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chapter3/愛することだけはいつの時代も

          (四)


 スタンプカードを手にし、朱肉をスカートのポケットに仕舞った唯は、広い構内を見回しながらゆっくりと歩を進めていた。様々な遊具と民家ばかりが目に付くものの、スタンプが置かれている台などは見当たらない。


 下唇で上唇を押し上げ、細めた目を凝らして遠くを見据えてみたが、それらしきものを見つけることが出来ず、唯はメリーゴーランドを囲う柵へ寄りかかった。


「どこがポイントなのかな……テーマパークって言うだけあって広い……」


「こんなところでなにをして――……あ」


 軽快な音楽だけがずっと耳に流れ込んできていた中で、中性的にも聞こえるその声は、唯の意識をすぐさま引き付ける。唯に声を掛けてきたのは三月だ。


 三月はというと、唯が家を飛び出した後、苛立ちとも不快感とも取れる複雑な感情を持て余し、気分を変えるべく外の空気を吸おうと考えた。外といっても、テーマパークから出ることは出来ないため、音楽のおかげで賑やかな敷地内しか歩き回ることが出来ない。


 相変わらず、人の気持ちも考えずに楽観的なメロディーを流し続ける名無しのセンスに眉を顰めつつも、新鮮な空気を取り込みながら散策をしていたところに、唯の姿を見かけたのだった。


 だが声を掛けておきながら、三月はばつが悪そうに唇を噛み、顰め面を他所へ向けていた。


 そんな彼の横顔に、唯は何も気にせず、むしろ嬉しそうにその名を投げかけた。


「あっ、三月!」


「……さっきは、ごめん。無神経だった」


 一人が心細かったのか、唯は三月に飛びつかんばかりの勢いで詰め寄った。彼は一歩身を引いて、真っ直ぐに唯を見たかと思えば、気まずさを醸し出しながら目を逸らす。


 唯は今までスタンプラリーのことで頭が一杯だったために、彼と自身の間の妙な空気感を理解出来ず、その上彼の謝罪の意味すら掴めていないようで、かくんと頭を傾けた。


「えっと、なにが?」


「なにがって……人のことを叩いておいて忘れたのか?」


「……あ……なら、謝るのは私のほうだよ。ごめんね、三月」


 困ったように眉を下げながらも小さく笑う唯に、三月はわけが分からないと言いたげな、吐息に塗れた呆れ声を零す。


「なんで君が謝るんだよ」


「叩いたからに決まってるでしょ?」


「それは僕が悪かったからだろ」


「違うよ、私が悪かったんだよ。三月は死んでるのに、慰めてとか馬鹿なこと言った私が悪いもん」


 どこかむきになっている彼女に、三月もまた「違う」と重ねようとした。けれども水掛け論のように延々と続いて行くような気配が、彼の口を噤ませた。彼は仕方なさそうに、しかし自身の主張をも譲ることなく、適当にも思われる口ぶりで結論を出す。


「じゃ、どっちも悪いってことで」


「そうだ三月。私、死んでなかったよ」


「は?」


「なんか、今生死の境を彷徨ってるところなんだって。それでここに迷い込んじゃったみたい」


 嬉しそうに語る彼女に、三月は「へぇ」と漏らした唇で薄らと弧を描く。その唇が裏側で噛み締められていることを、彼女が知る由もない。


「へえ……良かったじゃないか。生きてて」


「うん!」


「で、ちゃんと帰ることが出来るの?」


「スタンプラリーっていう課題を終えたら帰れるらしいよ」


「ああ……楽そうな課題で良かったね」


 そう言ったものの、三月は、顔を顰めていくばかりの唯に小首を傾げた。溜息を吐いた唯がポケットから取り出したのは印池だ。


「私も最初はそう思ったんだけど、なんか、ここで大切な人を作ってその人にこの朱肉で印を押してもらわないと駄目なんだって」


「大切な人、か」


 ただ黒いだけの印池を眺めていた唯だが、音楽に掻き消されかけた三月の声があまりに儚さを孕んでいて、思わず彼を凝望していた。地面に向けられた彼の瞳は、そこを見ているようで何も見ていないような色をしている。


 どうしてそんな顔をするの。――唯の口から零れそうになった言葉はそんなものだ。けれど彼が亡くなっていることを思い出して、寸刻息を詰まらせ、結果として唯は軽率と判断した発言を慎めた。大切な人に、彼はきっと二度と会えないのだろう。


