chapter2/人は見てるけど
ほんのりと赤みを帯びた瞳を問いの方に向ければ、スーツ姿の女性が傍らに立っている。
胸元まで伸びた髪の毛は所々跳ねており、切れ長の目の下の隈も相まって、良い印象は受けない。しかし顔立ちと立ち姿は美しく、唯は数秒呼吸を止めていた。黙っている唯に痺れを切らせたのか、女性が再び口を開こうとした時、ようやくはっとした唯が慌てて立ち上がった。
「別に迷子というわけでは――いや、迷子かもしれないです」
「だろうねぇ。私は今、色違いモンスター見つけた気分だよ」
「はい?」
「これはあの馬鹿に報告するしかない、か」
独り言ちる女性に、唯は「馬鹿?」と問うてみたが、その声は届かなかったのか、彼女は伸びをして歩き出そうとする。
「さーてと」
「あの!」
腕にしがみつく勢いで距離を詰めると、彼女の眠たげな顔が振り向いた。
「ん、なにさ?」
「私、帰りたいんですけど!」
「お帰りのチケットは非売品なんだよね、残念ながら」
「ええっ! そこをなんとか」
必死さが前に出るあまり更に近付いてくる唯の鼻先を、女性が人差し指で軽く小突いた。数歩後退した唯へ、彼女は苦笑混じりに吐き出す。元々気怠げな声に、面倒くさいという意が滲んでいた。
「つか悪いけど、お前みたいなイレギュラーの返し方なんて分からないなぁ」
「い、いれぎゅらー?」
「そ。お前、死んでないからさ」
死んでいない、という言葉を噛み砕くように何度も反芻し、ようやくその意味を理解した唯の顔はとても嬉しそうに笑顔を咲かせた。
「ほんとですか!?」
「最初に言っただろ、迷子だとか色違いモンスターだとか。ここは死者しかいないはずなのに、お前からは死者の匂いがしない」
自然な仕草で唯の黒髪を一房掬い上げ、その香りを嗅いだ女性は小さく頷いた。戸惑いつつも唯は、自分の髪を引っ張って匂いを嗅いでみる。
「んん……? ええと、死者の匂いって……腐敗臭みたいなものですか?」
「いや、めっちゃ美味そうな」
「おいしそうなんですか!?」
「そう、例えるなら……カルボナーラ」
「カルボナーラ!?」
唯から少し離れた彼女は、何故か得意気に胸を張り、人差し指を唯に突きつけてきた。
「だけれども、後味はフルーティーなんだ!」
「唐突にまずそうになりましたけど」
驚愕と幻滅を織り交ぜたような表情を女性に浮かべられ、唯は自分が間違ったことを言っただろうかと黙考する。女性は、信じられないと言いたげに口元を歪めていた。
「お前カルボナーラにパイナップル入れないの?」
「入れませんよ!?」
「酢豚には入れるだろ?」
「ま、まあ……?」
「だったらカルボナーラにも」
「全くの別物だと思うんですけど」
「いや、同じさ」
即答されてしまうと気圧される。軽く身を引いて、素早く思考を巡らせ考えるも、唯にはカルボナーラと酢豚の共通点を見付けられなかった。
「ど、どこが?」
「どっちも美味い」
「同じの定義がとてつもなく広かった……」
真剣に考えたことを馬鹿馬鹿しく思い、疲労感を覚えて肩を落とす。そうして項垂れた唯の旋毛を、女性がぐっと押してきた。
「ポチッとな」
「痛いんですけど!?」
「で、なんの話してたっけ?」
「死者の匂いの話ですよ!」
頭を上げた唯が女性の手を振り払おうとすると、彼女は眠たげな顔のまま手だけを素早く引っ込めた。
「あー、クリーミーでフルーティーな香りから話が逸れて行ったんだな。……でもお前、少し匂うよ? もう死者と関わったのか?」
「そんなことは……あ、そっか。三月も死者、なんだ」
「あぁ、留年十七年目くらいの三月にあったんだねぇ」
「じゅっ、十七年!?」
十七という数字を、指を折って数えながら、唯は吃驚していた。なにしろ、唯が生まれる一年前から彼はここにいるということになるのだ。呆然としていたら、女性が胸ポケットから煙草とライターを取り出して、紫煙を燻らせ始めた。
