも優しく笑って送ろうとしてくれている彼へ、手を伸ばさずにはいられなかった。
だが、唯が伸ばした手は三月に掴まれる。
「三月……っ!」
「どうか幸せになって。唯」
引き寄せられた刹那、その耳元で三月が笑った。唯の胸の内で心臓が暴れる。堪えられるはずのない涙が、唯の頬を濡らした。
唯から手を離すと、三月は幼子のような顔をした唯の両肩を、強く押した。突き飛ばされた唯はマンホールの中へ落ちていく。
遠ざかっていく彼の笑顔に手を伸ばしても、手の平は風に触れるだけ。見えなくなった彼の姿を求めるように、喉を裂きそうなほど悲痛な声が溢れさせた。
「やだよっ……お兄ちゃぁあああああん!!」
暗闇から響いてくる、妹の声。
それを耳に留めながら、三月は、小さく笑った。マンホールに背を向けて、家に戻ろうとしたものの、道の先から歩いてきた名無しの姿に足を止める。
「あなたが印を押してくれるとは、正直思っていませんでした」
「そんなに僕は冷たい奴に見えるか?」
「他人のために地獄を選ぶタイプではないでしょう?」
「そうだな。自己犠牲なんて御免だね」
苦笑した三月の瞳は、マンホールに向く。愁いを帯びた眼差しをちらと見てから、名無しは双眸を弓なりに曲げた。
「なのに、選んだんですね」
「……唯が僕の妹だと、お前が教えたんじゃないか。まあ、そんなことはどうでもいいから、早くしてくれ」
「なにをです?」
「地獄に案内しろって言ってるんだ」
忘れていた、とでも言い出しそうな顔を目にして、三月は小さく舌を打った。そんな三月の頭に、名無しの手が乗せられる。子供にするような手付きで、彼は三月の頭を撫でていた。
「そうでしたね。焼却処分、頑張ってください」
「頑張るのは僕じゃなくて火だ」
三月に手を振り払われ、名無しは心底おかしそうに笑声を上げる。
「それもそうですね。さ、行きましょうか」
「名無し。唯は、僕のこと、忘れるのか?」
歩き始めた名無しの斜め後ろから、三月の足音が響く。彼の、思いのほか軽い足取りに、名無しは一人ほくそ笑んだ。
「はい。きれいさっぱり。……悲しいですか?」
「いいや、よかった。……行こう」
名無しの影を追いかけていた三月が、ふと足を止めた。踵を返して、いつの間にか蓋が閉じていたマンホールを見つめる。ただ、スタンプカードと印池だけが、唯の残り香をそこに置いているみたいだった。
「ありがとう唯。少しだけ……愛がどういうものなのか、分かった気がする」
(九)
瞼を持ち上げて、真っ白な天井を見つめたのはたった一秒。唯は、すぐに上半身を起こしていた。何かを探すように頭を左右に動かすと、母親と目が合った。
自分の手が、母親に握られていたことに気が付き、母の存在を確かめるように、手を握ってみた。彼女の手の震えが、手の平から唯に伝わってくる。
「お母、さん?」
何故自分が寝ていて、母が泣き出しそうな目で傍にいるのか、唯は朧気な頭で黙考する。そうしている合間に、母は唯の名を呼びながら華奢な体に抱きついた。
「唯! もう、起きないのかと思ったわ……! よかった、よかった……! また、あの子の時みたいにっ、助けられないかと……!」
「お母さん……そっか、私、車に轢かれて」
自分の身に起きたことが、ゆっくりと思い起こされる。唯が思い出せるのは、テスト用紙を睨みながら歩いていて、車のライトを見た瞬間までだ。けれど、他になにかがあったような、忘れたくないことを忘れてしまったような、そんな感覚に襲われていた。
それでも、そのことについて話したいみたいに、唯の口は勝手に開く。
「あのね、お母さん。わた、し……あれ?」
「唯? どうしたの? どこか痛い?」
「ううん、違うの。なんでだろ。涙が、出てくる……」
「先生を呼びに――」
狼狽しながら立ち上がった母の手首を、唯が掴んだ。「私!」と一際大きな声が、母をしかと引き止める。枯れそうにない涙で頬を濡らしながら、唯は必死に言葉を紡ぐ。
「私っ……夢を、見ていたの」
「夢?」
「すっごく……暖かい手だった」
「え?」
「あったかくて、優しい手、だったの。でも、それが誰のものなのか思い出せない……」
母の手首から離れた唯の手が、膝の上に力なく落ちる。震え出した両手で、唯は、皺が出来るくらい強く、布団の上で拳を固めていた。
「思い出したいのに、全然思い出せないよ……!」
「……もしかしたら、唯のお兄ちゃんかもしれないわね」
「私の……お兄ちゃん?」
唯には一つ年上の兄がいたはずだった、と、いつか母から聞いた話を思い出す。その兄の名を、姿を、声を。誰にも聞いたことがないのに、全て知っているような気がした。