「三月の大切な人って、どんな人だった?」


 唯が微笑してそう問いかけたのは、単純に、彼に笑ってもらいたかったからだ。大切な人との楽しい思い出などを聞けたら、一緒に笑える。唯はそう思っていた。


「唐突だね。いないよ、そんな人」


「そう、なの? 私はお母さんとかお父さんとかだけど、ここにはいないから押してもらえないんだよね~」


 無表情にも見える顔のまま告げられて、唯はすかさず音吐朗々と、明朗快活に声を上げる。それでも三月は顔色一つ変えなかった。唯の声は彼の耳に、このテーマパークで流れている音楽と同じ音に聞こえていた。


 一度開いた口を閉じ、そうしてまた地面を見やった彼は、暫しの間の後に唯を正視する。元々鋭い彼の目は、真剣さを伴われて、研がれた切っ先のようだった。


「君はさ、生きていて楽しい?」


「う、うん……そりゃあ、もちろん」


「……そう」


「三月だって、生きてた時は楽しかったんじゃないの?」


 彼の瞳から鋭さが薄れて行く。僅かに伏せられた睫が、その双眸に暗い影を落としていた。生きていた時の記憶を思い出して、気分が沈んでしまったのだろうかと心配になりながら、唯は黙ったまま彼の言葉を待っていた。その間ずっと顔色を窺っていたら、柔らかに微笑んだ顔を上げた彼が、唯の視界に真っ直ぐ映り込む。


「さあね」


「……なに、その適当な回答。思い出とか話してくれても――」


「スタンプのポイントを探しているんだよね? 確か、こっちの方にあったはず」


「わっ、引っ張んないでよっ」


 手首を掴まれ、そのまま三月の進行方向へ連れて行かれる唯。その二人の姿を、少し離れた所から名無しが見つめていた。両手を双眼鏡のようにして目元に置いている名無しの姿は、さながら変質者といったところだ。傍らに立つ沙耶はまさに変質者を見る目で彼の背を射抜いていた。


「あれは……三月君じゃないですか。唯さんと仲良くなったんですかねー? なんか嬉しいですよ」


「お前は母親かなにかか」


「近いものがあるかもしれませんね。彼が赤ん坊の頃から知ってますから」


「そういや、あいつに出した課題はなんだったっけ?」


「死者に出す課題は三パターン。唯さんと同じスタンプラリー、なぞなぞ『傷がついたら溢れ出すものなーんだ?』に答えること、そして恋をすること。確か、僕が三月君に出したのは……」


 唸りながら記憶を遡っている名無しの横で、沙耶が煙草を口に咥える。取り出したライターで火を点けてから、それをポケットに仕舞い直した。ふ、と風に白い息を吹き出して、彼女は三月の課題に見当を付けた。


「恋をすること、か」


「……だったはずです。よく分かりましたね」


「女の勘だよ。っつーことは、丁度よさそうだな」


「いやいや、そうはいかないでしょう。あの二人では」


 顔を見回しても唯と三月の姿は見つからない。既に別の場所へ移動した二人を頭の中で思い出しながら、沙耶は無気力な声で言う。


「そうかぁ? 割とお似合いカップルじゃん」


「それはあなたの勝手な感想でしょう」


「ずっと気になってることがあんだけど」


「なんです?」


 突然の問いかけに、名無しは思わず色を正す。三月か唯に関する質問でも飛んでくるのかと思いきや、投げかけられたのはあまりに慮外なことだった。


「『傷がついたら溢れ出すものなーんだ?』って、答えなんなんだ? 血か?」


「……もっと捻った考え方出来ないんですか? ちなみに答えは言いませんよ。考えてみてください」


「けちだな。じゃヒント」


「傷ついてしまったそれは形を変えて溢れ出します」


 ぽっかりと開けた口の両端を下げて、今にも「はぁ?」と言いたげな相貌で、沙耶が名無しを睨め上げている。彼女が脅迫し始めそうな雰囲気を流しても、名無しは得意げな顔のまま首を左右に振っていた。諦めた彼女が頭をボリボリと掻き毟る。刺すような視線から解放されてすぐに、名無しは彼女の後方を眺望した。


「うーむ、わからん……なんなんだ?」


「沙耶さん! コーヒーカップ乗りましょう! 僕ずっと乗ってみたかったんですよ!」


「なんで乗ったことない子供みたいな顔してるんだよ。お前いつも乗ってんじゃん」


「えっ、なぜ知ってるんですか……さすがストーカー……」


「いや、一応お前の助手みたいなもんだし」


「とりあえず、今僕は休暇中なんですよ。コーヒーカップ乗りましょう」


 幼子のように輝いた顔を近付けられ、沙耶は一歩身を引く。口元に手を伸ばして煙草を取ると、それを地面に落とした。パンプスで踏みつけて火を消しながら、沙耶はとても楽しそうに破顔一笑した。