「彼は未だ課題に合格出来ず、地獄に行くか天国に行くか決められない状態なんだよ」
課題。先刻、三月の家で彼が言っていた言葉を思い出す。女性の説明を受け、ようやく彼が何を言っていたのか分かってきた。
唯はぐるりとテーマパーク内を見回した。天国や地獄とは無縁そうに見えたが、白と黒を基調にした遊具は、それを意識して造られているみたいだ。
「地獄とか天国とか、本当にあるんですね」
「そうさ。きったない人間の魂は地獄に送って焼却処分。綺麗な人間の魂は記憶とかを浄化して、産まれてくる赤ん坊の中に届ける」
「……あの、地獄か天国かしか行けないんですか? 私、まだ死んでないんですよね? だったら元の世界に返して欲し――」
「さっきも言ったじゃないか。イレギュラーの返し方なんざ知るかって。だから名無しのとこに行こうとしてたんだよ」
女性の親指が示す先には、城のような建物が建っていた。遊具と同じく白と黒を基調とした美しい佇まいのそれに、『名無しのおうち』と丸い文字で書かれた桃色の看板が取り付けられている。それをちらと見てから、唯は彼女に向き直った。
「付いて行ってもいいですか? そのほうが話が早い気が……」
「んー……そうだね。じゃ、付いておいで」
ふぅと白い息を吐き出すと、女性はヒールを鳴らして歩き出した。
(三)
家主の存在は、玄関から廊下を進んですぐに見付けることが出来た。広いリビングのカーペットの上で、桃色のパジャマを身に付けた男性が、布団を抱き抱えて転がっていた。紐付きのナイトキャップもパジャマとお揃いの桃色で、その格好からして寝る準備は万全のように見える。
「さてさてー、休みの間どこに行きますかね~。……外出するのもいいですが、家でごろごろというのも悪くないです。んー……そうしますかね。やはりごろごろするのが一番ですよ! ごろごろーごろごろー」
「何してるんだ、そこの馬鹿」
一人で幸せそうに転がる彼の背を、女性がパンプスで踏み付けた。容赦なくヒールを押し付け、俯せ状態の彼から苦しげな声音が発せられる。入室した時点で抱いた感想が、唯の咽喉から思わず声として込み上げた。
「本当に変な人なんですね……」
「だろ? 溢れる変人オーラ半端ないだろ?」
「あのー、沙耶さん。僕、踏まれて喜ぶタイプではないんですけど」
喉から絞り出したような名無しの呻吟に、唯がはっとする。女性の名前を今更知り、自己紹介すらしていなかったことを思い出したのだ。タイミングを逃していた上、沙耶というらしい彼女も何も聞いてこなかった為、仕方がなかったろう。
そう考えている間にも、沙耶と名無しは楽しそうにふざけ合っていた。いや、沙耶が笑っているから光景自体は微笑ましく見えなくもないのだが、名無しからすれば苦痛以外の何でもないかもしれない。
「ああ、気にすんな。私が踏んで喜ぶタイプの人間だから」
「痛い! 本当に勘弁してくださいよ! 痛いんですって!」
「それにしてもお前、あれはないだろー。遅すぎるエイプリルフールか?」
「沙耶さん、僕の一張羅が汚れます」
「きったない床に転がってる時点で汚れてるさ。ってか、その馬鹿丸出しみたいなパジャマのどこが一張羅なんだ?」
名無しの職務放棄とも取れる発言に対して僅かながら苛立ちを覚えているようで、沙耶は踏むのをやめる気がないようだった。不機嫌そうな顔をしている彼女の袖を、唯が引っ張る。
「足どけてあげてください。きちんと話がしたいです」
唯に声をかけられてようやく、沙耶は舌打ちをしてから「仕方ないなー」と足をどかす。背中をさすりながら立ち上がった名無しは、小さな丸テーブルの前に置かれている木製の椅子に腰掛けた。パジャマ姿でも足を組んで格好付けることは忘れない。紳士的な笑みを口元に携えるが、沙耶に踏まれたことで機嫌はすこぶる悪いらしく、口端が引き攣っていた。