それなのに思い出すことが出来ない悔しさと悲しさが、唯の胸を締め付ける。息が詰まるような思いの中、手を震わせていたら、そこに母の手が重ねられた。
「お兄ちゃんが、こっちに来ちゃ駄目だって……あなたを戻してくれたのよ。きっと」
優しさと暖かさを孕んだ手の平に、唯は思わず落涙する。久しぶりに感じられる母の愛が、流れ込んできているみたいだった。その熱がどこか、欠けていた大切なものを思い出させてくるようだった。
何度も何度も目元を拭い始めた唯に、母が柔らかな音吐を落とす。
「唯、先生呼んでくるわね。お父さんにも電話して、唯が目を覚ましたって伝えてこないと」
「うん」
母が出て行って、室内は閑散とする。拭っても流れてくる涙を、拭うのはもうやめた。唯は、自分の手を真っ直ぐに見つめる。揺らぐ視界で、手を握り締める。そこに、忘れてしまった熱が残っているような気がしたのだ。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
届かない声を涙と共に落として、震える喉から息を吐き出す。
「心の瞳で……君を見つめれば……愛すること、それが……どんなことだか――分かりかけてきた……」
呟くように、口ずさむ。不思議と、歌いたい気持ちが、唯の中に溢れていた。何かに対する後悔が、喉元から歌を吐き出させる。涙声になりながらも、誰かに届けたいという思いがメロディーを奏でる。
嗚咽交じりの声で、唯は歌った。
――もう一回歌ってくれない?
そんな声が、唯の耳の中で響く。
「――いつか若さを、失くしても……心だけは……っ」
――聴きたいからじゃ、駄目かな。
確かにこの耳で聞いた声が、言葉が、響いては消えていく。いつかどこかで聞いたはずの声色を思い出せても、すべて泡みたいに弾けてしまう。
――どうか幸せになって。唯。
「っ決して、変わらない――……絆で、結ばれてる……」
流れるように、響いていた彼の声音。もう何一つ、思い出すことは出来なかった。
ただ、言葉で言えないような暖かさが、唯の胸に溢れていた。
(十)
真暗な部屋の中、カメラを前にして、名無しが一人、椅子に腰掛けている。彼が指を鳴らすと、スポットライトが差し込んだ。照明に照らされた名無しは、きちんとスーツを身に纏っており、足を組んで紳士的に微笑む。
「さてさて、唯さんはちゃんと現実に帰ることが出来、三月君は天国に行けて、僕は久々にいい事をした気分ですよ。……え? 三月君は地獄に行ったんじゃないのかって? そんなことはありませんよ。彼はちゃんと、愛を知ることが出来たのですから。恋をすることという課題は、ただ彼に愛を知ってもらいたかっただけなんです。彼は、兄妹愛というものを知りました。そんな彼を地獄送りだなんてそんな酷いことできませんよー。いやあ、彷徨ってた唯さんをナナシテーマパークに導いた甲斐がありました。ようやく三月君が転生できて、本当に良か――」
煌々と点いていたスポットライトが、急に消えてしまう。椅子から転げ落ちそうになるくらい動揺して、名無しはバランスを崩しながらも席を立った。光が差し込む先にいるはずの助手に、必死な声を上げる。
「ちょっと沙耶さん! 電気電気! 僕の格好いい姿を記録に残している最中なん――」
ひやりと冷たい指が、名無しの首筋に絡みついた。思わず「ひいっ」と息を吸った名無しが背後を窺ってみれば、無表情の沙耶が立っていた。
「うーらーめーしーやー」
「っぎゃあああああああああああ!」
「はーたーらーけーやー!」
「嫌だああああああああああああああああ!!」
読んで下さった皆様、ありがとうございます。
全四話と言ってしまったので四話で終わらせたのですが、おかげで四話目の文字数がとても多くなってしまい、申し訳ありません。
それでも、楽しんでいただけましたら幸いです。
ちなみに合唱曲『心の瞳』、作者は歌ったことないです(笑)
学生時代、他クラスが歌っているのを聞きながら、良い歌だなあと思っていました。
この作品は元々演劇の台本でして、唯役をやる役者になにか歌わせたいと思ったのがきっかけで歌う場面を入れました。物語に合っていて、優しく暖かい歌。パッと浮かんだのが心の瞳でした。
この物語を気に入ってくれた方の中で、心の瞳を聴いたことがないという方がいましたら、是非聴いてみてください。
あとがきまで長々と失礼しました!ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!