「おっし、じゃ先乗って待ってなー。私があのカップを満たせる量のコーヒーを淹れてきてやるから」


「何考えてるんですか沙耶さん!」


「冗談に決まってるじゃないか。さ、行っくぞー」


 賽の目みたいに、ころりと変わった沙耶の無表情へ、名無しは疲労感丸出しに項垂れた。


          (五)


 ジェットコースターの入り口の傍に、白と黒の縞模様で塗られた台が置かれている。その上に転がっているのはスタンプだ。三月が先にその台の目の前まで行くと、スタンプを手に取って唯の方を振り向いた。


「ここで最後」


 言いながら、三月はスタンプを唯に差し出す。彼女はそれを受け取って、台の上でスタンプを押した。


「すんなり三つも押せちゃった」


「あと一個、頑張ってね」


「三月、手伝ってくれてありがとう。血も涙もない人かと思ってたけど、優しいんだね」


 言ってから、唯ははっとして持ち上げた手で唇を隠した。親切にしてもらったのに、血も涙もない、は失礼だろう。慌てて弁解をしようとするも、三月がそれに腹を立てている様子はなかった。


 唯に礼を言われたからか、それとも優しいと言われたからか、彼は面食らっていた。


「……ただの気まぐれさ。暇だったし」


「そっか」


 言葉の通り、気まぐれや暇潰しのためだったとしても、初対面の相手にここまで付き合ってくれる人もそうそういないと、唯は思う。ふふ、と笑声を零していれば、彼がむっとしたように唇を曲げていた。


「……で? 最後の一個は、どうするつもり?」


「どうしようかなーって。君が押してくれる?」


「君にとって僕は大切な人? 違うよね。だから駄目じゃないかな」


 やけに冷たい声で突き放されたような気分になり、唯は眉尻を下げる。あからさまに低声を作られては、嫌だと言われているようなものだ。


 しかし刺々しく言い放つ前に三月は一瞬、唯の手にあるスタンプカードを取ろうとしていたが、その仕草に彼女は気付いていなかった。三月自身は、何故取ろうとしたのかということに疑問を覚えていた。そもそも彼女の課題を手伝ったことに対しても、何故という思いは彼の中で泳いでいた。不思議と彼女を助けようとする自分の手を、引き止めるために冷たい顔を作り上げていく。


 唯はまだ諦めきれないようで「でもさ」と口を尖らせた。そんな彼女の前に三月の手の平が出される。


「その朱肉、少し貸して」


「え? うん」


 印池が三月の手に渡ると、それは細められた彼の双眼に隅々まで観察されていく。唯にとってはなんの変哲もない印池を、三月は爆弾でも見るかのように険しい面差しで眺め入っていた。やがて彼が舌を打ち鳴らす。


「三月……? どうかした?」


「悪趣味だね」


 投げ捨ててしまいそうな勢いで彼は手首を動かしたが、そっと力を抜いて、唯の手に軽く乗せた。返されたそれを唯がまじまじと眺めてみるも、やはり変わったところはなにもない。


「普通の朱肉に見えるけど」


「ああ……君は死んでないから、その注意書きが読めないのか」


「注意書き?」


「そう。裏面に書いてあるんだけど、まあ、君は知らないほうがいいよ」


「なにそれ。気になる」


 裏側を見てみても、唯の目には文字のようなものは映らなかった。黒色をしているだけの面には模様すらない。頬を膨らませて印池とにらめっこをしていれば、三月の涼やかな声付きが耳朶を撫でた。


「君には関係のないことだから」


「確かに私は押す側じゃないけどさ……」


「ま、君はがんばってこの朱肉で印を押してくれる人を捜すといいよ」


「そういえば、三月はどんな課題なの?」


 優しさの欠片もない視線に、唯は気圧されそうになった。それでも毅然と見返せたのは、何よりも不服さが勝っていたからだ。彼は彼自身のことについて聞く度、冷たくあしらおうとする。それに納得がいかないと言いたげな唯へ、彼は首を傾けた。