「……で、なんですか。僕のせっかくの休みを邪魔するなんて」
「分かんないのか? ……こいつ」
自身も座ろうと思ったのか、沙耶が室内を見回しながら唯に親指を向ける。名無しが座っている椅子以外に椅子が見当たらない為、沙耶は仕方なさそうに壁に寄りかかった。
玄関に繋がる廊下を背にしたままの位置で立っている唯をちらと見て、名無しがくすりと笑う。
「ああ、可愛らしい女の子ですね」
「そういうこと言ってんじゃない」
「綺麗な足ですねぇ」
「どこ見てんだお前」
「女子高生ってどうしてこう、短いスカートで僕を誘って――」
名無しが座っている椅子の背もたれに、沙耶の蹴りが炸裂する。顔面から床に飛び込むこととなった彼を軽蔑の眼差しで見下ろした沙耶は、すぐさま目元を柔らかく緩めてから唯に謝罪をした。
「あー、こいつ頭おかしいな、ごめんな」
「変人というより変態だ……」
「……なるほど、良いシャンプーの香りがします」
身を引こうとした唯に、這ったまま近付いた名無しが呟いた。床に両手を突いて立ち上がった彼の後頭部めがけて、沙耶が手の側面を振り下ろされる。
「なっ、何するんですか!」
「ん? お前の真面目スイッチを押してやった」
「そんなスイッチないですよ!」
「あれ、場所間違えたか? じゃあもう一発――」
「分かりました真面目に切り替えます!」
「ってか、もう分かっただろ?」
室内に漂っていた空気の変化を感じて、唯は身を強張らせた。部屋の温度が数度下がったようだった。唇を噛み締めた唯に向けられた名無しの顔は、数刻前と打って変わって真剣そのものだ。沙耶に対して「ええ」と漏らした声からも、ふざけた調子は取り去られている。
「死者はこんな良い香りしませんから」
「え、カルボナーラの香りがするんじゃないの?」
「あなたは今、生死の境を彷徨っている真っ最中ですね」
場の空気を無視した唯の声は、さらりと聞き流される。普段の唯ならばそれに不満を呈しただろう。だがそういった言葉を浮かばせないほど、名無しの言葉は彼女に吃驚を誘っていた。
「そう、なの?」
ここに来る前、沙耶に「死んでいない」と言われて安心したものの、今の唯は死を近く感じていた。何しろ、帰ることが出来ないかもしれないのだ。震えそうになっている唯を細めた瞳で見て、名無しは不満げに唸る。
「……なんで沙耶さんには敬語で僕にはタメ口なんでしょうか」
「私が美人でお前がゴキブリだからだろ」
「寝言は寝てからどうぞ。――僕からするとこのケースはとてつもなく珍しいです。生死の境を彷徨っていても現世にいるのが一般的です。死後の世界に迷い込むなんてことは、今までにありません」
胸を張ってふざけ調子で放った発言を流され、沙耶は溜息と共に楽しそうな表情を落とした。無感情に見える瞳でつまらなそうに名無しを見るも、彼女の語調は細く鋭い刃物のようだった。
「返してやれないのか」
「方法はあります」
死ぬかもしれない。唯はそんな思いで顔色を悪くしていく一方だったが、希望を見つけたように名無しへ詰め寄った。瞳も口も大きくしている様は、心から喜んでいることを明瞭に示している。
「ほんとう!?」
名無しは唯と同じような満面の笑みを浮かべない。困ったような、それでいてどこか悩むような色を眼に滲ませたまま、苦笑とも言える微笑だけを返した。
「僕の出す課題に合格して見せれば、もしかしたら、帰れるかもしれません」
「課題……それってつまり、死者共も現世に帰れたりするのか?」
「いえ、それはありません。生きている人しか通れない扉なんです」
「ああ、あの開かずの間のことか」
二人の会話を、鼓動を高鳴らせたまま聞いていた唯は、首を傾ける。
「開かずの間? なんか、七不思議にありそうですけど……」
「恐らくあなたが考えているものとは形状もだいぶ異なると思いますよ。さて、それではあの扉を開くために、あなたに見合った課題を出しますね。課題はスタンプラリーです」
「……え? それだけでいいの?」
もっと難しい課題が出されると身構えていたようで、唯はきょとんと目を丸くした。スタンプラリーという名称の、何か難しい課題なのではないかと警戒し始めた彼女に、名無しが渡したのは一枚の紙だ。
「はい。この紙をどうぞ」
「あ、ありがとう」
「ところで、あなたのお名前は?」
名無しに渡された名刺サイズの紙は、唯の見たことのあるスタンプラリーの台紙と似ている。紙の上方に『ななしのすたんぷらりー!』とポップなフォントで書かれており、その下に枠がある。
それを眺めていた為、唯は名無しの質問をしかと聞き取れなかった。確認するように「名前?」と呟いてみれば、彼が首肯した。唯はスタンプカードを両手で持ったまま、笑顔を咲かせる。
「私は、唯だよ」
「では唯さん、このテーマパークにある三つのポイントへ行って、スタンプを押してきてください」
「三つ?」
唯が眉を顰めたのは、スタンプカードには枠が四つあるからだ。疑問符の理由を感じ取ったらしい名無しが説明を続けた。
「四つ目のスタンプは、あなたにとって大切な人に押してもらってください」
「え……? お母さんとか?」
「このテーマパークにいる人でなければいけません」
「ここに知ってる人なんかいないよ?」
大切な人と言われて唯が思い浮かべられるのは家族や友人の顔だ。だけれど誰一人として命を落としていない。
顎に手を添えて悩んでいる唯を一瞥してから、名無しは席を立ち、テーブルよりも奥に置かれている棚の方へ足を進める。棚から白い箱を取り出すと、唯の正面に立った。
「祖父母や親戚、ご兄弟などもいない場合は、誰か大切だと思える人を作れば良いのです。さ、これをどうぞ」
渡されたのは、黒く丸い印池だ。開けば朱肉が顔を出す。蓋を閉めて、唯は名無しを見て言問う。
「なんで朱肉?」
「大切な人が出来た時、その人の指で押してもらってください」
「んー……とりあえず、誰かと仲良くなればいいんだね? 頑張ってみるよ! ありがと、名無し!」
印池とスタンプカードを強く握りしめ、唯は笑顔を残して廊下を走って行く。玄関から開閉音が響いて、しんとしてから、名無しは部屋の端に置かれている冷蔵庫を目指して歩いた。中から菓子を取り出そうとしている彼の頭に鈍痛が走った。彼を叩いたのはもちろん沙耶だ。
「痛っ……! なんですか!」
「なんで言わなかったんだ?」
いつもの戯れで叩かれたのかと思い、振り向いた名無しは面食らう。彼女の顔は真剣そのもので、微かに吊り上がった目尻はあまりに鋭い。名無しはそれでも微笑を崩さず、袋に包まれたチョコレートを手にして冷蔵庫を閉めた。
「なにをです?」
「印を押したら、押した奴は地獄行き確定になるって」
「……何故知っているんですか?」
自身しか知り得ないと思っていた事柄を、さらりと口に出され、椅子に腰掛けた名無しの唇が歪む。名無しの肩口から彼の視界に差し込まれた沙耶の手は、白い箱を摘んでいた。
「これに書いてあった」
それは、朱肉が入っていた箱だ。唯に印池を渡してから、自分の手で持っていたはず――と考えてみたものの、名無しはそれをどこかに置いた記憶も仕舞った記憶もなく、事実として今彼の手にはチョコレートしかない。いつの間に手から抜き取ったのだ、と見張った瞳で問いかければ、沙耶は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「スリの達人と呼ばれたこの沙耶様をなめるなよ」
「いやいや、呼ばれたことないでしょう?」
「私が脳内で自分をそう呼んでる」
「ずいぶん痛い人ですねあなた」
「そんなに褒めるなよ。お礼に目潰ししてやるよ」
「えっ」