「なんで?」


「だって、十七年もずっと終わらせれてないんでしょ?」


「……あの馬鹿か、沙耶にでも聞いたのか?」


「うん、沙耶さんに聞いたの」


 長い溜息は沙耶に向けて吐かれたものだろう。微かに吹いた風が、苛立ちを帯びた彼の息を攫っていった。不機嫌そうに遠くの空を仰いだ彼が開口したのは、それから一分ほど経過した頃だ。


「恋をすること、だってさ」


「こっ……恋!?」


「本当にふざけてるよね。だったら別の課題が良かった」


「私、その課題じゃなくてよかった……」


「……あのさ」


 ほっと胸を撫で下ろしてから、唯は三月の顔ばせを覗き見た。そこに薄らと浮かべられた微笑みは、罅割れた仮面のようだ。けれど唯はその罅を視認出来ない。気抜けた顔のまま彼の言葉の先を待っていた。


「学校は、楽しい?」


「へ? そりゃあ、楽しいよ? あー……授業は面倒くさいけどね。三月は、どうだったの?」


「……さあ」


 陽気な音楽に、彼の声は掻き消されそうになる。それでも、溶け消えてしまう前に、傍にいた唯の外耳道をちゃんと通っていた。触れることの出来ない風みたいに彼はまた唯の問いかけから目を逸らす。涼しげな面様に、唯が頬を膨らませる。


「またそうやって誤魔化す……ずるいよ君は」


「ずるい? 何が」


「だって、私には色々聞くくせに、私が聞くと答えてくれないんだもん。もしかして三月、学校嫌いだった?」


「そもそも行ったことないよ」


 無味乾燥な声遣いが涼やかに流れて、唯の瞠目を誘った。生前の彼がどんな風に生きていたか、唯には想像することしか出来ない。それでも、大切な人が居らず、学校に行ったことがないという彼が、どのような日々を送っていたのか、唯には想像もつかなかった。


 天真爛漫な唯でも、彼にかける明るい言葉が見つからなかった。


「……そう、なんだ。ごめん」


「なんで謝るのさ」


「なんか……私、ほんと無神経だなって」


「……そうだね、呆れるほどの馬鹿だ」


「ばっ……」


 瞬刻、彼に何を言われたのか分からなくなる。明後日の方向を見つめて、表情と言う表情を塗っていなかった彼の顔が、次第に楽しげな嘲笑で彩られていく。やがて自分が虚仮にされたのだと理解し、唯は片足を高く持ち上げてからそのまま地面を踏みつけた。


「馬鹿ぁ!?」


「事実じゃないか。あの歴史のテスト、僕でも分かる」


「なんでよ! 学校行ったことないくせに!」


「一応ここでも知識を得ることが出来るからね」


「だからって馬鹿呼ばわりはひどいよ!」


 喉を痛めるのではと心配になるくらい声を張り上げて、唯が怒号を飛ばす。三月は両耳を押さえて心底迷惑そうに渋面を作っていた。


「本当に君はうるさいな……君、ここにいた方が環境に優しいかもね」


「なっ……前言撤回! やっぱり血も涙もない最低男!」


「走って転ばないようにね」


 ローファーを高らかに鳴らしながら遠ざかって行く唯へ、三月はにこりと笑って軽く手を振っていたが、彼女が建物の角を曲がった途端、その手を下ろして笑顔の仮面を取り去った。近付いてくるヒールの音を辿り、振り返ってみれば、沙耶から乾いた拍手が送られる。


「お前あしらい方相変わらずうまいなー」


「で、何だ? わざわざ妙なジェスチャーをしておいて、特に用はないとか言ったらハンバーグにするぞ?」


 憤懣を滲ませた唇から、三月が吐き捨てたのは唯に向けていた声柄とは似ても似つかないものだ。彼にしては低い声で針を放たれるも、沙耶は眠たげな目の下でヘラヘラと笑っていた。


「だったらせめてメンチカツにして欲しいねぇ」


「まあどちらにしろ、お前の肉なんてまずそうだから廃棄処分だろうけど」


「お前……口の悪さ相変わらずだな」


「ありがとう。最高の褒め言葉だ」


「思ってもないこと言うなよ」


 口を尖らせられ、三月は唇をへの字に歪めた。口を尖らせたいのは自分の方だ、と思いながら、舌を打つ。


「用があるならさっさと済ませてくれ。大体、お前のせいで僕はまた唯に謝らなきゃいけなくなった」


「あー、そりゃ悪かったねー」


「思ってもないこと言うな」


「名無しに聞いた」


「なにを?」


「そんでもって、伝えろって言われた」


「だから何を?」


 真剣な視線が絡み合う。自身の課題に関することだろうかと思惟しながら、三月は沙耶を後目で見つめた。彼女の真面目そうだった顔立ちが、どこか楽しそうに綻ぶ。その直後に、三月の眉間に皺が刻まれた。


「さっきな、私なー、名無しとランデブーしてたんだよ」


「地獄絵図だな」


「あいつ、コーヒーカップ乗りながら私の手料理を口からリバースしてさ」


「そういう話いらないんだけど」


「どうやらあいつ、ゴーヤが嫌いらしい」


「無駄知識をどうも。本題に入ってくれ」


「入ってるさ。そのコーヒーカップであいつに吐かせたんだ」


「それはさっき聞いた」


「リバースの方じゃない。唯についてなんか知ってそうだったから」


 沙耶の口から唯と言う名が出され、三月は僅かに吃驚した。暫し息を飲んでから、興味がない風を装って「へえ」と零す。


「お前さ、唯のこと好きか?」


「まあ嫌いではないね。好きまでは行かないけど」


「おお、よかったよかった」


「なにが」


「お前の課題、恋をすること……だろ?」


「ああ」


「唯には、恋しちゃ駄目だぞ」


 陽気なメロディーの中で、彼女のその一声はあまりに場違いな色をしていた。今の沙耶は、まるで子供諭す母親のような顔だ。尤も、三月の目では、彼女が冗談でもなんでもなく真面目に話をしている、という風にしか映らない。


「しないと思うけど。まあ、ご忠告ありがとう」


「なんで駄目か聞かないんだな」


「彼女が生きている人間だから、じゃないのか?」


「まあそれもあるけど、違うよ」


「じゃあ、なにさ?」


「彼女が、お前の妹だから」


 刹那、三月は時が止まったように感じた。彼にとって不愉快なくらい明るい音楽が、止められたみたいに聞こえなくなる。しかしそれは錯覚に過ぎない。何の音も聞こえなくなるくらいに、彼は動揺した。


 数秒の間の後に落ち着いてから、沙耶の言葉を唇の裏で繰り返し呟いてみる。それでもすぐには理解が及ばない。微かに震えた唇の隙間からは、息に近いものしか出なかった。


「は……?」


「一応言っとくけど、名無しの情報だから間違いないと思うぞ?」


「……僕の、妹」


 呟きは風に吹かれて空気へ滲む。三月の中で、名状しがたい感情の混線が起きていた。一文字に引き結んだ唇を噛み締める。そんな彼をちらと見て、沙耶は青空に視線を投げる。


「ま、それを知ってお前がどうするかなんて私はどうでもいいけどさ。一応伝えたからな。あー……それと」


「まだ何か、あるのか?」


「恋をすること、なんて課題が、なんで出されたと思う?」


「……そんなの、知るわけないだろ」


「愛を知らない奴は、悲しい奴だから……と、私は思うんだ」


 春風に似た、柔らかな言の葉。それをふわりと舞わせて、沙耶はすぐに歩き出してしまう。ヒールの音が次第に、テーマパークのメロディーに消されていく。


 理由も分からぬままに騒ぎ立てている心臓へ、三月は手を伸ばした。そっと触れるだけのつもりが、シャツに皺が出来るくらい、その手に力が込められる。それが痙攣しているのは、込めた力のせいか、それとも、内側で喚き散らしている感情のせいだろうか。


「……愛、ねえ……?」


 揺れた声は不自然に跳ねた。三月は、滲んだ視界から目を逸らすように瞼を伏せる。必死に作った仮面は笑っていた。繊月を象った口元から、自嘲が溢れた。


          (六)


「おかーさん、ゆい、おにいちゃんがほしかったなぁ」

「いきなりどうしたの?」

「あのね、みくちゃんがね、お兄ちゃんに勉強教えてもらったり、遊んでもらったりしてるんだって」

「そう……」

「だから、みくちゃんいいなーって思ったの」

「……そうね。私も、あの子を産めたらよかったのに……」

「おかーさん?」

「ほんとはね、唯より前に、男の子を産むはずだったの」

「そうなの!?」

「産まれていれば、唯の一つ上のお兄ちゃんだったのよ。でも……お母さん、その子を産んであげられなかった」

「どーして?」

「……唯のお兄ちゃんを……助けてあげられなかったの」

「おかあさん?」

「ごめんね、唯……ごめんね。ごめんね……。三月、ごめんね……」

「おかーさんどうしたの? なかないで、ねえおかあさん……おかあさん」


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